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<第9回・最終審査選出作品>「泥棒は恋のはじまり」 著者:吉田 塁

 割増と表示されたタクシーが三台止まっている。深夜の三鷹駅は閑散とし、ヒールの音がやけに響く。深大寺行きの臨時のバスはもう終わってしまっていた。大晦日なので騒いでいる若者でもいそうだが、街の機能は停止し、きたる来年を静かに受け入れようとしているといった雰囲気。私は一番先頭に止まるタクシーに近づき、ドアをノックした。
 リクライニングを深く下げていた運転席の男が慌てて起き上がるのとほとんど同時に、後部座席のドアが開いた。
 車内に乗り込むと、男が摘みを絞りラジオの音を小さくした。くせ毛なのか、男の髪は柔らかそうな毛先がはねている。眉毛にかかる前髪から覗く横顔は鼻筋が通っており、鋭い目をしている。タクシーの運転手にしては若いのではないだろうか。私が今まで乗ってきたタクシーがたまたま、おじさんだったのだけかもしれないが。
「今年は厄年だったんですよお、ワンちゃんは死んじゃうし、財布は落とすわ。その財布にね、十万も入っていたんですよお」
アイドルだろうか、ラジオから甘ったるいしゃべり方に続いて笑い声が続く。
 深大寺まで、と伝えると、男の返事とともにゆっくりと車が動き出した。こんな最悪な大晦日にちょっといい男のタクシーに乗れたのは、今年の災難のお返しを神様がしてくれたのだろうか。まぁこんなのでは私は納得しませんがね。神様。
 時刻は十一時三十分を回っている。車内の暖房で顔が火照る。私は首に巻いていた緑色のマフラーを外した。窓の外を流れる車道は時折車がすれ違うだけで空いている。
「年越しに間に合いますか」
 運転手の鼻に向かってくねるもみあげに話しかける。
「この時間は毎年道も空いているんで、二十分くらいあれば着くんじゃないでしょうか、お客さん、初詣に行かれるんですか」
「ええ、まあ。友人と現地で待ち合わせしているんです」
 私は嘘をついた。三十にもなった女が、一人で、大晦日に、恋愛成就を祈りに行く。言えるか、こんなださいこと。
会社の同僚と忘年会をしている時に、後輩の結花ちゃんが言った。
「鈴原さんの住んでいる所って、深大寺近いんじゃないですか」
初詣にどこに行くか、という話をしていた。深大寺は恋愛成就のお寺でもあるそうで、結花ちゃんはそこで参拝したから、今の夫と結婚できたのだそうだ。
「深大寺の初詣でお願いしたら、あれやこれやで今じゃ北原さんの妻ですもん。まあ社内っていうのが、ちょっと気まずいんですけどね。絶対おすすめです」
 少し離れた席で北原君が顔を真っ赤にして宴に興じていた。お酒はそんなに強くない。
「神様にお願いする時は、名前と住所、電話番号と勤め先など個人が特定できる情報も忘れずに伝えなきゃだめですよ。神様が自分を見つけられるようにしなきゃ」
余計なお世話だ。結婚したからなんだって言うんだ。結婚が幸せなんて、必ずしもそうじゃないよね。自分に言い聞かせるけれど、私の体の中には、寂しさが、かくれんぼをしている。奥のもっと奥の方に隠れるのに、見つけられることを本当は望んでいる。
ラジオでは先程の女が今年の災難というテーマの投稿を読んでいる。この甘ったるい話し方は、結花ちゃんを思わせる。北原君はあの女のどこが良くて選んだの。私じゃなくて。
「実は僕、深大寺の住職の息子なんです」
カッチカッチとウィンカーの音が静かに響く。信号が青に変わり体が左側に引かれる。
「坊主が似合わなくて、ほら、見てください頭の形が悪いんです。だからこうやって今はタクシーの運転手をやっているんです」
 男の後頭部を見てみても、形が悪いということが分からない。それより、住職の息子なのか、この男は。興味をそそる。
「深大寺は本当に恋愛成就のご利益があるんでしょうか」
 住職の息子なら、何か知っているんじゃないかという期待を抱いて、私は聞いた。
「成就したっていう声は届いていますよ。ただね、絶対数も相当ありますから、あれだけ多くの人が願ったらそりゃ成就する恋も出てくるでしょう。確率的に」
 至極まっとうな答えに拍子抜けする。けれど、変に神々しい返答をされるよりずっと親近感が湧いた。
「そうですよね。そんなの偶然に決まってるもん。迷信ですよね」
 私は言った後にしまったと思った。仮にも男は住職の息子だ。無礼にあたるだろうか。
「くっつくものはくっつくし、そうじゃないものはそのままです。だって同時に二人の男が一人の女を思って願ったらどうです。恋愛成就はその時点で矛盾します」
 彼は楽しそうに笑った。どうやら私の無礼は見逃してもらえたようだ。その通りですよね、と相槌をうつ。
「そもそも、恋愛成就ができるのならば、深大寺のご利益で見事に成就した恋を、同じ深大寺のご利益で引き裂くことなんてこともできちゃいそうですよね」
 私は出来る限り冗談っぽくなるように言った。鞄の中の財布はこの日までにできるだけためた五円玉で膨らんでいる。
 結花ちゃんから深大寺の恋愛成就の話を詳しく聞きだした。日ごろから、買い物をした際にはおつりで五円玉をもらえるよう心掛ける。大晦日の深夜から深大寺に行き、年越しと共に祈祷する。その際に貯めた五円玉を賽銭箱に奉納する。結花ちゃんが行った参拝はこんな感じだった。
私は結花ちゃんと同じことをする。結花ちゃんの願いを打ち消すために。北原君を奪い返すために。
「ちらほら参拝者が目立ち始めましたね。もうすぐ着きますよ」
 暗闇の中を家族だろうか、子供づれの男女が歩いている。私は助手席の前にあるネームプレートに目がとまる。三島由紀雄。
「運転手さん、ミシマユキオって言うんですか」
私は思わず聞いてしまう。字は違うものの、私でも知っているあの文豪と同じ名前だ。
「ええ、そうなんです。乗車された方は同じように驚いていただけます。面白いでしょう。文才のかけらも無い、ミシマユキオです。学生の頃は迷惑でしたよ。僕が国語の成績が悪いと人一倍笑いものですから」
 三島由紀雄が頭をかきながら言う姿に思わず、にやついてしまう。辺りはまるで山奥に来たかのように暗くなり始める。それに比例して歩道を歩く参拝者の影も多くなってきた。
「ずばり、神様はいるのでしょうか」
 ハザードランプを点滅させながら車が減速した。路肩にゆっくりと止まる。
「さぁ、皆目見当がつきません。ただ、大晦日の夜に美人とドライブできたので、あるいは、いるのかもしれません」
 三島由紀雄は初めて後ろを振り返り、照れくさそうに乗車料金を告げた。
「お口が上手ですね」そう言いながら、少し照れている自分がいた。私は降りる寸前に後部座席のドアポケットにこっそり五円玉を入れた。住職の息子だ。何かご利益があるかもしれない。
タクシーを降りて深大寺に向かって歩き始めようとすると、助手席の窓をあけて三島由紀雄が顔をだした。
「あの……」何かを言いかけたと思うと、くしゃっと笑う。
「住職の息子と言うのは嘘です。またお会いしましょう。良いお年を」
 タクシーは走り出した後、しばらくハザードランプを点灯させていた。何のための嘘なのか、さっぱり分らなかった。
 深大寺の敷地に入ると沢山の人でごったがえしている。屋台が軒を連ねお祭り騒ぎ。小さい子たちが林檎飴をほおばりながら歩いている。時代錯誤な雰囲気を感じる。
「あと十分で今年も終わっちゃうね」
隣を歩く男女二人が話している声を聞いて、腕時計に目をやると、十一時五十分を回っている。入口にある地図で本堂の場所を確認し、足早に向かった。
 本堂は大行列だ。山門のはるか後ろまで人、人、人。家族、カップル、若者のグループ。様々な人の群れが大蛇のように伸びている。この中に私のように一人で、誰かの不幸を望みに来ている者はどれくらいいるのだろうかと見渡してみる。夜店の明かりや、照明に照らされた人々の顔を見てゾッとする。なんだ、みんな優しい顔をしている。私だけなのではないか。北原君と結花ちゃんの破局を願いに来たような愚劣なものは。私は急に恥ずかしくなり、大行列には加わらずに行列をかき分けて通り過ぎた。誰にも見られたくない、こんな姿。元三大師堂を横目に脇にある坂道を上る。上に行くにしたがって暗闇が増す。上りきると神代植物公園入口と書かれた看板があった。その先を進むと黒い柵が現れる。私はそこに並ぶベンチに腰を下ろした。
 ゴーン。
 暗闇の中を除夜の鐘が響き渡る。体の芯をゆするような感覚を覚える。出直して来い。そう鐘に言われているようだ。暗闇の中に座る私は、誰かに見つけられることを望んでいる。
チカチカと光るハザードランプが残像のように頭に残っている。首元がやけに冷えることに気がついた。マフラーがない。
 三島由紀雄か。マフラーを探し出すのはそう難しくなさそうだ。
 遠くで歓声が聞こえる。年が明けた。

吉田 塁 (東京都武蔵野市/26歳/男性/会社員)