<第9回公募・選外作品紹介>「先生 」 著者:k-oji
三月。仕事を辞めた。四月。朝起きてどこにも行く場所がない自分に呆然とする。誰に咎められることもないのに家を出た。平日の朝に家を出るという行為が体に染み付いていた。最初は公園でベンチに座っていた。だがリストラされた会社員の典型のようですぐに立ち上がった。クビになったわけじゃない。辞めてやったんだ。強がっても社会から脱落したという事実に変わりはなかった。
居場所を求めて辿り着いたのが深大寺だった。まだ肌寒かったが、木漏れ日の当たる石段に座ると思いのほか居心地がよかった。仏様に守られているような気がした。何かを許されたような安堵感があった。そして自分がまだ世の中と繋がっていると思えた。気がつくとほぼ毎日通っていた。
深大寺は平日でも賑やかだった。和菓子屋でお茶を飲む人。子連れの主婦。若い男女は暇な大学生だろうか。蕎麦目当ての観光客も多い。外国人の姿もあった。食事時はタクシーの運転手や運送トラックのドライバーも各々お気に入りの蕎麦屋に入っていく。
昼を過ぎると小学生が楽しそうに木の枝を振り回しながら下校していった。自分の子供時代と重ねてみる。あの頃の自分は今の自分のこんな姿を想像していただろうか。
時間が過ぎるに連れ、下校していく集団が中学生、高校生となっていく。日が落ちて人の流れが途切れた。帰ろう。何をしたわけでもないが、とりあえず今日も一日が過ぎた。立ち上がって石段を降りようとすると、向かいから小走りに駆け上がってくる人影とすれ違った。背丈、服装、香りから女子高生だとわかった。上には本堂があるだけだ。あまり通り抜けに使う道ではない。単純にお参りで来たのかもしれないが、夕闇の寺と制服の少女が不釣合いに思えた。自分以外の不審者に心当たりはないが少し心配にもなった。
少女は境内の真ん中に立ち止まって薄闇に浮かぶ本堂を眺めていた。近付いたり離れたり裏手に回ったり。時にはしゃがみこんで顔を地面すれすれにして本堂を観察していた。
足元に何か落ちていた。小さな水色の表紙のメモ帳だった。少女が落とした物らしい。
「これ、落したんじゃないか。」
少女は「あっ」といって駆け寄ってきた。
「こんな時間に何やってるんだ。」
「建物を見てるの。学校の宿題で。」
「高校生だろう。お寺を眺める宿題って何の授業だよ。」
聞くと少女は高校3年生だった。大学の建築科に進むにあたり、歴史ある建造物のレポートを書かなければならないのだそうだ。
「エーオー入試に必要なの。」
「AO?知ってるよ。推薦入試みたいなやつだろ。一芸で合格できる試験。」
それにしても建物の感想を書けば大学に入れるとは、いい時代になった物だ。
「でもその様子じゃ苦戦しているようだな。」
メモ帳を指差した。拾った際に目に入った文字は”大きい、きれい、和風”だった。
「小学生の感想だな。」
少女は恥ずかしさと小馬鹿にされた怒りを含ませた複雑な表情をした。
「だって、よくわかんないんだもん。」
話し方は本当に小学生だ。いや最近の高校生などはこんなものなのかもしれない。
「ところで、おじさん誰?」
当然の質問だ。だが答は用意していなかった。
「いや、別に…、帰るところだったんだ。こんな時間に君が何をしているのか気になって…、とりあえずおじさんではないぞ。」
「わかった。ふろーしゃでしょ。」
一瞬の間が空く。
「バカ、違う。そもそも今はそういう言葉は使っちゃいけないんだ。ホームレス…、いやホームレスでもない。家はある。」
だが家があるだけで社会からこぼれ落ちてしまったのだから、似たような物だと思った。少女は”おじさん”のうろたえた姿が面白かったらしく、目からは警戒の色が消えていた。
「とりあえず、君の感想には具体性がない。何が大きいとか、何がどうきれいとか。」
「全部おっきいし、全部きれい。」
やっぱり小学生だ。やれやれ仕方がない。
「深大寺っていうのは厄除けで有名な…。」
とりあえず現時点で知っている深大寺の知識を簡単に説明した。
「凄い。物知りだね。」
「常識だ。お前が物を知らなさ過ぎるんだ。建物だけでなく歴史や背景も勉強するんだぞ。よし、明日の夕方、もう一度にここに来い。」
「教えてくれるの。やった。お願い、先生。」
「先生じゃない。」
語気を強めた。少女は驚いた様子だったが
「いいじゃん。またね、先生。」
と言って手を振りながら笑顔で去っていった。
翌日少女はやってきた。誘拐を企む悪人が待ち構えていたらどうするつもりだったのだ。
「それなら昨日のうちに誘拐してるでしょ。」
それはそうだ。初めてのまともな意見。この日は二時間ほどの時間をかけて、丁寧に深大寺について説明した。
「本当に詳しいんだね。」
「まあな。」
それはそうだ。何もやることのない一日中、図書館でひたすら深大寺について調べていたのだ。さらに建築、特に同時代の神社仏閣の特徴についても教えられるよう調べておいた。ついでにレポートの書き方も教えた。
「いろいろ知ってるんだね、先生。」
「だから先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
何度もこのやり取りをした。その度に頬を膨らませる少女の顔は例えようのないほどの輝きに満ちていた。
いつの間にか深大寺の境内での授業が日課になっていた。レポートだけでなく他の勉強も教えた。あまり出来のいい生徒ではなかったが、学ぶことを楽しんでいて、教えることを次々と吸収していった。
「今日もありがとう、先生。またね。」
「だから先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
先生…だった。三月までは。十年勤めた。そして辞めた。嫌ではなかった。好きで就いた仕事だった。だが上手くはいかなかった。学ぶ意義より進学実績、正義よりもクレーム対応、挑戦より保身。予算、効率、意味のない会議。何より未来に希望を持てず、刹那的で輝きを失っている生徒達。ここは教育の場ではない。そう思ったとき、生活のためだけに職に留まることはできなかった。そんな自分が今”先生”と呼ばれている。
「先生か…。」
授業は続いた。やる気のある”生徒”を相手に熱が入った。見込みがある分だけ厳しくもなった。学校で発したら問題になるような言葉もぶつけた。だが少女は食らいついてきた。お互い本気だった。勉強が一段落すると蕎麦屋や和菓子屋で話をしたりもした。
七月。深大寺の木々は生徒と先生を暑さから守ってくれていた。深大寺はほおずきで賑わっている。この日は一学期の終業式だったらしい。少女は通
知票を見せてくれた。通知票はA4のコピー用紙にプリンターで印刷されていて、担任からのコメントも何もなかった。忙しいのだろう。効率。
驚いたことに少女の成績は優秀だった。
「お前のようなバカが何でこの成績なんだ。」
「学校のレベルが低いからだよ。違う学校の友達は私よりずっと頭いいけど、成績は全然。うちの学校は真面目にやってれば全部5。」
こいつ真面目なのか。確かに服装は今風に多少乱れてはいるが、それを除けば黒髪で余計な装飾品も付けず、清楚な少女といえなくもなかった。通知票によると皆勤でもあった。
「じゃあ、お前も学校では鼻高々なわけだ。」
「でも学校は楽しくない。よく褒められるけど全然嬉しくない。もっと頑張らなきゃいけないの、自分で分かってるし。ダメなときは怒ってくれたほうがいい。先生みたいに。」
「だから、先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
いつものやり取りをしながら自分を恥じた。クレームが面倒で怒ることをやめ、心にもない褒め言葉を連発して生徒を懐柔しようとしていた数ヶ月前の自分を。今は職も社会的地位もないが、一人の”生徒”から必要とされている。”先生”としての本当の時間。
十月。夏に木陰を作ってくれていた緑の葉は色を赤く変え、目を楽しませてくれた。十二月には落ち葉となり、三月には新芽がふいて出会いと別れの季節が来たことを知らせた。授業は一年間続いた。少女は成績に見合う力をつけていた。大学も志望通り建築科に決まった。そして…。
「四月からもう一度教壇に立つんだ。」
「やっぱり先生だったんじゃん。」
「今は先生じゃないし、まだ先生じゃない。」
「いいじゃん、先生。」
少女とは卒業するまで教えるという約束だった。これが最後のやり取りだ。
「お前は建築家か。」
少女は首を横に振った。
「建築の勉強はするし、そういう仕事もするかもしれない。でも…。」
「何だ。それ以外に何かあるのか。」
「先生、深大寺って縁結びのお寺なんだよ。」
「えっ。」
「ちゃんと勉強したんだから。建物だけじゃなく、歴史や背景も勉強しろって、そう言ったの先生だよ。」
迂闊だった。深大寺=厄除けの先入観で肝心なことを見落としていた。一年で少女が少し大人になったような気がして一瞬その気になった。だが慌てて打ち消してこう言った。
「仕方ない。十年後、覚えていたらな。」
少女は首を横に振った。
「忘れないで。五年後。この場所で…ね。」
k-oji(東京都八王子市/41歳/男性/公務員)