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<第9回公募・選外作品紹介>「深大寺朝景」 著者:郡 恵子

 生まれたばかりの桜の葉の間から漏れる光が、地面にいくつもの光のかけらをつくった。たくさんの顔がうごめきながら、表情を変え、私を見て笑った。固まった体が、ギシギシと音を立てる中、唯一動くことを許された瞼が瞬時に強く閉じられた。
  大丈夫。大丈夫—–
高鳴る鼓動に何度言い聞かせてきただろう。

 「ほら、あの子よ。」
 「あいつ、よく平気だな。」

 学校へ行くつもりだった。乗り換えの調布駅で、吐いては飲み込む電車に押し込まれた人々の歪んだ唇の中からも、その声は漏れていた。
  大丈夫。大丈夫—–

 ざわざわと生命を得て、うごめく波と喧騒の中で、ふと頭の片隅が発車音をとらえた。
  ありがとうって伝えたくて、
聞き覚えのある音楽が、泥地を縫う一筋の清水のように繰り返し流れていた。
「やめてよ。
 私なんて生まれて来なければよかった。」
ささくれ立った私の心が吐き出す。
私には、ありがとうの言葉は余りにも遠い。

 深大寺の山門は、朝の光の中、夜の重苦しさを掃き出す竹箒の音を聞きながら、厳かに結界に立っていた。
古い境内は目を射る程明るく、玉砂利は新しい光を纏いながら、黒光りする肌を輝かせている。
ふと見上げた桜の葉から漏れた光が私を攻撃し始め、行き慣れた時が戻って来る。

 信じていたのに。あの子が皆と笑い合って  
 いるのを見ても、あの子の驚いた表情が瞬
 時に憐憫の情に変わっても、踵を返した私
 を追ってくる足音を探していた。体中の血
 が逆流しても、それでもどこかで叫んでい
 た。

「深大寺にはね、恋の神様がいらっしゃるの。」
私の制服を見て、失恋を連想したのだろう。
老婆の優しい目が問いかける。
「はあ。」
苦笑いが精一杯の私に、老婆の声が不意を打つ。
「ねえ、他人を殺したことがある?」
老婆は過去形で言い放った。
「私ね、殺したことがあるの。何度もね。
 心の中で。」
「私ね、聖母様だと思われていたの。きつい
 姑に仕えてね。終いには認知症でね。一生 
 懸命だった。」
「皆褒めてくれたのよ。こんなに良く面倒を
 みてくれる優しい嫁はいないって。
 でも、心の中では殺していたのよ。私は聖
 母なんかじゃないの。」

「そんな風に思ったら自分が辛くないの?」
「最初はそう思ったの。何て嫌な人間。他人
 によく思われたいとしか思ってないんじゃ
 ないのって。」
「でもね、殺さざるをえなかった。耐えてい
 く心がいくつも必要だったの。もう限界だ
 と思ったの。」
「他人を恋するように、他人を嫌悪する気持
 ちも湧いてくるの。それが離れられない人
 ならば猶更。積み重なっていく。介護って
 ね、きれいごとじゃないの。体も心も、も
 う自分のものじゃなかったの。」

 光の中に浮かび上がる深大寺の五色の垂れ幕に、そこここから聞こえ出す蕎麦打ちの音が小さな風を呼び絡んでいく。
追われるように老婆が辿り着いたのも、この深大寺だったのだろう。
自分をも他人をも嫌悪することしかできない出口のない心と疲れ果てた身体。抱えてしまった淋しさの殻を抱きしめながら、ここにたどり着いたのだ。
「私ね、もう何も、自分のことも姑の幸せも祈れなくなっていたの。でもね、不幸せは祈れなかったわ。
だから、私、せめて姑を好きにならせて下さいって頼んだの。恋の神様にね。」

「それでどうしたの?許したの?好きになれ
 たの?」
老婆は優しく笑った。

「ないの。ないの。」
「どうしましたか?お義母さん。」
「ないの。ないの。手紙よ。」
「どんな手紙ですか。」
「手紙よ。手紙。」
色を失くした姑の、探すというより、ひっくり返す作業が続く。いつものことだ。姑はいつも何かを探している。こうして長時間繰り返し、いつか探していることも忘れていく。、この日の探し物は長く、執拗で、怒りの矛先は容赦なく、自分にも周りにも向けられていた。

 しかし、あれほど探し、手紙などなかったのではと皆も思い始めたころ、それはひょっこり出てきた。
 その日、私は、薬を貰いに行った帰りの道端で、雨に濡れている蝸牛をみつけた。
  確か、でんでんむしのかなしみという題
  だったろうか。背負った殻の中の孤独が
  哀しくて、周りの動物にいろいろ聞いて
  回ったら、みな、同じように孤独を抱え
  ていた・・という話。
透明な、しかしくっきりと渦の痕を刻みつけたこの殻の中にどれほどの哀しみを背負っているのだろう。
そんなことを思いながら触れた手に、そぼ降る雨が筋となって流れていった。

何気なく拭おうと触れたポケットの中、ハンカチと一緒にその手紙は入っていた。
くしゃくしゃになった紙の中に、何の意味も持たない震える線が、あるかなしかの筆圧に消えかかりながら書かれていた。
篠降る雨の蝸牛の殻に当たる音が、紫陽花の葉にはねかえる力強い音を背中に、少し尾をひきながら流れていく。
混じることのできない哀しみの音を あの人は長い間ひとりぼっちで聞いていたのだろう。滑り落ちていく幾筋もの流れは、時に流れを変えながら、体に染み込んでいく。

 「お義母さん。まるで蝸牛のはった跡です
  ね。」
 不意に流れ出す涙の中、この手紙は、哀しい運命を背負った蝸牛の人生なのだ、と思った。

 境内に玉砂利を踏みしめる音がリズミカルに響きはじめる。
鈴を揺らす音。柏手の音。人々の祈り・・

「さあ、人々の願いが、一日が動き出したわ。
 あなたの人生といっしょね。
 あなたはまだ、人生の朝の時間を生きてい
 るのだから。」

 山門前に軒を連ねる土産物屋で働いている人々の声が、小学校に通う子ども達に向けられる。
「行ってらっしゃい。いい天気だね。」

 玉砂利を踏みしめて、歩き出した私の前で、深大寺の鈴の音が大きく鳴り響く。
 私は、大きく息を吸い、ゆっくり柏手を打つ。

郡 恵子(東京都調布市/53歳/女性/主婦)

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