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<第2回応募作品>『桜の逢瀬』著者:山本 茂生

 桜子さんは二十歳。初めて会った時も二十歳だったし、去年も二十歳だった。たぶん今年も二十歳だろう。
 日々過ぎ去っていく時の速さに息切れを感じる程だったのに、ふと振り返ってみれば、消費してきた人生の呆れる位の長さに眩暈を感じ、与えられたあと僅かの時間を指折り数えながら生きていく歳に、私も成った。
 昔は軽々と登っていたこの坂も今では結構きつい。確かにそんなに緩やかな勾配ではないが、それでもこれ程までに動悸を覚えるようになったのは、さていつの頃からだったか。
 バス通りに出た。桜は七部咲き。今日こそは出て来てくれそうだな、と私は年甲斐もなく胸を躍らせる。まるで青年だったあの頃の様に。
 桜子さんは桜が今くらいの開花状況にならないと現れない。それから完全に葉桜になってしまうまで会ってくれる。
 だから仕事をしていた頃は大変だった。幸い自営業だったので、勤め人よりは融通が利いたのだろうが、私はこの春の二週間くらいの間を休暇にする為に、一年間の全ての都合を合わせてきた。二週間、桜子さんとの逢瀬を重ねる為に生きてきたのだ。
 山門に向かう道は結構な人混みになっていた。真っ直ぐ歩くのが難しいくらいだ。しばらく歩いて、ああ今日は土曜日だったなと気が付く。仕事を止めてからは曜日感覚が失われていた。
「今年も来てくれたのですね。」
 いつの間にか桜子さんが私の隣に並んでいた。ずっと変わらぬ笑顔。本当に嬉しそうに微笑んでくれる。
「いくつに成りました。」
 私は再会の挨拶の代わりに必ずこの言葉を口にする。返事もいつも同じだ。
「今年で二十歳です。」
 桜子さんが現れると何故だか今まで周りに居た人達が消えてしまう。会う時はいつも桜の中で二人きりなのだ。
「志郎さんはいくつに成りましたの。」
「さて、いくつに成りましたかな。もう歳を数えるのは止めてしまいましたから。」
 私はとぼけてみせる。何十年も二十歳の女性には、もう想像もつかない月日を私は重ねてしまった。
「まだ生きる事が後ろめたいですか。」
 心配そうに桜子さんが私の顔を覗き込む。
「まあ、後ろめたいです。でも、もう残りも少ないですからね。」
 私がそう言うと、桜子さんは少し寂しい表情をつくり、左手で着物の袂を押さえながら、そっと私の頬に右手を添える。
「あなたは誠実ですからね。だから御辛いのでしょう。」
 傷病兵として内地に戻った私はそのまま終戦を迎えた。私の居た連隊は全滅をした。
「昔の事です。それにこの歳まで生きていると、そうそう誠実でばかりもいられません。」
 うふふ、と今度はちょっと明るく笑って桜子さんは私から離れた。
 春の日はうららかに、ようやく色づき始めた桜の木々に降り注ぎ、日に照らされた花はあるかなきかの紅の色を浮き上がらせ、白い花弁にほんのり紅がのったその様は、桜子さんの透き通る様な肌の色そのもので、陽光の中に融けてしまうのではないかという程の淡い輪郭が、私の目の前で舞うかのように軽やかに動き、その動きに私は少し目を細めた。
「初めてお会いした時は・・・。」
 いつだったかしら、と桜子さんは空を見上げる。
「終戦の翌年でした。」
 ああ、と桜子さんは頷いて見せるが、彼女にとっては終戦の翌年も今現在も同じ場所に存在しているかのように思える。
 安穏と生きるのは許されない気がした。かといって真摯に生を歩んで行く気力もなく、拾った命を自ら絶つのは天命に背く罰当たりな行為に思えた。
 美しい桜子さんとの恋は生きる為に与えられた糧だと思った。その恋が春の桜の季節にしか謳歌出来ないのは、自分に課せられた枷だと思った。その釣り合いの中で生きてきた。
「そんな事はありませんよ。」
 桜子さんがついと私の傍らに寄り添い、左手に自分の腕を絡ませてくる。
「生きられなかった人達も、生きなければならなかった人達も、生の有り様は一緒。」
 私の胸の奥底から何か苦い塊が喉元までせりあがって来る。年経る毎に苦味は増していき、塊は硬く大きくなっていく。
「志郎さんは泣き虫ね。」
 桜子さんはハンカチで、いつの間にか流れ出していた私の涙を拭っていた。
「歳をとるとね、涙腺がゆるくなってね。」
 私の言い訳を聞く桜子さんの目は「嘘ですよ。昔から志郎さんは泣き虫でした。」と語っている。
 中天から射してくる日光は、春先といえどもじりじりと私のシミの浮き出たうなじに焼き付き、そのまま光に押し潰されるかのような圧力が両足に伝わった。
「腰掛けましょうか。」
 桜子さんが口にすると境内には赤い毛氈の敷いてある腰掛が用意され、ご丁寧に日除けの傘まで立て掛けてある。
 二人並んで座ると桜子さんがお茶を出してくれた。
 桜子さんの淹れてくれるお茶はいつも少し甘い。舌先で軽く味わい、ゆっくり流し込む。五臓六腑に染み渡った甘さは、ともすれば眠ってしまいそうな私の中の生の悦びを揺り起こしてくれる。
「志郎さん。口づけを。」
 桜子さんが唐突にねだる。桜子さんは私に向き直り、唇を差し出すと目をつぶった。
この歳で口づけなどとは面映いが、桜子さんの唇は白い肌に映える真っ赤な色をして、官能的に私の本能を刺激した。
 私と桜子さんは、しばらくお互いの口を吸い合い、抱き合い、忘我の時を彷徨っていた。
「この歳になっても欲望が残っているなんて恥ずかしい気がします。」
 参道をバス通りに向かって歩きながら、私は桜子さんに言った。桜子さんは少し乱れた後ろ髪を両手で直しながら聞いていた。
「生きて求める事は罪。」
 桜子さんは立ち止まり、私の方に向き直る。
「志郎さんはそうお考えなのではありませんか。」
 沈みかけの太陽の、残滓のごとき光を浴びて、桜の花はその色を幾分深くし、風も吹かぬ静寂の中で、闇はその気配を徐々に濃くしていっている。
桜子さんの真白な面にも、くっきりとした陰影が刻まれていたが、両の目の奥には揺れる様な光が湛えられ、例えるならば月明かりの下の漣にも似て、見詰めていると、さざめく波にそのまま連れて行かれそうになる。
「昔はそのようにも。」
 あまりに心地良い感覚に引かれていくのを恐れて、私は桜子さんの瞳から目を逸らした。
「今は多少図々しくなりました。」
 鈍くなっていったと言ってもいいかもしれない。
 桜子さんは私が逸らした目を追い掛けるように、ちょいと腰を屈めながら、愛らしい仕草で私の目を再び覗き込む。
「私は・・・。」
 少し言い澱む。
「志郎さんと伴に在りたいと思います。志郎さんの罪とも伴に在りたいと思います。」
 言い終わると俯いて、下唇をちょっと噛み、目の端に薄っすらと涙が溜まっているのがいじらしい。
 それ程の愛を得られるのなら、他に何を望むだろうか。子を成す事も、家庭を作る事も叶わぬ恋愛だけれども、想いは永遠にこの地に残る。
 バス通りに出た。
日はとっくに落ち、桜の花の白い色が藍色の闇に映え、風に吹かれて翻ると、薄紅の色が妖しくうねり、満開の桜が驕慢なまでにこの世の全てを埋め尽くしていくだろう予感に、ありとあらゆる色彩が怯えているのではないかと思われた。
「明日もいらっしゃいますか。」
 桜子さんはこのバス通りまでしか来られない。対岸の歩道には渡れない。
「桜が咲いている限りは参りますよ。」
 私達は名残を惜しみ、互いの手を取り、指を絡ませ合う。
「もしかして私はもう死んでいるのではないですか。」
 私の質問に桜子さんは寂しく微笑み、それでも凛とした趣で私に答える。
「そうであれば此処に留まれますけれど、志郎さんはまだ暫く・・・。」
 ほうっ、と我知らず溜息が出る。
「まだありますか。」
「ございますよ。」
 大事になさいな、と桜子さんは笑う。
 手を振る桜子さんに見送られて、私は坂道を下った。もう見えないけれど、桜子さんは手を振り続けてくれているだろう。
 生きて在る限り。
 呪文のように唱えつつ、私は坂道を下って行った。

山本 茂生(千葉県市川市/38歳/男性/会社員)

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