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<第9回公募・選外作品紹介>「フット・イン・ザ・フェイス」 著者:みやした 侑子

陽射しが薄墨の雲に隠れて、冷たい風が二の腕にまとわりついてきた。
一粒落ちると、数分後にはゲリラ雷雨になるのが今年の夏だ。

初めてお参りに来たのは小学校に上がる直前で、新築マンションを買った両親が厄除けと家族三人のお祓いをしてもらい、それ以来、初詣は深大寺になった。頭と、当時習っていたバレエが上手になりますように、元気に大きくなりますように、父と母が交互に煙たい掌であたしを包んでむせびそうになった。
薪能に行ったときは茶碗に絵付けをして、並べた大小のだるまの絵を店の人が褒めてくれ、今でも朝夕のテーブルに乗る。
順番に店先を覗いていると、隣にいたはずのモリオくんがいない。ずっと先の角を曲がる赤いTシャツの背中を追いかけると、振り向きもせずに顎を突き出して言った。
「お腹空いた。蕎麦、食べない?」
「降りそうだしね。雨宿りで飲もうか。」
ピークが過ぎているせいか、先客は窓際の中年主婦グループが一組と、調理場前の席で飲んでいるおじいさんだけだ。ここは、「いらっしゃいませぇぇ。」と語尾を上げて三秒ほど引っ張るよく通る声、接客はピカイチの花番さんがいる。
「ビールと枝豆、板わさをお願いします。マリコは?」
「あたしもビールと、野菜天の盛り合わせで。」
注文を調理場に通したところで雷が鳴り、大粒の雨が3Dのように迫ってきた。窓に左手を当てると、モリオくんは右手の指をぴんと伸ばして真似した。
「タイミングよかったね。これから混んでくるよ。」
間もなく、半分ほどのテーブルが埋まった。
「お待たせしましたぁぁ。」
冷えたグラスを持ち上げると、水滴が花番さんの指跡を辿って親指と人差し指の上で止まった。
「お疲れ。」
中庭の葉っぱたちは、この夏何度目かの荒行に耐えている。
「この間、ちょっと大きな仕事が取れたんだ。長かったなぁ。」
最初は企画やデザインを見てもらうだけだったが、何度目かで小さな仕事がきて、そこから一年がかりだったそうだ。
「先輩が、フット・イン・ザ・ドアだなって言ったんだけどね。」
それは、小さなお願い事から入る段階的要請法で、「買わなくていいですから、話だけでも聞いてください。」と、開けてもらったドアに足を挟むセールスマンからきているそうだ。モリオくんはそんなことを知らずに営業したのだろうが、話を聞きながら、井の頭線で再会した日を思い出した。

吉祥寺駅と家の中間にある高校には推薦で入り、制服もなく、風変りで自由な校風で有名だった。
音楽部でミュージカルをすることになり、オーディションで主役の座を射止め、相手役の王子様に決まったのが、内部生の大道具担当モリオくんだった。パーマをかけた長髪を一つ結びにしているビジュアルと、お母さんが有名な声優ということで抜擢されたと一部で噂があった。稽古が始まり、ダメ出しが二回続いた翌日、スポットライトを使ったら、舞台が揺れるほど大音量で歌い、顧問の先生は「降臨したね。」と言っていた。
本公演が終わってしばらくして、中庭で一度だけアイスをご馳走になったが、もう音楽の神様は姿を消していた。モリオくんは美大に進み、あたしは推薦で四大に入り、再会したのは、成人の日の夕方にライブハウスで開催された音楽部の同窓会だ。  
王子様は二次会のカラオケには行かず、一足先に店を出たあたしを追いかけてきた。
「今日は飲むから、バスで来たんだけどさ。一杯だけ付き合ってくれない?三十分だけ。」
モリオくんの肩からは、あたしと同じように狭い交友関係で生きている匂いがした。
焼鳥屋さんに入った。二人が真っ先にメニューを指したのがシュウマイで、「焼き鳥よりさ、ここはこれだよね。」と三個を分け合い、あとは枝豆とモツ煮と冷やしトマトで二杯ずつビールを飲んだ。
店を出て井の頭通りに出ると、どのバス停も長い列ができていた。
「あたしは五番乗り場。モリオくんは?」
信号が変わって横断歩道を渡ると、すぐに立ち止まった。
「ここ。深大寺行き。途中まで一緒に乗っていかない?このへんで降りればどう?遠回りになっちゃうかな。」
指差す路線図を見ると、知っているバス停があった。
「そこが一番近いかな。いいよ。乗ってく。」
一本見送って先頭に並び、掲示板の表示を見ながら、何分前にバスが来るか当てっこして、発車時間があと二分に変わったところでアドレスを交換した。
「次で降りるね。」
振り返ってバスを見たら、一番後ろの座席でモリオくんは大きく手を振っていた。
たぶん、その日、あたしはモリオくんを好きになった。

東京のはずれの自動車工場で二年働いては外国に行って半年間も音信不通になり、もう忘れようと思うと帰ってきて、メールが届いては会う関係が長く続いた。
契約社員で百貨店に滑り込んだあたしは正社員になれるかどうかもわからなくて、もう六年だ。リーマンショック以降、工場の仕事は当てにならず、紹介で小さなデザイン会社に就職したモリオくんは、大事なプレゼン以外でスーツを着ることはなく、相変わらず髪を束ね、リュックを背負って、徹夜したり午後出勤したりの不規則勤務で、平日に休みが取れるとメールかスカイプで誘われ、デートらしきものが月に一、二度。お天気がよければドッグランを眺め、時々バドミントンをして植物園に行き、喫茶店か蕎麦で締めくくり。深大寺付近のイベントにはほとんど出かけた。

「もり、お願いします。」
「あたしは、かけで。」
「仕事もなんとか軌道に乗り始めたしさ、家を出ようかと思って。」
モリオくんは、蕎麦をひとすくい、何もつけずにそのまま口に運んだ。次に汁にくぐらせて二口、山葵を入れて三口、最後は七味をかけて二口で、「うん。」と箸を置いた。
「一人暮らしするの?」
花番さんが摺り足で蕎麦湯を持ってきた。
「ふー。うまい。」
返事を待っていたら「お待たせしましたぁ。」の声が近づいて、器の中で小さく揺れるつゆに歪んだ顔が映った。
「結婚しようと思ってるんだけど。」
蓋を開けた七味を目の前に置くと、両腕をテーブルに乗せて覗きこんだ。
「えっ?」
誰と?と聞こうと思ったのに蕎麦をすすってしまい、喉のあたりが混乱した。顔を上げるとテレビの砂嵐の光景が広がり、やっと消えたと思ったらザーっという音がモリオくんの声を遮断して、ジェスチャーごっこか無声映画みたいだった。
沈む最後の一本をすくい、汁を飲み干した。
「うまそうに食べるね。ねえ、聞いてる?」
付き合おうと言われたわけでもないし、たった一回のキスはタイから戻ったその日に行った居酒屋の帰り道で、酔っ払いの事故みたいなものだ。自転車で家まで迎えに行ったときは、出てきたお母さんに「M校の同級生」と紹介されたじゃないか。
「そろそろ出ようか。雨、止んでるよ。」
〆に甘味を食べずに出るのは心残りだったが、このままいたら泣くかもしれなくて、決定的な敗北は避けたかった。
西日が射すアスファルトの染みは、あっという間に小さくなっていく。一番乗りのバス停で、ベンチの端っこに腰かけて足を垂直に持ち上げた。
「そこ、濡れてない?」
太ももの裏に三秒ほど手を挟み、掌を顔の正面にかざすと、指の間から洩れる逆光でモリオくんの目がきらきら光った。
モリオくんは時刻表を見てからリュックを下ろし、手を入れてごぞごそしていたが、探し物が見つからないのか、中身を一つずつ取り出した。
黒と黄色の小さなスケッチブック、あたしがクリスマスプレゼントにあげた緑色のペンケース、モバイル、紺色のタオル、ケースに入ったペットボトル、初めて見たグレイの折畳み傘、ブラシやジェルが入ったメッシュのポーチ、黒字に赤のロゴが入ったICカードケース。刑事もののドラマで見る証拠品のようにきれいに並んだ。
「あったあった。はい、鍵。住所はメールするけど、ここからすぐ。あんまりおしゃれじゃないし、二DKでちっちゃいけど、いいよね?」
顎から落ちた汗がスカートの上で二つの水玉模様を作った。
「さっきの続きだけど、ぼくはマリコの部屋をノックして、礼儀正しく段階を踏んだと思ってるよ。ドアに足を入れたりしないでね。」
セールスマンの足元は茶色のゴム草履だから、ここでドアを閉めたらアメリカのコメディドラマみたいなオチになる。
鍵には、初めて二人で初詣に来た時に買ったダルマのキーチェーンが付いていた。

みやした 侑子(東京都三鷹市/56歳/女性/主婦)

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