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<第9回公募・選外作品紹介>「木々とうつせみ」 著者:外川 夜鷹

 この冬の間中、僕たちは毎日を共に過ごした。お互いに進路も決まっていたし、学校の試験対策は一緒にした方が効率も良かった。学校の友達に見つからないように、学外で会うことに決めていた。行き場のない僕たちは、寒空の下いつも外を彷徨った。天気がいい日に大抵深大寺にいたのは、神聖な木々達が冷たい風と人の目から僕たちを庇ってくれるからだった。
 僕は毎日傍にいても、彼女の気持ちはわからなかった。ただ、日に日に彼女にもっと触れたいという気持ちが大きくなっていった。
 1月も半分が過ぎたあの日、僕たちは二人で1枚のおみくじを引いた。それが大吉で、「良縁に恵まれる」とあったことに僕たちは歓喜した。それを結ぶ枝に、人気の少ない参道の隅の松を選んだ。大事そうに結び、目を閉じて拝む顔を、僕はずっと見ていた。そして思わず唇を合わせた。
 次の瞬間、不意に強く胸を突かれ、僕はよろけて後退した。彼女は僕から顔を背け、全速力で駆け出していた。僕は予想外の展開に、追うこともできず、ただ立ち尽くした。
 翌日、学校の休憩時間に彼女の親友に呼び出されて叱責を受けた。「最低」、「無神経」といった罵声を浴びながらも、何が悪かったかはわからなかった。とにかく大切な人を傷つけて失った、喪失感と後悔と自己嫌悪で息をするのもやっとだった。

 久しぶりの深大寺の参道は、夏とはいえ冷涼で静謐な空気が漂い、かつて通い詰めた冬の一時を思い起こさせた。この参道のどこかに、淡くて苦い恋の思い出を封印した松の木があるはずだ。
まだ幼かった私は、当時大好きだった彼との「念願の瞬間」、それが不用意な形で訪れたことに対する怒りと落胆、喜びがないまぜになった強烈な興奮から、彼を突き飛ばして逃げた。すぐさま彼に嫌われたのではないかと不安になり、事の顛末を親友に打ち明けた。親友は親身になって聴いた後、彼と話してみると言ってくれた。しかしそれからも彼からの反応はなく、学校でも避けられているのを感じた。それほどまでに私は彼を傷つけたのだ。繊細で心優しく、私を大切にしてくれた彼を。
 
今日ここに来たのは水子供養のためだった。しかし、法要を頼む勇気が出ず、結局参拝だけを済ませた。
先週、7年間付き合った相手と別れた。厳密にいえば正式に付き合ったのは2年半で、あとは相手に恋人ができても結婚しても続いた求めに応じてきただけだ。
今思えば私が相手の求めを拒めないのは、あの冬の出来事があったからかもしれない。
私の中に命が宿ったことを知り、あの人は家庭のある岐阜から手術費用を持って上京した。泣きながら詫びるその人を慰め、なぜか最後にもう一度肌を重ねて別れた。悪い人ではないのだ。でも私を大切にしてくれる人ではなかった。自分を大切に思う他者と自分がいなければ、命は育んでいけない。その直感は確信に近かった。
三十を過ぎ、結婚しても望んでも子供に恵まれず悩む友人の話を聞くようになった。
何も私のところに来なくても、と小さな命を憐れに思ったが、産むという選択肢はなかった。
参道を戻りながら、あの優しかった彼はきっと、大切な誰かと小さな命を大切に育んでいるのだろうとおぼろに思った。

三鷹で母の納骨を終えて、バスで帰ってくる途中、ふと懐かしくなって深大寺で降りた。今日という節目の日を終えた安堵感と、これまでの苦労を乗り越えてきた疲労感と虚脱感で歩みは自然と遅くなった。
9年前の秋、母が倒れた。若年性脳梗塞だった。父を子供の頃に事故で亡くした僕は、母に女手一つで育てられた。母はフルタイムで働き、父の遺族年金を僕の学費に充て、僕を大学まで行かせてくれた。母が倒れたのは、就職難の中何とか仕事を得た僕が、社会人になって半年のことだった。
病院からリハビリ施設に移った母を週一度しか見舞えない自分が、薄情な息子のように思えた。しかし働かなくては入院費が払えない。それに母は僕が社会で活躍することを願っていたに違いない。その期待を裏切らないためにもと、僕は社会の歯車になって働いた。
しかし母の受け入れ施設は3ケ所目で行き詰った。その時に僕は仕事を辞めて母の介護をすることに決めた。他人に大切な人の世話を任せるために、大切な人と生きられる有限の時間を切り売りすることに虚しさが募っていた。
自分で母を看るというのは、言葉で言い表せないほど過酷なものだった。予想はしていたが生活も困窮した。幸い親身になって相談に乗ってくれる人がいたお蔭で、社会資源に頼れるだけ頼って、どうにか暮らした。
生活保護も考えたが、相談先で言われた「息子さん働けるでしょ」という一言で交渉が破綻していることを悟った。
長期化を覚悟していた母との生活は、思いがけず終幕を迎えた。飲み込みの障害からくる肺炎をこじらせたのが原因だった。

葬儀も何もかも、最低限のことしかできなかった。今日、漸くそれが一区切りついた。
母を送り出してしまうと、僕はただの貧乏な無職の男だった。同級生は皆、仕事でそれなりの実績を残したり、結婚して子供を持っていたりする。焦りがないといえば嘘になる。しかし今から僕に何ができるというのだろう。

足元ばかり見て門前の石畳を歩いていた僕は、ふと眼を上げてすれ違う女性を見た。
彼女だ。振り返って後姿を目で追った。
顔を見たのは一瞬だった。が、確信があった。
彼女だ。自分の拍動が耳まで響いていた。
随分痩せただろうか。年相応の落ち着きを帯び、その横顔はあの頃よりも美しかった。
振り向かないだろうか。もう一度顔が見たい。期待しながら見つめる自分がいる一方で、こんな自分を見られたくない、と怯える自分がいた。僕はみすぼらしく老け込んでいる。きっと見ても僕とは気づかないだろう。
僕は彼女が角を曲がるまで見送った。姿が見えなくなってからも、僕は彼女の消えた交差点をしばらく眺めていた。
一瞬ではあれど、彼女の人生ともう一度交差した事は、僕の心に何か大きな力をもたらした。
彼女にもう一度会いたい。こうして出会うことがあるなら、また出会えるかもしれない。だとしたらこのままじゃいけない。
自分でも捉えようのない希望のようなものが急速に胸を支配していった。

僕は来た道を足早に戻った。やれることからやろうと決めた。
彼女が僕を赦さなくても、すでに誰かと幸せを手にしているとしても構わない。大袈裟かもしれないが、彼女がこの世界のどこかで生きていることが、僕が生きていく理由だ。

蝉時雨に混じって鈴虫の声が聞えてきた。母もきっと僕が悲嘆に暮れていては休まらないだろう。不意に涙がこみ上げてきた。
たくさんの命を受け継いで、僕は命をつないでいる。
神聖な木々達は相変わらず、せわしなく生きる僕たちを、悠然と見守っている。

外川 夜鷹(東京都調布市/32歳/女性/医療職)

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