*

<第2回応募作品>『追憶』著者:渡会 瑠璃

 バスを降りた途端、滝のような汗が流れた。日差も肌をジワジワと焼いている。日傘をさしていてもいてつく太陽の光が痛い。もう少し涼しかったら……。横を見ると妹の葉月も憔悴した顔で歩いていた。「私は夏が大嫌い」と彼女が豪語するように、夏の日中に一緒に歩いていて、楽しいと思ったことがない。覇気がなくて、今にも倒れそうで、その姿を見ただけで暑さが倍増する。
「もっと体力つけたら?」
茂絵がハンカチで汗を拭きながら言うと、葉月はその場に立ち止まった。葉月が怒ることが分かっているのに、口から言葉が迸るのは暑さんのせい?暑さは人の理性も人の命も奪う。昨年の夏、母はその夏に命を奪われた。ほんの数日前まで、元気だった母が突然、私達の前から姿を消した。信じられなくて、暫く何もすることが出来なかった。10年前に交通事故で父を亡くし、母は女で一つで私達を育ててくれた。
「葉月」
 私は葉月の顔色を伺った。
「何?」
 葉月は一瞬、私を睨み付けたが、直ぐに笑顔になった。
「お姉ちゃん、帰りにはおそばを食べて帰ろうね」
 葉月は、バックからペットボトルを取り出し、一口スポーツドリンクを飲んだ。あの日から、暑い日に外出する時、私達はスポーツドリンクを欠かしたことがない。
私は「そうだね」と言い微笑みながら、「そんなことより私達には、しなければいけないことがあるでしょ」と言う言葉を飲み込んだ。ここへ来るまでに葉月は随分苦しんだのだから。私だって母が生きている間に、母の口からそのことが聞きたかった。
「前に友達と来た時、一反もめんのメール隠しのシール買ったじゃない。お姉ちゃんも買ってお揃いにしよ」
「いいよ」
 葉月が無理にはしゃいでいるように見てとれた。私はそう答えながら、一年前、ゲゲゲの鬼太郎グッズを集めることが好きな葉月が、大学の友達とこの深大寺へ訪れたことを知った母の言葉を思い出していた。
「深大寺のじんって、深いっていう字を書かない?」
 母は言った。
「どうして?」
 私は訝しげに母を見た。
「何となく頭に浮んだだけ」
「じんって聞くと、普通は他の字をイメージするんだけど」
 母はその一ヵ月後に深大寺へ行く途中、正確に言えば、吉祥寺駅前で深大寺行きのバスを待ちながら、熱中症になり、病院へ運ばれ、その翌日帰らぬ人となった。
 私達は、倒れたことの連絡を受けるまで、母が深大寺へ行こうとしていたことを知らなかった。母は、一人でお寺や神社を訪れたことはない。父のお墓参りを除いては。その母が深大寺へ行く途中に死んでしまったのだ。私達は連絡を受け取っても、病院で母の青ざめた顔を見るまで信じられなかった。その母がその数時間後に息を引取った。母と引き換えに私達の手元に残ったのは、10号程の油絵だった。そのモデルは若い頃の母のような気がするが、見覚えがなかった。
私達は狐に摘まれた気持ちのまま、お葬式をして49日を迎えた。
 そんなある日のこと、母宛に一本の電話が入った。その相手は男性だった。母も死に、父も10年前に亡くなっているが、快く思えなかった。母が不純に感じた。
「母は亡くなりました」
私は冷たく言った。
「茂絵(もえ)」
男は躊躇いがちに言った。
「もう母は亡くなったんですから、ご用がなければ電話を切らさせて頂きます」
 知らない人間に呼び捨てにされたのが許せず、電話を切ろうとすると男が早口になった。
「僕が茂絵の実の父親なんだ」
 私の頭は母が死んだ時のように真っ白になった。
「イタリアへ絵の勉強へ行っていたんだ。でも、お腹の中に子供がいることを知らなかった。あいつは何も話してくれなかった」
「私の父は10年前に亡くなりました」
 私はきっぱりと言ったが、手が小刻みに震えていた。
「彼と僕は大学時代の親友だった。二人が結婚したことを聞かされたのは、イタリアへ行って半年した頃だった。結婚したから、もう二度と連絡しないで欲しいと言われて……」
「なぜ今更、私達の前に現れるんですか?」
 怒りで顔が熱くなった。男が答えを返すまでに暫く、時間が掛かった。
「僕は癌なんだ。たぶんもって2ヶ月。だから、死ぬ前にお前達に一目会いたかった」
 私は何と返事していいのか分からず、そのまま電話切ったが、少しの間そこから動くことが出来なかった。
 葉月はそんな様子を見て心配そうに駆け寄って来たが複雑な感じがした。私達が姉妹であることには変わりないが、父親が違うなんて想像したこともなかった。
「葉月、私、私ね。お父さんの子供じゃなかった」
 私は声を上げて泣いた。この事実を一人で受け止めるには辛すぎた。それを聞いて、暫くの間、葉月も声を発することが出来なかった。まだ、20歳の誕生日を迎えたばかりの葉月にも、耐えがたいことだった。二人で声を上げて泣いた。母に裏切られたような感情と父に対する申し訳なさと自分に流れている血が許せなかった。
「お父さんは、それでもお母さんと結婚したかったんだ。お母さんのことを愛していたんだ。でも、お父さんが死んでからだし、その人も癌で幾ばくもないんでしょ?それに今まで考えたこともなかったけど、お姉ちゃんの本当のお父さんなんでしょ。会ってあげなよ」
 葉月の瞳の奥が再び涙で曇った。
 私は葉月の勇気を借りて、あの男、つまり私の本当の父親に会った。私と母を捨てた男。父親だと言われても実感が湧かなかったが、切なさが込みあげて来た。実の父親だと思うだけで胸が詰まった。父はとても家庭思いの人だった。あの男は自分の才能に人生を賭けるようなタイプだった。でも、母はあの男を憎んでいたのではなく、その才能を一番愛していたような気がしてならなかった。
父はそんな母を愛していたのだ。全てを受け入れるという証として、私の名前を茂絵と書いて、もえと読ませた。茂は、男の名前で、絵はあの男が一生を燃やしたもの。
 男は帰国後、名声を得て、死ぬまでの数年間は、この深大寺周辺を描いていた。ここはあの男の生まれ故郷だった。そのことを知っていたから、母はこの寺に来ようとしたのだ。
 私達は、無言で参門を潜った。あの日、母が持って来ようとした絵を奉納するためだ。私は最後の最後まで、この絵を男に渡せなかった。それを今日、ここへ納めようとしたのは、葉月の一言からだった。
「お姉ちゃん、あの絵を深大寺に持って行こうよ」
 だから、母が亡くなった今日という日を選んだ。
 私達は日傘を閉じ、絵を賽銭箱の前に置くと、手を合わせ冥福を祈った。それからその場に暫く佇み、後ろ髪を引かれるような思いで、その場を立ち去ろうとすると、一瞬、全ての時が止まったような不思議な感覚に襲われ、絵から若い頃の母が抜け出したかと思うと走り出した。母の姿を目で追うと、参門の所で男が立っていた。母はそのままあの男の胸に飛び込むと、私達の方を向いて微笑み、跡形もなく消えて行った。その後、私達は口を利くことも出来ぬまま、境内にある池の辺へ行った。そこには木々があり、回りには山から流れる水がそのまま流れ、暑さを忘れさせてくれた。
「お父さん、焼き気持ちやかないかな?」
 葉月は複雑な表情で私を見た。
「大丈夫、二人はこの世の中で充分幸せだったから」
 私はそう言いながら、微かに涙が流れた。そんな二人を静かに見詰めるかのように、おにやんまが池の周りを飛んでいた。

渡会 瑠璃(埼玉県さいたま市/女性/会社員)

   - 第2回応募作品