<第9回・最終審査選出作品>「水鏡の女」 著者:五十嵐 文秋
オレは今、ソーシャルネットワークサービスで知り合った女と初顔合わせのデートをしている。
女のブログは主に深大寺を含むその周辺の風景写真がメインだった。
見ると気が滅入るような痩せた野良猫。
自家製の食いかけのパスタ。
下品な週刊誌の素人モデルがやるような目鼻を手で隠した自分撮り写真のアップ。
彼女の様な地味で隙の多そうな女に声をかけている。
多少、回りくどいが路上のナンパと変りない。
26歳、理容師。
実際に会ってみると些か古風な顔立ちである。
控えめな化粧と肩まで伸びた黒髪。
均整のとれた目鼻立ちは美しくはあるが、WEBサイトで知り得た感じと違った。
想像していたのはもっと軽薄で軽いタイプの女だった。
だが、目の前の女からその様な印象はまるで感じられない。
しかし、こうしてここに居るという事はある種の覚悟を決めて来たという事だ。
初顔合わせの前日にこんなメールを送った。
「今日は大人同士特別な日にしたいね」
バーチャルな擬似恋愛から現実に引き込む踏み絵。
こんなセリフ、気持ち悪くてとてもオレの口からは言えない。
メールならではである、それを受取った相手の反応は大きく分けて二つに一つだ。
勝負下着で来るかドタキャン。
まぁ例外的に、お友達と来る慎重派もいた。
日和話の挨拶も程々に、最寄りの蕎麦屋に行った。
緊張を解す為に、気の済むまで一寸した無駄話を聞いてあげる事が大事だ。
笑顔は絶やさず言葉を控えめにただ頷く。
毎度の事だが3、4日目のカレー鍋にまた火を点すような倦怠感を感じる。
デザートの皿が下げられ、話のネタも尽きてきたらしい、
「でも、ちょっと安心しました」
女が言った。
「実際に会ってみて怖い感じの人だったどうしようと思っていました」
それは違う。
窓には温かな日差しと緑が揺れているこんな穏やかな蕎麦屋の一室がそう錯覚させているだけだ。
爽やかな午後の日差しを味方に、一、真剣な顔で作戦を遂行する。
「この後どうする。どっか静かな所に行かないか?」
ホテルという露骨な名詞を入れないスマートな誘い方。
すると女は嬉しそうな声で、芝生の広場まで行きませんか?と言った。
「いいね、行こう」と狼狽を悟られないようにオレは言った。
※
間延びした木漏れ日の落ちる雑木林を抜けると、開けた原っぱにたどり着いた。
木々の森に縁取りされた広場のまん中辺りに、囲いが設けられ青々とした丈の長い植物が密生している。
それは女のHPにアップしていた写真で見た事がある。
西洋のススキだ。
秋には中世のお姫様の帽子飾りみたいな稲穂に変身する。
とりあえず目的地に着いた。
黙っていると、閉館までこの野球グラウンドより広そうな所をただグルグル歩き回る事になりかねない。
チョッと休みますか?とオレは言って立ち止った。
女はニッコリと頷く。
布のバックから敷物を取り出しソレを草原に敷いた。
おそらくこの準備の良さは特別な事はなく女の何時ものスタイルなのだろう。
ベットメイクするように甲斐甲斐しくシートの皺をのばす。
アレはブログにアップしていたススキだよね」オレは言った。
「パンパスグラス?」
「晩秋の感じがでて、良い写真だったよ」
シートに佇む飾り気のない女の掌にそっと手を沿えてみた。
青々としたパンパスグラスは気まぐれな風に吹かれ、満員電車の乗客のような動きをしている。
「あのさ、深大寺辺はパワースポットが多いらしいね」
検索エンジンでチェックしたネタだ。
何処かの湧水には不老不死の女の涙が混ざるらしく、飲むと失恋の傷を癒してくれるそうだ。
ペットボトルに詰めて売り出しら面白いかも知れない。
そう言うと女は笑った。
「知らなかった、じゃあ貴方も飲まなきゃ」
「オレこれからフラレるの?」
少し冷えた女の手を包み込むように指を広げた。
慌てて手を引く訳でも、握りかえしてくるわけでもない。
しかしコレでは電車の中で痴漢している人と変らないではないか。
掌に嫌な汗が滲んでくる。
「水鏡の話を知っている?」女は言った。まるで目の前の空気に問うように、
「知らないな。どんな話?」
女の顔色を伺い、執拗に指先を絡めた。
なんだか本当に痴漢をしているような心地で興奮してきた。
「深沙王様が御祭りされている社の裏にね、水溜りほどの湧き水が溜まる池があるのを知っている? 縁結びのエピソードは有名だけれどその池の古い言い伝えを知る人は少ないと思う」
ふいに、冷たい指先が応えるように結びついてきた。
「満月の晩に、その湧き水を汲んで月明かりに照らすと、愛しい人の姿が水鏡に浮かぶの。でも、その水鏡を覗く事を許されるには条件があって、それは鏡の向こうの相手に絶対話し掛けてはいけないという事」
こんな芝居がかった話し方が出来るのだとオレは少し驚いた。
「神様との約束の誓いの印に水鏡を覗く者は剃刀を口に咥えなくてはいけないの、こんな風にね」
と、女は振り向き、錆びついた鉈のような小ぶりの金属片を咥えて見せた。
オレは驚き仰け反りつつ握っていた手を離してしまった。
女はにっこり笑い、
「仕事道具です」と、手にとってそれを見せてくれた。
錆びた金属辺だが刃の部分は鋭い光を放ち、異様である。
剃刀を手に女の話は続いた。
それは甲州街道の宿場町にあった老舗宿の娘の話だ。
年頃になった娘には想いを寄せる相手がいた。
それは月に何度か女中衆の髪を上げにくる髪結い床の若い職人。
今でいう見習い美容師だ。
相手もまんざらではなく、二人の仲は深くなっていく。
しかし、娘の将来を案じた宿の主人は、髪結いの棟梁を通し、恋仲にある職人に今後二度と娘に会わないと誓約を交わさせた。
十分な手切れ金を受け取り、髪結いの職を辞した男は娘の知らない、風の噂も立たぬ遥か遠方に姿を消した。
訳を知らない娘は来る当てもない男を待ち続けた。
そして娘、水鏡の話を知る事になる。
ある満月の日の夜、女がやって見せたように娘は真一文字に剃刀を咥えて水桶を覗き見る。
鏡に映った姿は愛しいあの人と、傍らの伴侶の姿。
堪らずに声を張り上げて泣き叫ぶ娘。
口から落ちた剃刀がバサリと水鏡を切ると、桶は真っ赤な血で染まったという。
戒を破った娘はその後、未来永劫死ぬ事を許されぬ体となった。
「貴方ならどう思う?死も、歳も取らない体を」女が聞いてきた。
正直想像もつかないと首を振った。
重い空気で話が終わると女は、互いに向かい合うようにシートに立膝を付き、淡い花模様のスカートの裾を揃え正座し、ニットの上着を丁寧に折り畳むとそれを膝の上に置いた。「顔剃りしてみませんか? 頭をココに、体はこう」自分の正面を空手チョップするように方向を示す。
膝枕で髭を剃るというのだ。
まるでオレの妄想を見られたようで気まずかったが、躊躇いもなく敷物に横になり、女の膝に頭を沈めた。
想像以上に快適であった。
澄みきった青空を遮る美しい女の顔。
整った顔のパーツや、小さく、それでいて意思の強そうな唇。
天幕の用に髪がしな垂れ、その髪の間を五月の風がそよぐ。
衣類から香る甘い香り。
それらに魅了されながら微かな胸騒ぎを感じた。
それは沼底の汚泥のような、僅かな刺激で舞い上がる悪い予感。
恐ろしく錆び付いた刃物を持ち歩く女の非常識と意味深な昔話。
不意に女は剃刀を口に咥え、しな垂れた髪を後ろ手に結わえる。
ゾクとする冷たい視線。
水鏡の女はやはりこんな顔で桶を覗いたのだろうか?
濡れた美しい唇と華奢な顎の形。
真一文字に咥えた鋭利な刃物のコントラストにオレは深く混乱した。
女の振る舞いに巧妙な悪意を感じつつも麻薬に似た居心地の良さに身動きが出来ない。
冷たい指で、濡らされる顔。
女の手は額へ、そしてグイと髪を抑え、同時に刃物が額をなぞる。
痛くは無いがリンゴの皮を剥くように、顔の皮が削れて行く感じ。
「気持ち良いかな?」
女の下腹部が揺れている。
笑いを押し殺しているのか?
頭蓋骨に砂を握りつぶす様な音が響く。
ジャリ。
ジャリジャリジャリ。
押し殺した笑いは今ハッキリとした笑い声に代わる。
「いったい何が可笑しいの?目開けちゃダメ?」
後悔と恐怖が巻きあがる。
「貴方、目開け君ね。顔剃りの最中に目を開けるお客さんは嫌われるよ」
冷たく言い放つ女。
「分かった大人しく」とまで言いかけるとグイと首を真横に向かせられた。
剃刀を顎下に当てる。
耳の傍で、
「喋るな」と女が言う。
思わずつぶった瞼を薄く見開く。
とても暗い。
斜めに差し込む陽射しがとても遠く感じられた。
更に目を見開くと、事態を包み隠す様に藍色の着物の袖がオレの視界を遮っている。
着物の袖の向こうの丘に、一組の老夫婦が佇んでいるのが見えた。
結った髷に着物姿!?
コツと触れる頭部の感触は枕をすり返られたように突然変り、視界の端に僅かに見えるのは朱色の着物帯で、見覚えのない古めかしい香袋の根付が揺れている。
喉に押しつけられた剃刀は髭を剃るどころか飴細工を押し切る様にグイと力が込められた。
「動くと死ぬよ。横にチョイト引いただけでね」
喉が締め付けられ大きな声が出せない。
「なんでオレが?」怒気を込めてオレは言う。
「女を誑かす下衆だからさ。辞世の句でも読みやがれ」
ああ、これで終わりかと思う諦めの気持ちと裏腹に、恐怖で縮み上がったチッポケナ怒り。
「タブラカスだと?テメェさんざ飲み食いしてコレか?俺だって本当の恋がしたいわ。ソレが出来ないから困ってんだろうが。古臭せえ価値観を押しつけてくるんじゃねぇ馬鹿野郎」
あ、死ぬと思った刹那、ザブリと液体が降りかかり、
その場に女の高笑いが響く。
突風がオレの背を吹きぬけ湖面の波紋の如く草原を毛羽立たせ、行きついた先の森の木々をザザザと揺らす。
無我夢中でその場から転げ出し、一組の老夫婦の下に駆け出した。
お爺さんとお婆さんだ。
「助けてくれ人殺しがいる。ひとごろしぃ」目が合うと同時に、夫婦は飲んでいたコーヒーを噴出し、咳き込みながらゲラゲラ笑う。
不意に濡れた顔を手で拭うと、
「ああぁ、マユゲが無くなっている」
五十嵐 文秋(東京都調布市 /男性)