<第9回公募・選外作品紹介>「風の数え方」 著者:関根 淳一
多摩川に続く長い下り坂を眺めながら、私は、真夏の太陽の下で立ち尽くしていた。汗が吹き出し、青いブラウスが背中に貼り付くにつれ、日本の湿気の多さを思い出す。時折吹いてくる風には、草木や土や溶けたアスファルトの匂いが含まれていたが、潮の気配は少しも無い。帰国したことに対する喪失と安堵が交錯した思いは、長いフライトの疲れと混ざり、体を鉛に変えていった。
蝉の無節操な鳴き声に急かされるように、スーツケースを引いて歩き出す。植物園を右に見ながら、深大寺の山門辺りに差し掛かった時、疑問が一つだけ浮かんだ。オーストラリアにも蝉はいたっけ?わずか半日前が、随分昔に感じられる。記憶を揺り起こすのも面倒で、家に帰ると挨拶もそこそこに、寝た。
高く登った太陽の光がカーテンの隙間から差し込み、頬を刺す。エアコンは作動していたが、その熱さで目を覚ました。時計を見れば既に九時を回っていた。六畳間にはベッドや学習机やローテーブルやチェストが所狭しと置かれ、壁には好きだった男性アイドルのポスターが貼られている。全て高校時代に使われたままだ。どれも古く、安っぽく、アイドルは幼い少年にしか見えなかった。
オーストラリアの大学に進み、現地で就職、結婚そして離婚を経験した。既に三十路近くになり、十年という長い年月を経て大きく強く成長したつもりだったが、こうして朝寝坊をしてみると、何もかもが夢のようにも思えた。
シャワーを浴び、ジーンズとTシャツを着て一階の店舗に降りて行くと、そば打ちを終えた父がテーブルで水を飲み、休んでいた。母は厨房で天ぷらや薬味の準備をしている。
「しばらくお世話になります」
私は深々と頭を下げ、改めて挨拶した。
「わざわざご丁寧に。自分の家なんだから好きになさい。ねえ、お父さん」
母はさつま芋の皮を剥く手を少しだけ休めて言い、父は水を飲み干すと、「おう」とだけ答え、冷蔵室の中に入っていった。
「お父さん、怒ってるの?」
「まさか。嬉しいのよ。で、恥ずかしいの」
「ふーん。……それでね、仕事なんだけどさ。次に何をしたいか、全然分からないの。悪いんだけど少し時間を掛けて考えてもいいかな。店のお手伝いはするから」
「あら。あなたが?昔はお店の手伝い、嫌がってたのにねえ」
「一時期だけよ。多感だったからね、あの頃は。……布巾はこれ?」
そう言って私は客席のテーブルを力いっぱい、丁寧に磨いていった。窓の外の金木犀の木が、映り込むくらいにピカピカに。
私の家は祖父の代より続くそば屋だ。老舗というと聞こえは良いが、実態は古いだけ。そう思っていた私は、中学生になると英語の勉強に熱中した。二年生の途中から反抗期を迎え、スーツで出勤する父親を持つ友達に対する気後れもあり、店の手伝いを全くしなくなった。高校時代は部活と勉強に集中し、卒業と同時にオーストラリアに渡らせてもらった。離婚後、そのまま住み続ける選択肢もあったのだが、両親に対して何の恩返しもしていない後ろめたさと、会いたい気持ちが強くなり、帰国を決意したのだった。
「いらっしゃいませ」
エプロンを身につけ、髪を後ろで一つにまとめた私は、元気良く挨拶をする。一人でご来店されたお客様はテーブル席に、三人以上のお客様は畳の席にご案内し、水とメニューをお渡しする。注文を聞き、料理を運び、水を注ぎ足し、そば湯を出す。会計をして、器を下げる。そんなに大きくはないと思っていた店だったが、やるべき事は山ほどあった。人の流れを読んだり、お客さんが求めるタイミングを計って動いたり、気をつけねばならない事も沢山あった。
「壁に取り付けられたランプが点灯するのを、タッチして消していくゲームがあるんだけどね、それをずっとやってるみたい」想像以上に疲れた私は、遅い昼食を食べながら感想を言った。
「今日は美香が手伝ってくれて、母さん楽だったわ」
母はそう言いながらお茶を淹れた。既に食べ終えていた父は熱そうにすすり、飲み終えると腕を組んで仰向けで寝始めた。
「いつもこんなに忙しかったの?」
「土日になるともっと忙しいわよ。慣れと、あとはお父さんとだから乗り切って来れたのかしら。ねえ?」
父は無表情のままゴロンと横を向き、それがとても微笑ましかった。そしてその時初めて父のモミアゲ辺りの髪の毛が、すっかり白くなっているのに気付いた。
「洗い物は私がするね」食卓に並ぶ食器をトレーに移し替えながら私は言った。
「大人になったわねえ」母はつぶやき、二杯目のお茶を淹れ始めた。
しばらくして父が、夕方の営業分のそば打ちで厨房にやってきた。料理は愛情がモットーの父は、作業の全てを手で行う。愛情を込めてそばを手早く手際良く打つと、味も香りも、機械では出せない程に上質になるのだそうだ。
そば粉がふるいに掛けられ、新雪のスキー場が作られる。お湯が加えられ、スキー場は生命ある無数の雨粒に変わり、雨粒は一つにまとまって、やがて滑らかな陶磁器の球体が出来上がる。それが薄く延ばされ、切られ、麺になってゆく様子は、魔法の様でもあり美しくもあった。子供の頃、飽きもせず眺めていた理由を、今更ながらに理解したのだった。
初日という事もあり、夕方の営業が終わるとすっかり疲れ切ってしまった私は、早々にベッドに潜り込んだ。頭には何の心配も浮かばず、いつ寝たのかも気づかないほどで、それは本当に久しぶりの事だった。
三週間があっという間に過ぎた。太陽は眩しく、蝉は賑やかで、夏休みという事もあり、ありがたいことに店は連日大忙しだった。潮の流れや天候の変化を見極める航海士よろしく、私は店舗という名の大海原を自在に動き回り、お客さんの細かな表情も読める様になっていた。嬉しかったり楽しかったり、悲しかったり怒っていたり。お店に入るまでの感情は様々だけど、その人達が笑顔になる瞬間が、私は何よりも好きだった。
父は最高のそばを作り出し、母と私は最高のサービスを提供する。家族三人で作品を世に送り出すという、創作活動にも似た日々は、私の乾いた心に恵みの雨を降らせ、活力を芽吹かせた。そしてその力は、私を深大寺へと向かわせた。百メートルも離れていない距離だが、縁結びの名所としても知られるお寺は、つい先日まで最も縁遠い場所だったのだ。賽銭を投じ、礼拝し、退出する。見上げた八月十五日の空は、透き通る様に青かった。
その日の夕方からのお客さんはご近所の方が多く、父も母も親しげな挨拶を交わしていた。反抗期になってから私は、近所付き合いを殆どしなくなり、中には十五年近くも顔を合わせていない人もいたのだが、昔の面影は必ずあった。相手も私に気付くと目を丸くしたりするので、その度に私は、「お久しぶりです、美香です。先日、オーストラリアから帰って来ました」とにこやかに挨拶した。
実は私は、帰国してから友達の誰にも、まだ連絡をとっていなかった。会いたいとは思っていたのだが、プライドや気恥ずかしさが邪魔をし、コンビニや駅前の本屋に行く事も避けていたのだ。だから閉店近くに来た男性二人組が同級生だと気付いた時には、思わずトレーで顔を隠してしまった。元気で騒々しかった杉本と矢口の馬鹿男子コンビは、たくましく落ち着いた大人になっていた。
「そんなにビックリする事ないじゃん」と杉本が笑って言う。
「ごめーん。それにしても、随分と大人の男って感じになったよね」
「毎日鍛えられてますから。そっちだって自立した女性って雰囲気出てるぜ。オーストラリアに住んでるんだよね。いつまで日本にいるのさ?」
「ずっと、かも」私は状況を説明した。
「本当?」甲高い声で叫ぶと、杉本はそれきり黙り、そばを勢い良くすすり始めた。店内にはズズズー、という音だけが響き、少しして矢口がくつくつと笑い、口を開いた。
「なにはともあれ、お帰り。ところで再来週に調布市の花火大会あるでしょ?俺ら毎年行ってるんだけど、一緒にどう?京子とか綾香にも声掛けてみるけど」
懐かしい名前だった。それと共に、様々な情景を思い出す。
「行こうかな。うん、行くよ。絶対」私は力強く答えた。
二人が帰るのを、店の外まで見送った。
「俺、また食べに来るよ」杉山はやっぱり高い声で言った。そこにどんな感情があるかを察せないほど、私も鈍くはなく、そんな少年っぽさを残した杉本が、なんだかとても可愛らしく感じた。
木々のこすれる音がして、一陣の風が吹いてくる。風の中には植物園やお寺の深い緑や歴史の匂いがし、花火の気配もあった。夜空には大きな月が浮かんでいて、私はそれをいつまでもいつまでも眺めていた。
関根 淳一(埼玉県鴻巣市/38歳/男性/会社員)