<第9回・最終審査選出作品>「深大寺で会いましょう」 著者:T-99
京王線調布駅の改札を抜ける。駅前の大通りにはショッピングモールが連なり背の高い建物に『春の特別祭開催中』のたれ幕が見えた。ロータリーはたくさんの人でごったがえしている。タクシーの順番を待つ背広姿の若い男性、バス停留所には小さな子供を抱きかかえた女性が長い列の順番を待っていた。ぶつからないよう注意しながら深大寺行きのバスを探し飛び乗った。息をはずませ窓際の一番後ろの席に座ると待ち構えていたようにバスが発車する。このままいけば約束の時間には間に合いそうだ。ハンカチで額に溢れだしてくる汗を拭った。座席に深く腰掛け直し、俺はそのまま瞼を閉じてしまった。
三年A組の教室で初めて藤崎玲奈の存在を知った。彼女はおとなしく口数も少なかった。どちらかと言えば目立たない地味な女子だったと思う。長い黒髪をシュシュで後に束ね、赤い縁のメガネをかけていた。休み時間はひとりぼっちで周りとの関係を遮断するため読書にひたすら没頭していた。彼女を心配していた。クラスに早く打ち解けてほしいと密かに願っていた。
携帯やメールが高校生にとって必須アイテムになって持っていない連中を捜すのが難しくなった。だから下駄箱で偶然それを見つけたとき、俺は驚いた。白い便箋にかくばった文字で俺に対する思いが丁寧に綴られていたからだ。
『放課後、屋上で待っています』
最後の一文を読み終えたとき、「まいったな」それが正直な感想だった。
好きな女子はいなかったけど高校で恋愛をするわけにはいかなかった。もちろん勉強で手一杯だった俺にそんな余裕もなかった。程度のいい言い訳を考えて送り主を傷つけず断ろう。そう心に決めていた。
屋上に続く階段を一歩一歩踏みしめながら上っていく。ここにはこっそり煙草を吸いにきていた。息の詰まる高校で唯一ほっとできるスペースだった。鍵の掛っていない鉄の扉を開けるとオレンジ色に染まった町が広がっていた。グランドに響き渡る野球部のかけ声がボールを打つ鋭い金属音に混じって耳にこだます。ポケットに忍ばせていた煙草に伸びそうになる腕が静止した。視線の先にはフェンスに背を向けた彼女がいた。
藤崎玲奈。用意していたセリフを頭の中で繰り返す。
『気持ちはうれしいけど……』
いきなり彼女が胸に飛び込んできた。
「きてくれてありがとう」
反射的に受け止めてしまった。あ、あう、言葉にならない声が漏れる。ふりほどくタイミングを完璧に逸していた。
そういえば女子と付き合った経験がなかった。こんなに柔らかいのか? 制服の上からでもはっきり伝わってくるボディライン、いい香りがした。いけないと知りつつ体がいうことをきいてくれなかった。
「煙草の匂いがする」
彼女が囁く。金縛りにかかったみたいに、なさけない俺はしばらく動けなかった。見上げてきた彼女のレンズ越の瞳と目が合う。カールしたまつ毛、瞬きをしているのがはっきりわかった。これほど近くで女子を見たのは初めてだった。
彼女が興奮した様子で一方的に喋りだす。よく屋上で俺を見ていたとか、クラスで孤立しないよう喋りかけてくれたのが嬉しかったとか、俺にとってはあたりまえの行動が彼女にとって特別な行動になっていた。用意していたはずのセリフが陳腐に思えてきて、気づけば自然に自分のことを話していた。
つまらない授業に少々うんざりしていること、高校でいい人を演じるのに疲れてしまったこと、誰にも喋らなかった胸の内をさらけだしていた。
黙って彼女は俺の話に耳を傾けてくれた。辺りはすっかり暗くなっていて、あんなに聞こえていたはずの声がもうどこにもなかった。夕日がいつ沈んだのかさえ分からなかった。
その日から俺たちはこっそり屋上で会うようになった。はっきりした返事をしないまま彼女と付き合い始めた。
教室ではお互い知らない人。挨拶と授業の話をするくらい。たぶん誰も俺たちが付きあっていたなんて知らなかったと思う。
顔見知りに出会わない。できるだけ遠くを探して夏祭りにも出かけた。祭ばやしにさそわれ浴衣姿の彼女の手を握る。まばゆい提灯が赤や黄色の明りをいくつも灯しながら俺たちの足元を照らしてくれていた。露店にあふれる雑踏にかき消されないよう耳もとでそっと彼女が訊いてきた。
「ブルーハワイって何味か知っている?」
腕を引っ張り『氷』と赤字で書かれたのれんを指さす。屋台の狭いカウンターに、いちご味、レモン味に混じって常夏を連想させる透明な海の色が並んでいた。
「体に悪そうな味」
思わず出た言葉に彼女が目を細める。教室では決して見せてくれない表情だった。
ひとつのかき氷をふたりで分け合いながら不思議な味を氷と一緒に噛みしめる。お互いの青くなった舌を出しあった。指で下まぶたを引っ張りあっかんべーの仕草をした彼女が駈け出した。馬鹿にされた気がしてむきになって追いかけた。
突然、花火のどーんという音が鳴り響いた。見上げた夜空には七色に輝く大輪が花を咲かせていた。波紋みたいに広がりながらやがてパラパラと儚く消えていく。すぐに別の花火が打ち上げられ再び勢いを取り戻す。空を何度も照らしだしてくれていた。
「きれい」
呟く彼女が足を止める。うれしそうにうなずきなら夜空に舞う光の競演を眺めていた。それなのに俺ときたら花火の音より、漏れてくる太鼓の音なんかよりはるかにはずむ鼓動を押さえるのに必死だった。
振り向いた彼女の影が俺の足先で重なる。口が微かに動くのがわかった。見つからないようしまい込んでいたはずの感情が一気に流れ出してきて、そばにゆき思わず彼女の肩を抱いた。ダメだとわかっていたはずなのに唇を重ねてしまった。歯と歯があやうくぶつかりそうになるほどぎこちないキスだった。
頬が熱くなってきて効きすぎの暖房が気になりだす。暖風の吹出し口に手を伸ばすと、いつの間にか隣に座っていた年配の女性が俺の手を遮るように停車ボタンを押した。
『次とまります』
運転席のすぐ上の電光パネルに『深大寺』の文字が左右に流れていく。バスは停留所に向かうゆるやかなカーブを抜け減速を始めていた。深大寺で降りるつもりだった俺は玲奈の言葉を思い出していた。
「私のこと好き?」
大学進学を考えていた彼女に数学を教えているときだった。数式から解を導き出すのは得意なはずなのに俺は答えに窮していた。付きあい始めてからずっと先延ばしにしていた問題だった。立ち上がり屋上のフェンスを握りしめ、大声で叫んでしまえればどんなに楽だっただろう。たったそれだけのことができなかった。俺には勇気が足りなかった。
「うそ、うそ、困った顔している」
無意識に顔を歪めていたのだろう。俺の鼻先に指を押しあて彼女が首をかしげる。
「困ってなんか……」
どうしても言い出せない。理性がいつも俺の邪魔をした。
「深大寺って知っている? 本で読んだんだけど恋愛の神様がいるんだって」
思い出したかのように彼女は言った。
「そこに行けば私たち、うまくいくのかな」
「ああ」
あいまいな返事をしていた。
「本当?」
今度は目を輝かせ彼女が真直ぐに俺を見ていた。いつも正直に気持をぶつけてくる。いつからだろうか、俺はできなくなっていた。
「受験勉強に専念した方がいいと思うんだ」
突き放す態度をとっていた。校舎の向こうから吹き抜けてくる風が止んでいる。何も喋らない重苦しい沈黙のあとで。
「わかった。そのかわり合格したら、一緒に深大寺に行ってね」
告げられた翌日から俺は彼女を避けるようになった。
エンジン音が徐々に静かになってゆきほどなくしてバスが停車した。乗車口のドアが開かれ乗客たちがステップを順番に降りていく。最後に料金を支払った俺がやっとバスから解放された。
外はあったかだった。春の日差しは柔らかで包み込でくれていた。案内所でパンフレットを受け取り、山門に続く石畳の両脇に並ぶ店に目をやる。鬼太郎茶屋の軒先に並ぶ人形のわきにちょこんと玲奈は立っていた。昨日渡されたばかりの手紙が脳裏を霞める。
『約束、忘れずに覚えてくれていますか?』
相変わらず手紙だった。携帯やメールじゃなく。彼女が合格したのは知っていた。俺に気が付き軽く手を振ってくる。あのとき以来見せてくれなくなった笑顔とともに。
「遅いよ。来てくれないのかと思った」
ふてくされ頬を膨らませた彼女が手の届く距離にいた。懐かしくて、いとおしくなって、人目も気にせず力一杯彼女を抱きしめていた。
「先生、みんなが見ている」
胸元に彼女の息がかかった。
構わなかった。今なら気持ちを伝えられる。そんな気がした。
T-99(東京都多摩市)