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<第9回公募・選外作品紹介>「18%グレー」 著者:村上 あつこ

 オレンジ色ののぼりが春風に揺れている。参道の脇の広場には、すでに五十以上の個人ショップの小さなテーブルがレイアウト通りに配置され、深大寺への参拝をおえた出店者たちが、各ブースの開店準備におわれていた。ハンドメイドのアクセサリーや革細工、小さなガラス瓶に入ったクッキーやジャム、真鍮のスプーン……。作家や職人たちが心をこめて作った品物が、朝の光を受けながらディスプレーされていく。
 毎月一度、土日に開かれるこの深大寺手作り市に清水碧が初めて出店したのは、三ヶ月前のことだった。最初は勝手がわからず戸惑った。それまで販売の仕事をしたこともなったから緊張もした。けれど、会社と家の往復しかなかった碧にとって、市は華々しい晴れの舞台だった。来るたびに気持ちが引きしまり、やりがいに胸が高鳴った。出店できるのは個人で物作りをしている人に限られるため、アットホームな雰囲気になることも碧は気に入っていた。今日もまたこの新緑の森に人が集い、話し、笑い声があふれるだろう。そう思うと自然に笑みがこぼれた。
 碧はもう一度、品物の並びや値札を確認し、『墨の絵』と店の名前を印刷した名刺をていねいに揃えてから、簡易式の椅子に座った。 
 碧の作品は、漢字二文字を筆でデザイン描きし、てのひらサイズの焼杉の額に入れて仕上げたものだ。今日はどのくらいの人が訪れてくれるだろう。十時を過ぎると駐車場やバス停から人の流れができ、手作り市は観光客や地元の人たちで徐々に賑わい始めた。
  
 碧が実家のある調布に戻ってきたのは、一年前に離婚したからだった。友人に紹介された会社員と結婚したのは二十八才の時だった。そのころは、いずれ子どもができ、平凡な生活を送るのだろうと思っていた。それで幸せだとも思っていた。ところが、どうしたことか夫はだんだん家に帰ってこなくなった。たまに帰ってきも、夫も碧もお互いに向き合うことができなかった。自分の結婚生活がまさかそんなことになるとは碧には信じられなかった。修羅場になるほどの憎悪がなかったのは、もともとそれほどの愛情がなかったからなのだろう。関係修復をあきらめて、一年半で離婚届に判を押した。
 実家に戻ってとりあえず派遣社員の仕事を始めたが、すぐに一人の時間をもてあますようになった。そんなとき、碧はふと子どものころから習っていた書道のことを思いだしたのだった。学生時代にやめてしまったが、師範の資格も持っていたし、もともと美術も得意だった。相田みつをを真似た作品を作り、インターネットで出品してみた。思いがけずに売れた。何より見知らぬ人から、作品がよかったと評価してもらえることが嬉しかった。離婚してバツのついてしまった自分だけれど、まだ、マルをつけてくれる人もいる――。それから、碧はオリジナルの作品を作るようになった。
 
「撮ってもいい?」
 碧の店の前で、洗いざらしの白いシャツを着た男が、手にしているカメラを見せてそう言った。神経質そうな雰囲気の男だったが、ブログにでも載せるのだろうと思い、碧は「いいですよ」と答えた。すると男は品物の並んだテーブルの上ではなく、碧にカメラを向けた。あっけにとられているうちに、シャッターが切られた。カシャリと乾いた金属音がした。その音に不快感はなかった。けれど、写真を撮られて素直に喜ぶような年でもない。市が始まるまでの高揚感に水を差されたこともあって、ついとげのある声が出た。
「あの、品物の写真かと思ったんで……。データ、削除していただけますか?」
 男はニコリともしない。
「だから、聞いたでしょ。撮ってもいいかって」
「だからそれは、品物のことだと――」
「削除できないよ。これ、フィルムカメラだから」
 男はカメラを回転させて、液晶画面のない裏蓋を碧に見せた。
「じゃあ、そのフィルム出してください。自分の写真を見ず知らずの人がもっているなんて嫌ですから」
 男はふんと鼻を鳴らした。
「ムリ。他に大事な写真が入ってるから」
 「ムリ」という小学生のような言い方も「他に大事な」を強調した言い方も不愉快だった。まるで碧の写真はどうでもいいというように聞こえる。
「焼いたら、持ってきてやるよ」
 男はそう言うと、碧の作品をひとつ手にとって見つめ、それからガラスの額面を指先でぱちっと弾いた。
「なんか浅い。これに懸けてます感、ゼロ」
 驚いて言葉が出てこなかった。いったい何を言ってるんだろう、この男は。自分の作品がけなされているらしいということはわかった。こんなことを正面切って言う人間がいるなんて……。けれど、同時に何かが引っかかった。確かに書いた言葉にこだわりはなかった。人が知らなさそうで響きの良い言葉を辞書から適当に選んで書いていた。それを見透かされたような気がした。それにしても、「浅い」だなんて……。
「本気でやってるかやってないか、作品を見ればわかる」
「いい加減になんて……。一生懸命に書いてます」
「一生懸命と真剣は違うでしょ」
 男はまた、ふんと鼻を鳴らし、くるりと背を向けると賑わいの向こうへ消えていった。

 その日、家に帰ってからも碧は男のことが頭から離れなかった。市に出店するようになってから、生活に張りができた。出店者の中で顔なじみもでき、帰りに飲みにいくことも楽しみのひとつになった。やっと見つけた大切な自分の居場所だったのに、あの男にけちをつけられた気がした。その一方で、「浅い」「本気でやってない」という言葉が心に突き刺さったままになっていた。それは、まるでお前は結婚生活からだって簡単に逃げ出したじゃないか、と言われているような気さえするのだ。思い返してみると、それまで友人にせよ恋人にせよ、人と真剣にぶつかりあってまで、つきあったことなんてなかった。みんな浅いつながりだった。だから、簡単に切れてしまった。それはとりも直さず、自分の弱さやずるさから目をそむけたまま生きているということだったのかもしれない。男がシャッターを切ったときの乾いた金属音が碧の脳裏に蘇る。あの時、レンズの向こうにあった男の視線は確かに真剣なものだった。
 それから、碧はどうしたら良い作品がつくれるか、そればかりを考えるようになった。墨汁をやめ、墨を磨った。新しい紙や筆を買ってきては書いた。書に関する本や詩や俳句を読み、書く言葉を選んだ。仕事から帰ってきて、毎日、手を動かした。いったいどれくらいの墨を磨っただろう。以前とは違う何かがあった。

 男が姿を現したのは、それから半年ほどたった秋の手作り市のことだった。開店前に行った本殿での参拝で、目を閉じたときにふと思い出してしまった顔が、今、目の前にある。男は、色づきはじめた紅葉と同じ色のジャケットを羽織り、中にはあの時と同じ洗いざらしの白いシャツを着ていた。
「ほら」
 半年前と変わらず、男は無愛想な顔で、水色の封筒を差し出した。隅に洒落た書体で「スタジオ高野」と印刷してある。
「写真だよ、この前の」
 封筒の中の写真を取り出して、碧は、はっと息をのんだ。六つ切のモノクロ写真――。つるりとした光沢のある印画紙の中に生き生きとした碧の横顔が写っていた。背景の新緑はモノクロだからこそ、よりいっそう輝いて見えた。あの春の日の、光と時間がそのまま切り取られたようにそこにあった。生まれて初めて、本物の写真を見た気がした。いつの間に撮ったのだろう。きっと、あの写真を撮る前に違いない。「他に大事な写真がある」と言った男の言葉を思い出して、男の顔を見上げた。男は碧の視線をはずすようにぷいと目をそらした。
 写真を裏返すと、「18%グレー」と書いてある。
「これは?」
「その写真のタイトル。……知らないの? 露出計の基準、光の反射率だよ」
 どうして、自分のポートレートにそんなタイトルがつけられたのか、碧にはわからなかった。ただ、確かなことは、自分がこの写真を――、この写真に写っている自分を、とても好きだと感じていることだった。
「正面から撮った写真とフィルムも入ってるから。じゃあ――」
 このまま自分が何も言わなければ、この男はまた、ふんと鼻を鳴らして、くるりと振り向き去ってしまうに違いない。神経質で、無愛想で、鼻持ちならない男……。それなのに、二度と会えないかもしれないと思うと、それは寂しいと思う自分がいた。
「あの……」
「なに?」
「他の――あなたの他の写真を今度、見せてもらえないでしょうか?」
 男は意外そうな顔をした。
「いいけど……」
 それから、碧の作品を見て言った。
「前より、ましになったな」
 男が初めて、少しだけ笑った。

村上 あつこ(東京都/女性/主婦)

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