<第9回公募・選外作品紹介>「そばをすすりながら」 著者:あかり
そば屋の朝は早い。そばを打つだけではなく、サイドメニューの仕込みや店内の掃除などに追われ、開店時間のずっと前から支度をしなくてはならない。おまけに今日はいつもより早く店を開けなくてはならなかった。
「やってる?」
現れた幼なじみは、まだ掲げてもいないのれんを押し上げる仕草をして見せた。
「やってないけど特別な」
「昨日予約しといてよかった」
軽口を返しながら、志乃(しの)は厨房に一番近い席に座った。いつもの席だ。丈の長いTシャツを着ていて目立たないが、履いているのは基(はじめ)も通っていた高校のジャージだった。
「地元だからって気を抜きすぎだろ。お前だってもう三十……」
「もう親にさんざん言われたからいいよ。鴨せいろ一丁」
「はいはい、鴨せいろね」
他には誰もいないため、店主自ら注文を取って基は厨房に引っ込んだ。父親からこのそば屋『時雨(しぐれ)庵(あん)』を継いで六年になる。深大寺の門前にはそば屋が軒を連ねている。他の店に負けないそばを作れと子供の頃から耳にたこが出来るくらい言われてきた。
「はい、鴨せいろ」
「おいしそう。いただきます」
志乃は組んでいた長い足を揃え、両手を合わせた。丁寧に「いただきます」を言うところ。待っている時手持ちぶさたになって携帯をいじり回したりしないところ。何も変わらない幼なじみの仕草に基は小さく笑った。
「何? 人の顔見て」
「いや、昨日とギャップがありすぎて」
「ドレスアップした姿と高校のジャージ姿比べられてもね」
昨日、二人の高校の同級生の結婚式があった。イタリアで暮らして長いせいなのか、志乃のドレス姿は他の誰とも違っていた。背中が大胆に開いていた紫のドレスと白い肌が一体となり、なめらかな花弁のようだった。初秋の朝から清新な雰囲気のそば屋で思い返すのもどうかと思いつつ、基は志乃の前の椅子に座った。
「指輪、あいつらも喜んでたな」
「メールとかで何度も打ち合わせしてたからね。真美好みの薔薇のモチーフも入れたし、私としても結構自信作かな」
新郎新婦の指に輝いていた華奢なデザインの指輪が基の脳裏によぎる。志乃はイタリアのフィレンツェで金細工師をしている。正確に言うと現地ではインチゾーレと呼ばれる彫刻職人らしい。実家の小料理屋『志のや』を継いで欲しいという家族を振り切り、大学を卒業する前に日本を飛び出した。
もとはといえば、ほんの一瞬だけ幼なじみではなく恋人になった大学生の頃、基がメディチ家をテーマにした展覧会に志乃を誘ったのだ。メディチ家に興味を持っていたのはそれを題材にしたマンガを読んでいた基だけで、志乃は「誘う前にマンガ貸すべきでしょ」と唇を尖らせていた。でも、物販コーナーでメディチ家が統治していたフィレンツェの品として金細工が並べられているのを見て志乃の目の色が変わった。繊細な透かし彫りが施された宝飾品をためつ眇めつしている彼女の瞳の輝きを基は今なお思い出せる。
つるつると美味そうにそばを食べる志乃の頬はあの頃に比べると痩せていた。子供の頃からスレンダーだったが、若いうちはそれでもまだ肉付きが良かったのだろう。
「そういえばいつ帰るんだっけ?」
「今日の夕方」
「ずいぶん急だな。正月はもっとゆっくりしてただろ」
「盆暮れ正月でもないのに見習いの身分でそうそう休むわけにはいかないからね」
「夏と冬は大手を振って休めるのか?」
「イタリア人だからねぇ。その辺は休みたいみたいよ。だから弟子もお休みってわけ」
「それならもうちょっと帰って来てばあちゃん達に顔見せてやれよ。皆修行が厳しいから帰って来れないんだと思ってるんだぞ」
「やーだ。年に一回くらいじゃないとお互い疲れちゃうもん。店継げ結婚しろ子供はまだかって。そういえばだるま踊りなんてやってたんだね。うちに張りっぱなしのポスター見たんだけど」
だるま踊りとは、だるまの格好をして「深大寺音頭」で踊るものだ。長年絶えていたのだが、近所の主婦がメインとなって復活させた。志乃はまだ一度も見ていないはずだ。
「私もだるまを着て踊る主婦になりたかったなぁ」
遠い目をして呟いた志乃に基はそれこそだるまのように椅子から転がり落ちかけた。
「……ああ、本当に私がやれるとは思ってないよ」
基の様子に気づいた志乃が笑う。
「ただ、もし私が親の望みのままに生きられる子供だったらって思うことはある」
「今更だなぁ。お前がそんな子供じゃないなんてもうずっと前から分かってただろ」
「まあね。だけど、多少の反抗期はあっても、親を失望させずに生きていける――親の望みを自分の望みに出来る私を想像しちゃう。小料理屋の女将をやって、その辺の次男坊を捕まえて婿養子になってもらって、今頃は小学生と幼稚園児の子供がいるの」
「それでだるま踊りを踊る、とね」
「そうそう。もちろん踊ってる人達にはそれぞれの人生と選択があったわけだけどさ。もしも私が親の言うようにまっすぐ育ってたらだるまのハリボテを被ってたのかなって」
「向こうで何かあったのか?」
「なーんにも。むしろ楽しくて充実してて仕方ないくらい」
志乃は鴨肉をゆっくり味わってからため息をついた。
「でもねぇ。こっちに帰ってくるとイタリアくんだりで楽しくやってていいのかって思っちゃったりね」
「年のせいか」
「誰が年寄りだっつーの」
「お前が親だの何だのを持ち出して郷愁にふけるなんてそれ以外に理由がないだろ」
「私だって別にこの街が嫌いで出て行ったわけじゃないから。やっぱり実家がなくなるって聞くとね」
最近調布では再開発が進んでいて、志乃の実家は立ち退くことになっていた。
「あんなに継げ継げうるさくて、私が継がないなら死ぬまで自分がやるなんて大見得切ってたのに、いい機会だからもうやめるって。驚くくらいあっさり言うわけ。いざ『志のや』がなくなるんだってなったらね……昔は店の名前と自分の名前が同じなのも気にくわなかったのにさ」
基も、もしもあの時、自分がメディチ家の展覧会に誘わなかったら、と考えないわけではない。しかし、もし金細工に出会っていなくても、志乃はいずれ何かと運命的に出会い、どこかへ旅立っていただろう。それどころか、フィレンツェの彫刻職人の家に生まれていたら、深大寺のそば職人に憧れはるばるここまでやってきていたかも知れない。彼女がそんな風にしか生きられないのは基が一番分かっている。それなら志乃を運命へと導いたのが自分でよかったと思ってしまう。志乃がイタリアへ心置きなく行けるよう別れられる自分が恋人でよかったとすら。
基が出したそばのゆで湯をつゆに注ぎ、一口あおってから志乃は基を見つめた。
「総合すると、基みたいに生きてみたかったのかな」
「それはこっちの台詞だよ」
「嘘。私みたいに生きたい?」
「嘘。やっぱり無理だよ」
「そりゃそうだよね。私達正反対だもん」
基は代々受け継がれてきた老舗ののれんを進んで引き継いだ。昔ながらの安心出来る味。そばを食べる参拝客の笑顔。深大寺の木々が映える参道。この街を愛し、『時雨庵』を守りたいという気持ちは誰に教わったわけでもない。志乃とはきっと永遠に交わらない。
「でもお前のあの指輪を見たら何も言えないよ。おじさん達には見せた?」
「ううん。なんかまだ恥ずかしくて。師匠にはお前の作品を一生ものの結婚指輪にさせるのかなんて言われたし。一生大事にしてもらって、子供や孫にも伝えてもらえるようなものを作るのが目標なんだけどね。真美にもそうして欲しいけど、まだまだだよ」
「俺は昨日少し見ただけだけど、すごくよかったよ」
「ありがと。私も基のそばを食べると元気が出る」
最後までそば湯を飲みきり、志乃はため息をもらした。基はこのあえかな息を聞くためにそばを作り続けているのかも知れないと、ふいに思う。
「ああ、おいしかった。やっぱり深大寺の水はいいね」
「腕がいいんだよ」
「ふふ、すみませんでした」
笑い、志乃は代金をテーブルに置いた。毎年一回だけの鴨せいろ千百五十円。
「ごちそうさま。それじゃあね」
「じゃあ、また」
次に会うのはまたずっと先になるとは思えないくらい、基と志乃は自然に別れた。ただ恋心よりも相手の夢が大切だった若い日を思い出した。
二人の道は決して交わらないし、お互い歩み寄ろうともしない。ここを離れた志乃だから、ここを離れない基だから惹かれるのだと分かっている。
「さあ、仕込みの続きでもするか」
基は大きな声をあげ、この日二番目の客を迎え入れる準備を始めた。
あかり(愛媛県松山市/女性)