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<第2回応募作品>『赤い糸』著者:五十嵐 文秋

 その日はヤケに蒸し暑く寝苦しい夜で、転寝ともつかない浅い眠りから目覚めた。汗ばんだ額を手でぬぐうと顔に繊維が纏わりついた。何だろう?
 月明りにそれをかざして見ると青白い私の小指に糸が巻きついていた。
 サイドテーブルの上のデジタル時計は真夜中の三時をさしている。テーブルの脇のスイッチを押すと読書用のスポットライトがテーブルの上の束ねた糸を照らした。それは安っぽい女物のセーターみたいに見えたが私の指に絡みついた赤い繊維と同じ素材だった。不意に、昔バイトで知合った年上の女性の話を思い出した。ちょっと気味が悪いがその話を思い出さずにはいられない。内容は彼女が結婚する数日前に見えた赤い糸の話しだった。
『私は結婚式の数日前に赤い糸が見えるようになったわ。うわー本当にあるんだってちょっとビックリしたの。だって、ある日突然でしょ。その糸はすごい長くて、ああ、この糸をグルグル何かに巻き付けてひっぱったら私の運命の人が釣られてやってくるんだわと、喜んで引っ張ったわよ。もしかしたら今の彼より良いのが現れたらどうしようって複雑な気分だったけど・・でもね、引っ張ってもびくともしないの。歩いて手繰り寄せながらじゃなきゃ駄目だった。あれよトローリング?陸上でカジキマグロ釣ってる心持がしたわよ。数メートルぐらい歩いて引き寄せたのね。不思議な事にその糸って、歩いていくと10メートルくらい先からは見えないの。10メートル先に地平線があるような感じ』で、で、どうしたんですか?と私は嫉妬と失笑の混じりあった仲間の誰よりもその話しに食いついた。『・・・結婚式の前って、物凄い忙しくってさあ、そんな訳の分らない物を探ってる暇無いのよ。本当よ。ジャックと豆の木じゃあないけど、そんな訳の分らないものにしがみついちゃ駄目って話し』
ベッドに腰掛け糸を手繰った。ぴんと張った糸は部屋の薄暗い空間に飲み込まれその方角のさす先は部屋の玄関だった。 私は赤い糸を傷つけないよう注意しながら寝巻き代わりのTシャツを引き裂き、チューブトップに白いボレロを肩にかけ、髪を束ねた。糸を手繰りながら玄関で靴を履いた。糸はスチール製のドアにはさまれている。糸の束を左手に巻きつけテンションを緩めずにそっとドアを開けた。弛んだ糸を左手に巻付ける。なんだか漁師になったようで笑える。部屋を出て通路に立ち、糸の行方を確認した。それはマンションの壁に緩やかな弧を描き階段の先に消えていた。階段を下りると目の前の通りは旧甲州街道だ。彼女の言う通り10メートル先は見えない。糸は府中調布方面と書かれた青看板の辺りで見えなくなっていた。真夜中にうろついた事が彼にバレルとちょっと厄介だ。本当は今日、私を地元の友達に紹介する予定だったのだが私は辞退した。知らない土地で更に知らない人達に気を使ってアホみたいにニコニコしているのが苦痛だった。この時間だと奴はタクシーで帰還か、それとも明日の昼頃酒臭い息で帰ってくるかのどちらかだ。おそらく前者はあり得ないだろう。勝手にしろと捨て台詞を吐き彼は出て行った。見知らぬ土地に彼女を一人置き去りにしても平気なのだろう。
 そういう態度にかなり幻滅した。
 もしかしたら後、ホンの数メートル勇気を出せば白いタイツを履いた巻き髪にフリルのシャツの王子様が現れるかもしれない。
 看板の傍まで来ると更に赤い糸は十数メートル先を指した。此処にきて移動は殆ど彼の車だった。助手席の車窓から見る街の景色を一人であるいて見ると本当に知らない場所に来てしまったんだと思う。この先の道を幾ら歩いても私の故郷のあの町には辿り着けないのだ。そういう私の選択が間違っているのか正しいのか今は良く分らない。そういう不安をこの不思議な糸に託してみたくなった。
 運命の男がこの糸の先にあるのならいつでも乗り換えてやるつもりだ。
 それからしばらく歩いた。
 左手に巻きつけた糸は素人の使うボクシンググローブほどに膨らんだがそれ以上大きくも小さくもならなかった。昔の仮面ライダーにこんな左手をしたキャラがいたが何て言う名前だったかしら? 何か考え事をしないと腕や腰がギスギス痛むのが気になる。メインの大きな通りを背に、私は川沿いの道を歩いている。聞きなれない野太い声のカエルの鳴き声がした。さすがに気味が悪い。蛙じゃなくって物凄い人数のオジさんが川面から顔を出して唸って居る姿を想像し怖くなった。川面のタールみたいな密度の濃い闇は私の恐怖心にメープルシロップのようにトロリと絡みつき、川面からにゅっと出たオジサンの顔は全てケーシー高峰の顔という最悪な想像をしてしまった。戦慄した。道を引き返そうと思ったがカエルの鳴き声に臆して、結局今のお前のパパと結婚したのよ…と子供に言う自分を思い勇気を奮い立て走り出した。ただ糸だけを頼りにしばらく走ったが蛙の鳴き声は依然続いた。怖くて後ろを振り返る事は出来ない。視界に広がる空の一部が無彩色に明けているのが見える。夜明けが近いのだろうか?
 草木が茂る川沿いの道は古い黒澤映画のオープニングのような色をしていた。川面にはススキが群生し、時折鳥か何かが飛び立った。モノクロの景色の中でただ赤い糸だけが生々しく私の行く先に伸びている。糸は何本目かの橋で鋭角に右それその後の道筋を示した。ようやく川沿いの一本道から離れ気が緩んだ私は立ち止まった。此処から見える赤い光の線は。グラウンドに引かれた石灰のように太く発光していた。その先は木々に囲まれた道である。交差点に設置された信号機が赤く点滅し穏やかな赤い光りを放っている。私は懐かしい身内に合ったような思いをそれに感じた。そしてもうすぐこの奇妙な旅の終わりがくる事を予感した。
静まりかえったアスファルトの向こうに、豊かな葉をまとった木々が、空を覆い隠している。
 影絵の切り抜きのような木の葉のフレームから灰色の空が見えた。暗い所で見ると糸は余計鮮やかな色をした。いったいあと何キロ歩けばいいのだろう? 通りは水車小屋と古い作りの建物が見えた。その少し先にバス停が見える。バス亭に歩み寄り書かれている文字を立ち止まって見た。深大寺正門前と書かれていた。石畳を中心に左右に瓦葺の木造の建物が見えた。建物の窓ガラスに街灯の弱々しい光を映している。石畳を更に奥に進むと寺の山門らしき物が見えた。門は閉ざされている。他にも通りに見える建物は全てクローズされていた。キッチリ整理され、乾物屋の倉庫みたいに質素で、清潔でしかも辺りの景色が心地よく古びている。出来れば昼間の内にまた此処に訪れて見たいと思った。微かな虫の鳴き声が聞こえ、風に植物の葉が擦れ合う。耳を澄ませた。風に乗って何かの気配を感じた。一瞬、体の中心が泡立つ。炭酸飲料の気泡のような物が皮膚表の表面に上りつめ、弾け、ざわついた。
 それは何かの歌のフレーズを口ずさんだ物なのか良くは分らないが、泥酔した人間の持つ特有の音階のズレである。
 呪文みたいだ。
 位置は確認できないが静寂の中で粗暴なエネルギーの固まりを感じた。それは近づきつつある。
 こんな所で酔っ払いに出会ったら怖くてもう前に進めない。
 矛盾しているが私は心の中で助けてと、彼の名を交互に百回以上叫びながらどこか身を隠す場所を探した。口を両の手で押さえ、身を屈めた。
 スニーカーが砂を噛むと以外なほど大きな音がした。あろう事か糸が足に絡みつき私はその場で転倒してしまった。残りの赤い糸はバス停のベンチの足から山門へ向けてやや斜めの線を描き、残りは絡まったままだ。
 複雑に絡み合った糸は赤いボールペンでむちゃくちゃに書いたジオメトリックな花のようだった。
 花弁に両足が絡まり、物凄い足の短い同級生と二人三脚をやっているような事を一人でやりながら、脇の木に身を隠す。そこから正門を見渡す事ができた。人影は見えない。絡まった糸から足を取りだそうとスニーカーを脱ぐ。「あのーコンバンワ」と意外な所から声がする。近い。その時、絡まった糸がスルスルと手品みたいに解けていく。ボールペンで書いた花が高速で蕾になって行くようだった。
 恐怖で足がすくんで立てない。脱ぎ捨てたスニーカーが糸に絡め取られ、まるでひとりでに中を飛ぶように離れていく。靴は途中で振り落とされその人影の手前で乾いた音を立てた。両の手を回転させ赤い糸を巻き取ていた男はその手を止めおぼつかない足取りで私のスニーカーを拾い上げ辺りを見廻した。
「あのう、自分は酔っ払ってます。酔っ払っていますけど大体正気であります」
男は言った。赤い糸は木を間にL字状に私の居る位置を示している。男にはまだ私が見えていないのだ。
「自分は、婚約者のいる身ですが・・さくじつこのような赤い紐を自分の小指に見つけまして、察する所、これは赤い糸だと思います。大変失礼な物言いではありますがそこにいらっしゃる貴女。貴女と私はこの赤い糸で結ばれているのです。しかしながら、私はもう既に心に決めた女性がいます」
木々の間から僅かに温かみのある日の光が差し込んでくる。男の足元に細く薄い影が見えた。見覚えのある横顔。彼だ。彼がそこに居る?なんで?
「一度、お会いしたかったですが、いえ、誠に残念ですが、この糸、今日限り断ち切らせて頂きます。まだ見ぬ人よ。ゴメンなさいそして縁結びの神様にもゴメンなさい。そして有難う」
彼はどこからか鋏を持ち出し、私との間に漂う糸に鋏を開閉させた。 糸は風に漂い、ゆらゆらと鋏の開閉からかろうじて逃れているのが見えた。私はかけ出し彼の名を叫んだ。
「切っちゃ駄目―良く見ろ馬鹿。わたし。貴方の婚約者だろうが!!」

五十嵐 文秋(東京都調布市/38歳/男性/自営業)

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