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<第2回応募作品>『待ちあわせ』著者:神永 光太郎

 池上院の脇からS字の急坂を登る。登りきった左手にはイヌツゲの生け垣、後ろには修道院の高い塀が続く。長く緩い下り坂が始まる。道は雑木林に入る。木々の間を夏でも涼しい風が吹き抜ける。坂が尽きる。小さな横断歩道を渡る。そこはもう深大寺の一角である。
 大島綾子は高めのサドルからずり落ちるように自転車を降りた。前後輪それぞれにチェーンを巻きつけて立ちあがる。綾子は深大寺の山門に向かって歩を進めた。
 二軒目のそば屋を過ぎたところで、綾子は道端の池に目を遣った。右肩にかけた帆布鞄を右手で探り、古めかしい小ぶりのカメラを取り出した。
 ファインダーの中には、池の真ん中の岩の上にたたずむクサガメの一団があった。綾子はレンズをねじってピントを合わせると、そのままカメラを左右に動かした。うまい構図がなかなか決まらない。
 その時、「大島さん!」という声がした。驚いた綾子はカメラから目を離し、声の主を見やった。
 「何だ、本橋くんか」
 「何だ、って…。ま、いっか」
 本橋渉は笑顔で応じた。渉は綾子の大学の同級生である。渉のTシャツの首周りは少しよれて伸び、汗がにじんでいる。
 「本橋くん、何してんの」
 「散歩、かな。っていうか、大島さんこそ何してんの」
 渉が気づくと、綾子は口元を緩め、カメラを構えて渉に正対していた。
 「撮ってあげるよ」
 「いいよ、こんな格好だし、いいって」
 「いいから撮るよ、はい」
 綾子は人差し指の腹で静かにシャッターを押した。金属音が響いて渉のぎこちない笑顔が残った。
 「撮ったよ!」
 綾子は手元を見ながらフィルムをゆっくり巻き上げた。
 「俺、地元なんだ。大島さんも近く?」
 「あたし柴崎。自転車なら近いかな?」
 綾子は初めて渉のほうを見て答えた。渉は無防備な笑みを目元と口元に浮かべて綾子を見返した。綾子の表情もつられて緩んだ。綾子は西日を見上げるようにして言った。
 「暑いね。アイス食べよっか!」
 二人は門前の正面、甘味屋の軒先の縁台に並んで腰かけた。綾子は宇治金時アイスの黒蜜がコーンの端からこぼれないように手元を注視しながら渉に言った。
 「本橋くん、ご近所なんだ。いいね」
 「俺、朝よく来るよ。朝はいいよ」
 「朝! すごい! あたし朝は起きられないなぁ」
 「朝はいいよ。静かだし、涼しいし。いい写真も撮れるかも」
 渉は綾子との予期せぬ出会いが本当に嬉しかった。端的に言えば、渉は前から綾子が好きだった。綾子が自分にあまり関心がなく、そして自分の気持ちにも全く気づいていないことは承知していた。それだけに、渉は深大寺でのこの出会いをきっかけにできないかと考えたのだった。
 「そっかぁ、じゃあ朝に来ようかな。でも朝かぁ」
 「朝なら、猫とかいるよ。猫ポイント、案内できるよ」
 「猫っ!」
 綾子は今日初めて正面から渉の顔を見た。
 「行く行く、教えて! あたし、猫写真撮りたい!」
 正面から見つめられたこと、さらに綾子との近い再会が約束されたことで、渉はいちどきに幸福感におそわれた。
 「いつがいい? 俺、いつでもいいよ」
 「うーん、でも、あたしもいつでもいいけど、やっぱり起きられたらってことでいい? あたし、夜型だから、努力はするけど・・・」
 渉は落胆した。それは表情に出たようで、綾子はあわてて言い足した。
 「がんばる、がんばるから。でもダメだったらごめん。あ、メルアド教えて。ダメだったらメールするね」
 「了解。待つ待つ」
 渉は自分の携帯画面にアドレスを表示して綾子に見せた。綾子も自分の携帯を取り出してそれをメモした。と、綾子は現在時刻の表示に気づき、弾かれたように立ちあがった。
 「あたし、もう時間だ。バイトなの。自転車だし、先、行くね。明日、がんばるから、じゃあ、ね!」
 綾子は軽く手を振って、もと来た参道を小走りで行ってしまった。渉は立ち上がる間さえ逸してしまい、「じゃあ、また」というので精一杯だった。
 綾子の自転車はフレームもタイヤも細い。三鷹通りを渡り、中央道を橋で越え、野草園脇の坂を軽快に下っていく。急ぎながら綾子は今日の出来事を反芻していた。
 「本橋くんかぁ…。ちょっといいかも。少しダサいけど、まあイケメンだし、いばってないし…」
 今日、綾子は渉の好意に気づいた。素直に嬉しかった。ただし、綾子の理想の恋愛は、自分の片思い相手からの運命的な告白で始まらなくてはならなかった。しかし、現時点で片思いをしているのは渉のほうだった。
 「でも、優柔不断そうだし、カレシっていうにはちょっと…」
 綾子は頼りがいがあり、自分を引っ張ってくれる男性に憧れていた。しかし、渉は控えめで遠慮がちだった。綾子の理想にはほど遠かったのである。
 さて、渉は確かに朝型だった。しかし、実際に毎朝の深大寺詣でを始めたのは、綾子と会った翌日からだった。渉は毎朝、綾子の存在を期待して急な石段を駈け上がり、境内を見回す。しかし、綾子はいない。渉は気落ちしながら石段を下り、門前のベンチに腰掛ける。携帯の画面を眺めて正確に七時半まで綾子を待ち、重い足取りで帰路につく。これが一週間繰り返された。
 一方、綾子は何をしていたのか。端的に言えば、綾子は起きられなかった。渉と逢うという理由で起きることはできなかったのである。
 深大寺での約束から八日が過ぎた日、綾子は夏風邪をひいた。防犯のため、綾子は一人暮らしのアパートの窓をいつも閉め切って寝ていた。当然、夏はエアコンに頼りきりになり、寝冷えしてしまった。綾子は家でひたすら寝続けて治すことに決めた。熱はあったが、このくらいなら数日で完治しそうだった。
 昼過ぎ、綾子は着メロで目を覚ました。寝ぼけ眼で画面を見る。光一からだった。
 村野光一は綾子の写真サークルの一年先輩である。端正な顔、都会的で洗練された身なり、カメラの豊富な知識、それらが醸し出す雰囲気、全てに綾子は惹かれていた。
 綾子はひと月ほど前から光一と一対一でメールをやりとりすることに成功していた。そしてついに今週の初め、光一はとあるバンドのライヴに綾子を誘った。彼らの曲は趣味ではなかったが、綾子はもちろん承諾した。ライヴは今日の夜九時開始だった。待ち合わせの詳しい場所と時刻は電話で決めることになっていたので、おそらくその電話だろう。
 着メロはぷっつり切れた。またすぐにかかってくるだろうし、かけ直してもよい。綾子は短い時間で考えに考えた。今の体調でのライヴ同行は想像するだけで綾子に疲労感をもたらした。どうしよう。
 ふと考えが浮かんだ。先輩は自分のことをどう思っているのだろうか。風邪の自分とライヴ、先輩はどのような選択を下すのか。綾子は光一を試すことにした。
 再び着メロが鳴り、綾子は即、電話に出た。想像通りの用件だった。綾子は、熱が三八度位あること、ライヴには何とか行けそうだが正直つらいことを話し、光一の答えを待った。
 「何だ、風邪かぁ。腹でも出してたのかぁ、ハッハッ。でも、しょうがねぇなぁ。俺、今から誰か誘ってみるわ。じゃ、おだいじぃ!」
 恋する綾子は光一の声に失望感を聴きとろうとした。しかし、綾子こそ落胆していた。自分への気遣いどころか、風邪をひいたこと自体もからかわれていたように思えた。気分はいちどきに重くなり、綾子はもはや寝るしかないと思った。
 綾子はふと渉を思い出した。渉のことは忘れていたわけではない。単に起きられず、気まずくてメールを出しそびれていただけだった。だとすれば、風邪をひいたまさに今がこれまでのすっぽかしを詫びるメールを出すのに好都合だ。綾子はすぐにメールを出した。
 「カゼひいちゃった(^_^;) 明日もダメそうです いつもすっぽかしてゴメン<(_ _)> もう待たなくていいよ」
 と、思わぬ速さで渉から返事が来た。綾子は驚き、そして文面を見て、嬉しさがこみ上げてきた。
 「カゼ心配です! 大丈夫? おれ、何かできるかな?」
 「気持ちだけで十分! ありがとう(^o^)」
 綾子にしてみれば、彼氏でもない渉を使い走らせたり、家に上げる気にはなれず、こう答えるほかなかった。すると返事が来た。
 「実はうち畑があって野菜あげられます カゼにいいかわかんないけど、どう? 家には上がりこまないので安心してください ストーカーとかじゃないです(T_T) 柴崎一丁目のファミマなら10分くらいでいけますが?」
 渉の提案は押しつけがましいものの、綾子の立場をかなり尊重するものだった。やりとりそのものにおいても気遣いがあることに綾子は嬉しくなった。
 十五分後、綾子は約束のコンビニに現れた。コンビニは自宅アパートから二、三分のところにあった。やはりTシャツに短パンでサンダル履きの渉がそこにいた。心配そうな心持ちが張りついた渉の笑顔はどうにもぎこちないものだった。
 「大丈夫? よびだしてごめん。とりあえずうちのじいさんの野菜持ってきた。よかったら食べて」
 渉はトマトとキュウリでいびつにふくらんだ大きいレジ袋を手渡した。
 「ありがとう。野菜の濃いにおいがするね」
 「もしかして重い?」
 「大丈夫! 本当にありがとう」
 実は袋はなかなか重かった。それでも綾子は嬉しかった。
 「お大事にね。深大寺はまた良くなって、気分が向いたら来てみて」
 「今度こそがんばるから、すぐ治るから待っててね。ありがとう。じゃあね!」
 綾子は歩き出した。足取りは重かったが、気分は軽かった。綾子は本気で早起きを決意した。昂揚した気分が風邪の熱と相まって、綾子の頬はすっかり赤く染まっていた。それを見られるのが気恥ずかしくて、綾子は振りかえらなかった。
 三日後の午前七時、渉は深大寺の門前のベンチに腰掛けて、キキョウの花を眺めていた。もはや渉は愚直に待ち続ける自分が頼もしく思えるようになっていた。
 「本橋くーん、来たよ!」
 渉は耳を疑った。振り向いて左を見た。渉の眼に、参道の先、自転車に跨って手を振る綾子の姿が映った。

神永 光太郎(東京都調布市/31歳/男性/教員)

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