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<第9回公募・選外作品紹介>「ひかる水」 著者: 小林 こと

  夏の夜は、あちらこちらで真夜中過ぎまで宴がひらかれているから、そのざわめきが空気に溶けて伝わるのか、中学生でその宴にはまだ加われない私たちもなんだか落ち着かず、夕食が済んでも遊び足りない。
 わぁきれいとカオルが華やいだ声を上げた。お寺に続く道沿いに大きな七夕飾りが並んでいて、色とりどりの短冊が、しゃらしゃら夜空に揺れている。左右から斜めに伸びた七夕竹はてっぺんが交差しトンネルのようになっている。ヒカルちゃん、カオル、私の三人は、ソーダ味のアイスをかじりながらそれを見上げている。小さな風に揺れて翻るピンク、水色、白、黄色、ところどころ金色、銀色。ときどき風鈴の音が聞こえてくる。口いっぱいに頬張っていたアイスのかけらがやっと溶けて、冷たい息をスーハーしながら、上げていた顔を元に戻すとヒカルちゃんがいない。
「ヒカルちゃんどこ!」
ヒステリックな声に、カオルがビクンと振り返る。反射的に出た声のきつさに自分でも驚いていた。ゴメンゴメンと声がして、七夕トンネルの奥の闇から、白いTシャツがそこだけ光っているみたいに近づいてきた。
  ヒカルちゃんは私のお兄ちゃんで、もうすぐ15才。カオルと私は今年13才。たった2才の差だけどヒカルちゃんは随分と大人。私とカオルはどちらかというと内気でぼんやりだけれど、ヒカルちゃんは活発な親分タイプで水泳部のエース。ヒカルちゃんは、私とカオルを両脇に抱えるように肩を組む。三人でいると私たちは無敵になる。
 
  リコの家は大家族で、居間には大きな座卓が二つ並んでいて、いつでも必ず誰かがそこにいる。それは、おじいさんの囲碁友達だったり、おばあさんの三味線仲間だったり、おばさんの書道教室の子供たちだったり。庭に面した窓と障子はいつも開け放たれていて、大きな扇風機が二台ぶぅーんと回っている。いい風がいつも吹いているのは、ドラマで見たお風呂屋さんの脱衣所のようで、みんなさっぱりと気分のいい顔をしている。
  二階に上がってすぐ右がヒカルちゃんの部屋、そこはインコのピィとチィ、亀のミントさんの部屋でもある。黄色のピィと水色のチィ、籠から出すとぱたぱたと飛んでヒカルちゃんの肩にとまる。ピィが右肩チィ左肩。ピィが僕の手にやって来た。手の中に収まる小さなものが、か細い足で僕の指をしっかり掴んでいる、うわぁ、なんだろうこのヒトは…。ピィはしばらく眠そうにしておデブみたいに羽を膨らませていたけれど、突然羽ばたくと、嘴で僕のシャツを引張るボタンを齧る髪を掻き回すの大暴れ。気が済むとヒカルちゃんの肩に戻り、お利口そうに首を傾けた。
 もう一名の住人、亀のミントさんは、ピィやチィが大騒ぎでも常にマイペースに静けさを保っている。ミントさんは昨夏この家にやってきた。庭に自生しているミントの繁みからもぞもぞと現れたのでミントさんと名付けられた。ヒカルちゃんは「ミントさんは風格がある、泳ぎが上手い、オレの師匠である」とミントさんを敬っている。僕も何となくミントさんは偉いと思う。孤独でいて満たされているというか…。内面を見つめる目をしているから。最近、僕が作るレース編みや刺繍の作品は、小鳥と亀の模様ばかり。
 
 私の将来の夢。それはカオル邸のようなお家で暮らすこと。家具はすべて白かベージュ。透けるカーテンはたっぷりドレープをとってウエディングドレスのように。門に絡まる薄ピンクの野ばら。数枝をちょきんと切って小鳥模様のティーカップに小さく生ける。白いスリッパには銀の糸で王家の紋章風の細やかな刺繍を。ららららーん。嬉しくなって、私はピィとチィみたいに両腕をぱたぱたさせ、白いお部屋を飛び回った。
「リコ、妖精になったの?」
「うん、ひーらひら」
「初めて会った時もリコ妖精みたいだった」
「えー」
「あの時、植物園のこんもりしたお化けすすきのところで僕、座って編み物してたでしょ。イヤホンで音楽を聴いていたから気配に気付かなくて。顔を上げたら女の子が目の前に立ってて。わ、お化けすすきの妖精出た!って。逆光でシルエットだったし」
お化けすすき…。まぁ、いいか…。
 ヒカルちゃんも、この小さなお城にやって来たことがある。カオルが好きな海のドキュメンタリー映像を見に来たのだった。夜の黒い海、白い鯨が波間に現れては消える。七夕トンネルの奥に一人で行っちゃったあの時のヒカルちゃんみたい。白いTシャツが暗闇に溶け残ったように浮かんでいた。鯨は、夜の海に飲み込まれるように見えなくなった。映像に見入っているヒカルちゃんは、窓辺の淡い光で髪や細かな産毛が金色を帯びて、仄かに発光しているかのようだった。その横顔をカオルはじっと見つめていた。「鯨はすごいね、鯨みたいに泳ぎたいなあ」というので「来週の水泳大会、鯨になれたら優勝だね」と返すと、ヒカルちゃんは方頬だけあげる不敵な笑顔でVサインした。

 僕とリコはプールサイドでヒカルちゃんの登場を待っていた。空を横切るちぎれ雲がプールに影を落とす。暑さと跳ね上がる水と歓声、選手たちと応援団の熱と緊張、エネルギーの充満したところにいると、視覚や聴覚の遠近感が狂う。大会最後のレース、ヒカルちゃんが第四コースに現れた。鯨になる、鯨になった、というヒカルちゃんの小さなつぶやきが聞こえた気がした。バーンというスタートの合図、選手たちが一斉に水に飛び込む。他の選手たちが水をバシャバシャ叩いているのに、ヒカルちゃんはなかなか水面に現れない。長い潜水、浮上したのは他の選手たちより身体半分進んだ位置だった。観客席から拍手が上がる。真直ぐ鮮やかに水を切っていくのが、滑らかな生地をたちまちに裂く銀色のハサミのよう。雲が流れ去り、強い日差しに水飛沫がきらめくと風景が幾重にも滲んだ。
 
 八月のある日、ヒカルちゃんは海に行き、それから戻らない。
 鯨なら戻るべきは海なのだろうけれど。
 
  夏休み最後の日曜日、私はそういえばと、開放されている学校のプールに出掛けた。夏の終わりの飴色がかった濃い日差し。スコールみたいな蝉の声に地面がぐらりとする。一緒に来てくれたカオルは水には入らず、プールサイドで日傘で読書。終わりの夏の午後、監視員の先生と私たちしかいないプール。
  息を止めて水に潜ると蝉の声は消えて水色の明るい静寂が訪れた。水中では陽光の形が見える。光の矢が太陽から届いている。あれはいつの記憶だったか、廃墟になった教会に、割れた窓から幾筋もの光が斜めに差し込んでいた。時間が止まった世界。
  どぼんと鈍い音がして、水中に大きな泡がたった。そこから誰かが近づいてくる。あれ、カオル?黄色いシャツがめくれ上がって金魚みたい。水中で向い合い、私たちは同時に水から顔をだした。
「リコ!大丈夫!」
「え」
「だって沈んでたじゃん!」
ピィーッと監視員の先生が笛を鳴らし、大丈夫かーと駆けてくる。慌てて水から上がるとまたすごい蝉の声、地面が斜めになる。風景が目の前から崩れて消えていく。カオルと先生の顔。めまいは一瞬で、元の風景が高速で再構成されていく。だけど再構成されたなら、それは元の風景とはいえないな。
 カオルは先生が体操着を貸すというのを丁重に断って、ずぶ濡れのまま帰った。そういうドラマチックなのがカオルは様になる、なんて、ごめん、ありがとう、カオル。
 
  その日はいつにもましてリコの家は賑わっていた。従兄弟のサトシさんが、東京での受験のため、しばらく二階の部屋に下宿することになったのだ。サトシさんが使うのは二階のピィとチィとミントさんがいる部屋で、昔はおばさんのお兄さん、つまりリコの叔父さんの勉強部屋だったそう。そのせいかさっぱりとしていて、男の部屋という感じ。ピィとチィ、ミントさんの三名はリコの部屋に引っ越すことになった。
 
  うわぁ、という真夜中の叫び声で一家全員、サトシお兄ちゃんのところに駆けつけた。電気をつけると、布団の上に黒っぽい塊。
「あれっ!ミントさん、私の部屋にいたのにー!水槽から自分で出てここまで来たの?」
顔面蒼白のサトシお兄ちゃんはさておき、一同はミントさんに関心しきりで、その気持ちを慮っていた。結果、ミントさん、ピィとチィの三名は、やはり元の部屋で暮らすことに決まった。
「ピィもチィも前からお兄さんが好きだからサトシお兄ちゃんにもきっとよく懐くよ」
「お兄さんってカオルちゃんのこと?」
「ううん、カオルじゃなくて、別の男っぽい優しいお兄さん。ええと、あれ、誰だっけ…」

 リコが水底で真直ぐに横たわっていたので、溺れたと思って僕は大慌てでプールに飛び込んだ。だけどあの時リコは、ただ光が水の形に揺れるの見ていただけなのだそう。水に閉じ込められて音がなくて、息を止めていると、時間が止まったみたいなのだと。
「カオル、さっきまで覚えていたし、とても大事なことだと思うのに、どうしても思い出せない夢ってない?」
リコはあの日の帰り道、そんなこともいった。

小林こと(東京都多摩市)

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