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<第9回公募・選外作品紹介>「花心」 著者:空山 蛙

 その日はあいにくの曇り空で、肌寒い一日だった。
 詠華はちょうどひと回り年上の谷下とお花見をするために、バスでひとり、待ち合わせ場所の神代植物公園へ向かっていた。谷下とのお花見はこれで4回目となる。
 昼食用にサンドイッチを作り、持って来たはいいのだが、お手拭を忘れたことに気が付いた詠華は、谷下に会う前にコンビニに寄って調達しなければいけないと、バスに揺られながら考えていた。それと同時に、いつから自分はこんなにも谷下を思い、谷下に尽くすようになってしまったのだろうと記憶をたどっていた。3年前の1回目のお花見には、それは詠華と谷下の初めての正式なデートであったが、谷下がお弁当を作ってきてくれた。その日も今日と同様の、まだ肌寒い日で、防寒用のマフラーまで谷下は持参してくれたのだった。果たして今回、谷下はどれほど自分のことを気にかけてくれるのだろうかと、詠華は淡い期待とともに諦めの気持ちを抱いていた。
 谷下は今年の始め、厄除けのために深大寺を訪れた。その帰りに、いつものように詠華の住むマンションに寄った谷下は、
「今年のお花見は神代植物公園にしよう」
と言った。詠華は、谷下の一見身勝手とも言える、自信にあふれた態度が好きだった。詠華にはない、自分には異性の興味をそそる魅力があることを知っている、谷下のそんな態度が好きだった。
神代植物公園と聞いて、詠華はかつて付き合っていた人との恋に破れた際に、縁結びにご利益があると友人に勧められて訪れた深大寺のことを思い出した。その時のご利益とは、谷下との今の関係のことだったのだろうか。
 詠華と谷下は、マンションが近かったこともあり、お互いの部屋を週に何度も行き来するような間柄ではあったが、世間で言われているような彼氏彼女の関係ではなかった。恋人同士がすることもひと通りしており、傍から見れば、付き合っている者同士とも言えるが、詠華は谷下にとって複数人のうちの一人でしかなかった。決して周りから羨ましがられる関係ではなかったが、詠華はそれでも幸せを感じ、谷下といる時間が何よりも大切だった。
 詠華と谷下との出会いは、今から3年半前にさかのぼる。詠華が事務として勤めている会社に、他社から営業として谷下が来たことが、二人が出会ったきっかけである。詠華は谷下をひと目見て、心を奪われてしまった。しかし、辛い恋愛に破れたばかりであった詠華は、自分には恋愛が向いていないと諦めていた。それから、詠華は何度か谷下を見かけることがあったが、挨拶をかわす程度で会話をすることなどほとんどなかった。かつてよりよく会社に出入りしていた谷下のこれまでの恋愛武勇伝は、社員の中でも有名であった。噂になるほど、谷下は見栄えもよく、恋愛が派手だったこともあり、詠華は自分が谷下の目に留まる存在でないことを自覚していたことも、詠華が谷下への思いを大きくさせない要因でもあった。
 そんなある日、詠華は会社から自宅への帰り道、谷下に呼び止められた。聞くと電車の乗り換え駅が同じであることが分かり、そこまで一緒に帰ることになった。実際話をしてみると、噂で聞く谷下のイメージとは異なり、とても人懐こく、親しみの持てる雰囲気の持ち主だと詠華は感じた。乗り換え駅で別れようとした際、谷下が、
「この近くに、お花見にいい場所があるから、夜桜でもどう?」
と言ってきた。ちょうど、その日は詠華にとって年度末の大きな仕事が終わってひと段落ついた日であり、桜でも見て安らかな気分に包まれたい夜でもあった。詠華は谷下に道案内してもらいながら夜桜スポットへと歩いた。その日の夜桜は、まだ満開には早く、見ごたえのあるものでなかったため、後日、休日に再度二人でお花見をすることになった。今思えば、そのお花見が詠華と谷下の最初のデートであり、その時からお花見が二人にとって年間恒例行事となったのである。
3年前のそのお花見デートで、詠華は谷下とお互いのこれまでの恋愛の話をした。なぜそんな話になったのか、記憶は定かではないが、現在恋人がいるかどうかの話をしたことから、そんな話題になったのだと思う。一回りも年が離れており、地味な自分が谷下にとって恋愛対象にはならないであろうと決め付けていた詠華は、自分の恋愛経験を谷下に話すことに抵抗はなかった。谷下もこれまでの恋愛経験を自慢と自虐を交えながら話した。
 詠華にも谷下にも、これまでの人生において愛した人がいた。谷下は、その人のことを思いながらも、他の複数の人と付き合うことで、感情を紛らわしていた。谷下が直接そのように言ったわけではないが、複数人と付き合っていることを自慢げに話している反面、谷下の話しぶりから恋愛に対する疑心と彼女らに対する虚偽の感情を詠華は感じた。さらに谷下は、たとえ誰かを本気で愛したとしても、いつかは壊れる関係であると、恋愛に対して諦めの感情を持っていた。
一方、詠華は十年近く片思いをした相手とやっと結ばれたと思ったのだが、自分が浮気相手だったと判明して恋に破れていた。そのため詠華は、誰かに本気になって裏切られることに臆病になっていたため、本気にならなくてよい相手を探していた。信じていた人に裏切られるよりは、他の女の人と関係があることを知った上で谷下と一緒にいるほうが、楽だった。追いかけても、追いかけても、自分のものになるかどうか分からない男性といるより、結末が分かっている男性と一緒にいるほうが、自分の感情を制御することができた。たとえ相手に対して感情が大きくなったとしても、それを押し殺すことで、傷付くことから自分を守っていた。
最初のデートで過去の恋愛について話をしてから、二人はお互いの気持ちの隙間を埋め合うために、一緒にいることが多くなった。しかし、二人の関係は、進めたくとも進められない関係だった。二人とも未婚なのだから、恋人もしくは夫婦という関係になってもいいのだが、押し留める何かを互いが持っていた。どちらかの感情が大きくなったり小さくなったりしたら、一瞬で崩れてしまう関係であることを、お互いが分かっていたのである。今現在の関係こそ、自分たちにとって最もバランスがよく、傷付かない最良な関係だと信じていた。詠華にとって、谷下との関係は本気にはならないであろうと、高をくくっていたのだが、その予測は外れていたことに気付きだしていた。それは谷下にとっても、同じことだった。
 詠華は作ってきたお昼ご飯を谷下と食べながら、芝生の上でのんびりと過ごした。二人は、どちらかの家で会うことが多く、今日のように外で会うことは少なかった。外気に触れ、草花を見ていると、時間の流れを感じ、谷下とその時間を共有できている気がして、詠華は普段より少しだけ優越を感じることができた。
神代植物公園を出て、仲見世通りを歩いていると、不意に谷下が詠華の手を握った。それは久しぶりのことだった。二人が手を繋ぐのは、谷下から手を握る時のみだった。詠華には、もし知り合いに見られたらどうしようという不安があった。そしてそれ以上に、自分が谷下を欲していることを認めたくなかったし、谷下にもその感情を分かられたくもなかったため、自分から手を伸ばすことはなかった。
 春、草木はこれから成長して大きく、そして花を咲かせ、美しくなっていく季節である。そんな植物たちに囲まれながら歩いている二人はその成長とは逆行するような感情を抱いていた。
恋心は、花のようにいつかは散り、移ろいゆくものであると分かっていながらも、二人は桜を見ながら手をつないで歩いた。そして、お互いの心と自分への疑いに気付かないふりをしながら、無心に、歩いた。
深大寺が縁結びの神様であるなら、どうか谷下に本当の恋愛が出来る相手と出会わせてほしいと、詠華は願った。そうすることで、他力本願なのかもしれないが、気付かないふりをしていた、大きくなっていく谷下への感情の蕾を枯らすことができると思った。

空山 蛙(長野県松本市/30歳/女性/団体職員)

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