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<第9回公募・選外作品紹介>「入刀」 著者:伊藤 瞬

 目前に伸びた坂道が陽炎に揺らめいている。蝉は鳴いていないが、左方、木陰に浸る階段からは、夏の匂いが鮮明に吹き零れている。
しかし、長閑さと引き換えに、商店の気配が霧散してしまった。きっとこの先には、何もないのだろう。
 ぬる、と振り返る。吹き出す汗を素手で拭いながら、亀のように鈍く、来た道を引き返していく。やがて、さっきわざと見過ごした石段が現れる。やはり期待は出来なかったが、色あせた紫陽花を横目に、石畳を昇ってみる。
開けた視界に予測通りの落胆。左に地蔵、右に手水舎、あとは目前の小さな寺と、周辺図。隣に受付小屋のような案内所が建っていたが、小窓は閉めきり、人気はない。
 仕方なく手水舎の屋根の下に入って、柄杓で水を掬いあげてみる。左手を流し、右手を流し、曖昧な作法をなぞる。水を口に含んで濯ぎ、不意にゴクリ、と飲んでしまう。咽喉を降下し罰当たりのような、不潔なような、歯がゆい気持ちになったが、胃に落ち込むと清涼感が手足に抜けて、ここに来て初めて、ほっ、と安堵したような気がした。
 ――一体、喫煙所は何処にあっただろうか。
「文太」
 突如声がして、反射的に振り向くと、階段を昇った所に美穂が居た。裾に花柄の刺繍が施された白いワンピースを着て、肩から小さな革のショルダーバッグを提げている。口元に薄く笑みを浮かべて、二枚の唇は淡いピンクに艶めいている。髪は頭上で団子に纏められて、斜めになった前髪に、リボンの形のヘアピンが赤、青、一つずつ刺されている。
 熱気に揺らぐ白光の中、今まで見た事のない恰好で直立している。
「何だか、随分お洒落じゃない」
 思わず、言ってしまう。
「いつも、こんな感じだったじゃない」
 美穂はワンピースの腰の辺りを摘まんだ。
「そうだったかな」
 僕は手水舎を出て、美穂の隣に歩いて行った。肩が並んで、その若干の高低差が、妙に新鮮に思える。
「……いつ振りだったかな」
 階段を下りながら、独り言のように呟く。
「四か月くらい、かな」
 美穂も、小さく返答する。何か聞こうと思って、でも、階段を下りきって忘れてしまう。手を繋ごうか悩んで、やっぱりやめておく。美穂は、何も言わない。何処に向かうか示し合わせていないのに、足取りには迷いがない。追従して、蕎麦屋、陶器屋、土産屋を抜けて十字路。右に寺社の門、反対側に黄色いソフトクリームのようなオブジェが見えて、
「あんなの、前来た時もあったっけ」
 と指差し、美穂に尋ねた。
「あったよ」
 ちら、と一瞥、美穂は当然のように答えた。
「……ここに来た事、あんまり覚えてないんだ。喫煙所が見つからない」
「まあ、一年も前の事だから。煙草は、お蕎麦屋さんで吸ってたし」
「ああ、そうか」
 どうりで見つからないわけだ。と僕は得心したが、美穂の言う過去の情景はまるきり浮かばなかった。今ここを歩いている事すら、生まれて初めてのように思える。バスに乗った時からずっと、浮足立った気分でいる。
「……じゃあ、蕎麦屋にでも入ろうか」
 僕は直ぐ横の、狸の置物が置かれた蕎麦屋を指差した。
「うん、」
 そう答えたが美穂の足は止まらず、
「でも、その前に行くとこがある」
 と付け足した。
「ふうん」
 僕は相槌だけ打って、それ以上何も聞かなかった。例えば尋ねた時の美穂の返答が一年前の行動に順じているとしたら、僕はきっと覚えていない。四か月ぶりらしいデート。忘れた、覚えていない、そんな事ばかり言うのは、美穂に申し訳ないような気がした。
 ――気がして、まだ美穂を心使う気がある事に少し驚いた。
 商店が消え、木漏れ日に斑点模様をつけた道を抜けると、奥に、駐車場に噴水が設えられた蕎麦屋が見えた。あそこか、と憶測したが、美穂はその手前に建立された古めいた寺に体を向けた。
段差はあれども、木々も、壁もない、四方が丸裸の寺。傍らに看板が立っており、寺の説明文が書かれている。例に漏れず僕は、その説明文に、名前に、風景に、覚えはなかった。美穂は真っ直ぐ石畳を跨いでいき、突然、方向転換、大きなハードルみたいな絵馬掛けの前で立ち止まった。
「……絵馬、か」
 何となく呟いて、美穂の横に立って眺めてみる。
「良縁に巡り合えますように」。「彗、愛実が永遠に仲良くいられますように」。「裕子さんと結ばれますように」。「受験に成功しますように」。「恋愛成就出来ます様に」。
赤い紐に結ばれた家形の板に、文章だけで、また、イラスト入りで、様々な思いが描かれている。
「……まあ、こういうのって面白いよ。他人の生活を覗き見てるみたいで」
 言ってみたが、返答は無かった。振り向いて美穂を見やると、両手を使って熱心に絵馬を翻していた。から、から、板のぶつかる乾いた音が鳴って、僕もまた、絵馬を眺めるのを再開する。でも、視界はぼんやり、思案がもく、もく、頭の中に拡がって、文章なんて、絵なんて目に留まらない。
美穂は、絵馬が見たかったのだろうか。絵馬を見たいがために、僕を深大寺に呼び出したのだろうか。
――僕たちがするべき事は、他に幾らでもあるはずなのに。
「あった」
 声が聞こえて、振り向くと、美穂は列になった板の最後尾辺りから、一枚の絵馬を横に抜き出していた。
太い文字で二行、文字が書かれている。
『美穂と文太が、ずっと仲良くいられますように』
「あ」
 僕は声を漏らしてしまった。湧き水のように過去の記憶が溢れ出して、その圧力に咽喉が開かれてしまった。僕は、美穂は、僕たちは、一年前、確かにここを訪れた。今とは比べ物にならない穏やかな笑みを交わしあって、蒸し暑さも無視し手を繋いで、寄り添って歩いて、本堂の売店で絵馬を買って、その薄い板に熱烈な愛情を記して、縁結びの神様だと上気して、でも、少し気恥ずかしさもあって、本堂から一寸離れの、森閑とした小寺の、この、絵馬掛けに、赤い紐を吊るした……。
「覚えてる?」
 美穂の声がして、はっ、と我に返る。振り向いて、日差しに頬が白く濡れている。
「……覚えてるよ」
 答えると、美穂は微笑を浮かべた。頬にぷつり、と笑窪ができて、それは一年前とは、いや、僕たちが毎日のように二人で居た時よりも、寂れた色を顕しているようだった。何も言えず、静止してしまっていると、ふいに美穂は絵馬から指を離し、その手を自分のバッグに下ろした。中をごそ、ごそ、弄って、何かを取り出す。まるで僕に渡そうとしているみたいに、手の平に乗せて僕に差し出す。口は紡いだまま、じっ、と僕を見詰めている。
黒色の、細長い、十徳ナイフ。
 ――僕は、美穂の意図を正確に理解した。
 小さな手の平から十徳ナイフを取り、爪でナイフを抜きだす。見やれば美穂は、さっきよりも明確に僕たちの絵馬を、トランプの手品のように、連なる絵馬の中からつまみ出していた。僕はその絵馬の赤い紐にナイフを当てて、すると、美穂はもう片方の手を、僕のナイフを持つ手に重ね合わせた。一瞬、赤い紐がナイフから離れようとしたが、鋭利な刃は執拗に紐を捉えた。僕たちは、顔を合わせず、示し合わせもせず、でも、同じタイミングで、指先に力を込めていった。
ぱつ。
と、紐が弾け飛ぶ。
切断面すら赤い紐は、まるでホースのように絵馬の上をのたうち回った。溢れ出る水の如く美穂との記憶を噴出させて、絵馬に書かれた文字を掠めて、下地の板すら朧にしていく。舞い踊る紐だけが真紅の輪郭を、その軌道を鮮明に写し、僕たちの過去を、幸福な記憶を、無情に切り捨てていく。
 かつん。
 記憶の裂け目から音が飛び出す。
かつん、かつん。
波打って、徐々に現実が拡がっていく。
かつん、かつん、かつん。
奥に潜む木々の隙間に、梅雨明けの朦々とした熱気の中に、七夕を過ぎ、盆を待つ夏の空白の時間に、
二人の夢が、消えていった。

 ぷか、ぷか、動物霊園の敷地の中で煙草を吸う。霊園も、灰皿も、まさかこんな所にあるとは思わなかった。巨大な慰霊塔が空を劈いて、涼風がたなびく。ここだけ観光地の喧騒が一掃されている。とはいえ今日は平日、その賑やかさは端から沈着している。
 見やれば美穂は受付所の横の段差に座り込んでいた。その目前には寝転がる黒猫。動物霊園の黒猫だなんて、縁起が悪いのか、逆に頼もしいのか。美穂はじっ、と猫を見詰めて、さっき買っていたペットボトルのジュースに口をつけていた。視線に気が付いたのだろうか、くる、と僕に顔を向けたが、微笑も浮かべず、直ぐ猫に視線を戻した。
 ふと、片手に持った絵馬に視線を落とす。
 ――ここで、動物たちと一緒に燃やしてくれればいいのに。
 ふん、と思わず、失笑してしまう。
 吹きこぼれた紫煙が、美穂の姿を覆い隠した。それから、僕の汗に滲んだ肌にも蓋をした。
硬質の空間が、僕と美穂の間を埋めていた。

伊藤 瞬(東京都武蔵野市/23歳/男性/フリーター)

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