<第9回・最終審査選出作品>「大温室」 著者:S・Y
どこか暖かいところに行きたいなあ、と亮子が小さい声でぼそっと言った。僕はそれまでの長い沈黙に耐えられなくなっていたので、つい何も考えずに、「大温室は?」と地雷を踏んでしまった。まずいと思い、並んで歩く亮子のほうをちらっと見ると、僕の声など聞えなかったように、亮子は前を向いたまま表情を変えずに歩いている。
そして、三メートルくらい行ってから急に、
「ああ、神代の」
と、まるで皮肉でもいうような言いかたをした。
二ヵ月前だったら、いいね、と笑顔で言うか、こっちを向いて親指を立てる仕草をしたと思う。
僕たちは、だらだらとあてもなく歩きながら、別れ話の終わらせかたをさぐっていた。二日前に大雪が降ったせいで、道の両側には雪かきされた茶色っぽい小山がいくつも出来ていて、僕はところどころでその山を蹴ったり、乗っかったりしながら、気まずい雰囲気をやり過ごそうとしていた。亮子の、暖かいところへ行きたい、という言葉は、僕にむけられたものではなく、ただの独り言だったのだろう。
僕と亮子のあいだでは、暖かいところといえば、神代植物公園の大温室だった。のどが渇いたといえばペットボトルのジャスミンティだったし、空腹だよー、なら牛丼で、ちょっと疲れたならチョコアイスだった。でも、亮子は、二人に共通だった辞書の単語を全部削除したようだった。
僕の存在が、亮子のなかでは既に無視できるくらい小さくなっているのか、それとも無視したいと強く思わなければならないほど、まだ大きいのかは、わからなかった。
僕が茶色く汚れた雪山に乗り損ねてすべって尻をついたとき、ふいに亮子が、
「最後に、いっとく」
と僕の顔を見た。
何を言われるのだろうと、ちょっとびくつきながら亮子の顔を見ていたら、亮子は、曇り空を見あげてため息をつきながら、
「大、温、室」
とあきれたように言った。僕が、「行っとく」と「言っとく」を、勘違いしたのに亮子はしっかり気づいていた。
「ああ、ああ」
僕は、画面の切り替わりが遅いスマホのような反応をした。
亮子が僕を見て、ぷっ、と吹きだした。僕も笑おうとしたが、多分、頬がひきつっただけに見えたと思う。
「徹平、バス何時?」
亮子が、不機嫌顔に戻って言う。
すかさずジーパンのお尻のポケットからスマホを取り出して検索した。かいがいしいコンシェルジュのように見えたらいいなと思いながら。
別れ話の原因は、僕にある。浮気。主婦との。亮子は汚いものを見るような目で、不倫と言った。浮気と不倫は何が違うのか。辞書を引いてみると、浮気は、「ほかの異性に心を移すこと」で、不倫は、「人道に背くこと」とある。僕の場合、主婦と寝た時点で、人道に背いたことになるのだろう。そして、さらに、その主婦に心が移ってしまっているので、浮気にもなるのだろう。不倫で浮気。
神代植物公園に行くバスは空いていた。僕が二人掛けのシートに座ると、亮子は僕の斜め後ろのシートに座った。椅子の下のヒーターでお尻は暖かく、窓ガラスは結露で曇っていた。何度か亮子を振りかえったが、亮子は、手でぬぐった窓ガラスからぼんやり外を眺めていた。
亮子と僕は、三年前、ハローワークで知り合った。仕事を検索する端末の使い方がよくわからず、きょろきょろしていた僕を見かねて、隣の端末にいた亮子が、面倒くさそうにではあるが、操作方法を教えてくれた。四週間に一度ある、失業給付の認定日にも窓口で見かけ、今度は僕が声をかけた。亮子は「すぐ帰るけどいい?」とことわって、お茶につきあってくれた。
亮子は、派遣切りに遭い、失業保険をもらっているうちは次の仕事を探す気はなく、自分のやりたいことをやると言った。くるぶしまである黒い前掛けをしたウェイターが運んできたフレンチトーストに、大量のメープルシロップをかけて、黙々と食べはじめた。僕が、やりたいことって何? と聞こうとしたら、亮子は、空になったメープルシロップの入れ物をかかげて、おかわりを宣言したので、思わずまわりの客の反応が気になって、聞きそびれた。黒い前掛けのウェイターが、小さなピッチャーに並々とついだメープルシロップをうやうやしく運んできて、「どうぞごゆっくり」と笑顔で戻っていったのを覚えている。
メープルシロップの海に沈んだフレンチトーストをたいらげ、ミルクティーを飲み干した亮子が、「もういいかな」と立ちあがったので、僕は慌てて、ブラックコーヒーを一気飲みし、
「家まで送るよ」
と亮子を追いかけた。急いでレジを済ませ、店の外に出ると、亮子の姿はもうどこにもなかった。そのときは、結局嫌われたんだと納得するしかなかったから、次にハローワークで、「ケーキ食べに行かない?」と声をかけられたときは、不意を突かれた感じで、ただ「あー」と声を出していた。亮子はそれを、行きたくないという意味にとったらしく、
「嫌ならいいよ」
とくるりと背中を向けたので、僕は慌てて亮子の前にまわり、笑顔を作った。僕はその日、人生ではじめて、スイーツ食べ放題の店に入った。
亮子と最初に寝たのは、神代植物公園の大温室に、はじめて二人でいった日の帰りだった。冬の寒い日で、大温室なら暖かいよと亮子が言って、僕たちは大温室に行ったのだった。
大温室の入り口で、
「ここ、あたしのお気に入りなの」
と亮子はにこっと笑った。
亜熱帯の環境を再現したらしい温室内は、むわっと暖かかった。順路に従って進んでいくと、「熱帯スイレン室」というのがあり、なかには、さまざまな色の花が咲いていた。
「これが、ブルー・スモーク、こっちが、ブラック・プリンス、そっちの黄色いのはセントルイス・ゴールド」
それぞれの植物には、名前や種類を書いたプレートがついているのだが、亮子は、その説明を見ることもなく次々に花の名前を言った。
「あたし、スイレンが一番好きなんだよね」
亮子は、花びらの尖ったその花に顔を近づけて、いとおしそうに見ていた。
熱帯スイレン室を出てから、亮子が突然僕の手を引っぱった。そして、曲がりくねった順路の途中にある、なんという名前か忘れたが、大きな葉っぱの陰で、亮子が僕にキスをした。それから手をつないでさらに順路を進んだ。あいかわらず亮子は、植物や花を指差しながら、難しい名前を並べていく。温室の迷路はどこまで続くのだろうと少し飽きてきたとき、急に室温がさがったような気がした。目の前には出口と書かれたプレートがあった。大温室の外には池があり、おおきな蓮の葉が浮かんでいた。
やっぱり今日も大温室のなかは暖かい。大雪が降ったばかりで、平日のためか、客の姿はほとんどなかった。亮子は、僕の少し前をうつむき加減に歩いている。熱帯スイレン室でも、大好きだと言っていた花の前を素通りしていく。僕は、花の名前を書いたプレートの前で立ちどまり、
「ブルー・スモーク」
と亮子に聞こえるように大きな声で言った。亮子が立ちどまった。見ると、肩を震わせている。まずいと思った。亮子が泣いている。声をかけたほうがいいのか。突然、「はははは」と楽しそうな笑い声が響いて亮子が振りかえった。僕は自分が間違っていたことに気づいた。亮子はお腹を抱えるように、肩を震わせて笑った。でも、その姿は少しも楽しそうには見えなかった。
僕は、ただじっと亮子を見つめていた。つぎの瞬間、泣き出すか、怒りだすかするんじゃないかと思ったのだ。亮子はひとしきり笑ったあと、大きく息を吐き出すと、僕のほうに歩いてきて、
「覚えてたんだ、あたしの好きな花」
僕は、なにか言わなければと思ったが、亮子が先に口を開いた。
「結局、徹平はやさしいんだよね」
どう返事をしていいかわからなかった。
「あたし、これから当分のあいだ、四十代の主婦を全部敵だと思うような気がする」
亮子が僕をじっと見つめていた。僕は、ひっぱたかれる覚悟をした。永遠に感じられる沈黙。亮子の目に溜まった涙が、表面張力を越えてあふれそうになる。亮子はあわてて背中を向けた。
「もう、行きなよ」
亮子は早口に言った。肩が震えている。僕は亮子の横をすり抜けて、順路を出口に向かった。出口の近くで室温がさがったとき、なぜか、すごく後悔している自分に気づいた。
ここを出たら、もう戻れない。僕は一瞬、順路を戻ろうかと思った。でも、すぐに気づいた。引き返すタイミングは、遥か遥か昔に過ぎてしまっていたのだ。僕は出口から冷たい外気のなかへ出ていった。
S・Y(神奈川県横浜市/男性)