<第9回公募・選外作品紹介>「折れ曲がった道」 著者:相原 文生
永い間心に鬱積し続けた澱が少しだけ取り除かれた思いがした。だからと言って、過去が未来に繋がるわけではない。齢白秋に至れば、青春も朱夏も戻ることはない。人生は取り返しのつかない旅の積み重ねである。
秀行は一人、深大寺墓域にある黒御影の石田波郷の墓前に佇んでいた。誰が供えたか好物の熟れ柿が一つ。朱色が鮮やかだ。
随分久しぶりの墓参だが、墓域も広くなり、新しい墓が増えた。皆吉爽雨の質素で小ぶりな墓石、その奥の小林康治の自然石の墓も、いかにも康治らしい趣がある。
吹きおこる秋風鶴を歩ましむ 波郷
まさに『吹きおこった風』、が二人を別離の道へと歩ませ、三十年ぶりに再会させた。
秀行にその気はなかった。逢ったから、何がどう変わるわけでもない。だが、『命果つる前に』と言われると心は動く。もともと憎しみ合って別れたわけではなかったのだから:。
「あなたの心ない言葉が、兄を死に追いやったという噂があります。本当でしょうか?」
怒りより、哀しみと諦めの表情を浮かべ、博美は縋るような眼差しで言葉を発した。
「かもしれない:。いや、そうだと思う:」
否定する自信はなかった。自分の言動が彼を追い詰めた事実は争えない、と思った。
博美の兄博之は真面目を絵に描いたような男だった。二人は俳句結社『木道』に所属。三十になるかならないで、主宰の尾瀬成人から同時に同人に推挙され、名前を捩り『二ユキ』と称され、若手のホープと目されていた。
順調に行けば、何れかが尾瀬の後継に指名されるのは確実とみられた。だが、どちらが指名されたとしても、すんなりとは行くまい、というのが大方の会員の見方だった。
二人の句風が大きく違っていたからだ。秀行が伝統的俳諧味を重んじるのに対し、博之は大胆かつ斬新な詠みぶりが特長であった。
尾瀬は二人を公平に評価する視野の広さを持っていて、個性を個性として伸ばす度量も備えていた。この懐深さゆえ、多くの会員が集った。尾瀬が健在のうちは何事もなかったが、病で倒れたことで波乱が起きた。博之が主宰の意向を無視、新たな結社作りに動いている、という噂が広まったのである。
『恩を仇で返す気か!』。秀行は激怒した。
そもそも博之を『木道』に誘ったのは秀行である。『相談もなしに勝手な行動を取るとは何事!』。秀行は博之を呼びつけ詰問した。
博之は一言も弁解せず、ただ唇を噛み締め、黙って秀行の言い分を聞いていた。
博之が奥多摩の湖に入水、死んだのはそれから一週間後だった。彼は俳句に命を賭けており、秀行との後継争いに敗れれば、この世界に居場所はない、とまで言われていた。
博美も博之と同時期に『木道』に入会、秀行と親しくなった。よく三人で吟行に出かけ、即席句会をやった。博美の句風は写実を重んじ、そこはかとない心情を託す、どちらかと言えば秀行に近い詠みぶりで、句会は常に二対一。博之の分が悪かった。
『愛の強さに如くものはない』と博之は苦笑いを浮かべ、二人の仲を認めていた。
しかし、尾瀬が倒れ、博之が反旗を翻すと噂されて以降、関係はぎくしゃくしていた。
「酷い!酷すぎます。兄は『木道』の将来を考え抜いた上で動いていた筈です:」
「非常事態だからこそ一枚岩になる努力をすべきで、彼の行動は軽率の誹りを免れない」
「それはあなたのお考えでしょ?全く違う考えの方もいます。兄は『木道』の捨て石になる覚悟で動きたいと:。それはあなたが一番ご存じの筈じゃありませんか」
博美は溢れる涙を拭おうともせず、唇を噛み締め、秀行が博之を擁護しなかったことに激しく抗議した。だが、秀行の立場から言えば、彼の行動はどう贔屓目にみても、容認できるものではなかった。それに「所詮彼とは進む道が違う」という思いも強くあり、何れ決別すべき運命にある、という予感もあった。それはまた、博美との別れをも暗示していた。まして、自分の言動で最愛の兄が死に追い込まれた、とすれば、肉親の情からして、到底赦せるものではないだろう。秀行は博美の心中を察し、別離を決意した。
逢ふもまた別るるも花月夜かな 康治
その博美から、およそ三十年ぶりに連絡があった。『木道』の後継誌『白兎』で名前を見たのだと。秀行は、会社勤めを定年で終え、『白兎』の副主宰兼編集長をしている。
博美とは、度々吟行を共にした、想い出深い深大寺の水車のある蕎麦屋で待ち合わせた。
現れた博美を見て、『オヤ?』と思った。痩せ方が尋常でないように感じた。
『命果つる前』とはこの意味だったのか?所作の淑やかさは昔通りだが、ふっくらしたイメージは失せ、痩せて窶れが目立った。
二人は昔通りの言葉を交わし、蕎麦をたぐった。秀行は盛蕎麦、博美は汁蕎麦。これも昔と同じ。ただ、博美は蕎麦を残した。食後、店の横手の坂を上り、植物公園に入った。
博美が疲れた様子を見せたので、ベンチに腰を下し、蕎麦屋で求めた蕎麦茶を飲んだ。そのときカリヨンが軽やかなメロディを奏でた。それが終わるのを待っていたように「随分、綺麗になったわね」と博美が言った。
「あの頃に比べればね:」
あの頃、隣に博美がいるだけで胸がときめいたものだ。今はそれがない。この違いは何だろう?と秀行は思った。時の経過は、人と人の拘りの艶まで消し去ってしまうものか?
「今日は、どうしてもあなたにお話ししておかなければ、と思って:」
「うん:?」思わず身構えた。
「兄の事:。もう昔のことだからどうでもいい、といえばそれまでだけど:」
「尾瀬先生が亡くなれば、何れ一騒動は避けられなかった。結社の宿命だよ:」
「かもしれないけど、兄があなたに誤解されたままだと可哀想だから:」
「誤解:?」
「そう:。兄は寡黙な人だったから、私にも言わなかったんだけど、実はあのとき、『木道』を割るのではなく、纏めるために動いていた。それがこないだ初めて確かめられたの:」
「纏める:?どういう意味?」
「そのままの意味。椿山仁(つばきさんじん)という同人がいたの、知ってるでしょ?」
「うるさ型。主宰によく噛みついてた。このままじゃ『木道』はだめになるぞ、って」
反旗を翻すとすればまずこの男だろう、とあのとき思っていた人物であった。
「その人から、死ぬ前にどうしてもあんたに詫びておきたい事があるって、電話が:」
「そう言えば:、最新号の『きすげ』に山仁さんの訃報が載ってたな:」
『きすげ』は『木道』から分派した同人誌で隔月刊。『白兎』編集部にも送られてくる。
博美がそ
こに投句しているのは知っていた。
「私もそれで知って、あなたに逢う決心をしたのよ。山仁さんが言ったの、あのときの分裂騒ぎ。首謀者は、実は自分だったって:」
「首謀者が山仁さん:?じゃ、博之は:?」
「兄は、あなたに『木道』を継いで貰いたくて、批判派の山仁さん達を説得しようと動いていた。これが真実だって:」
「俺が(博之を)誤解してた、というわけ:?」
「そう。山仁さんは、自分の傀儡として、人望のあった兄を利用し、新結社を旗揚げしようとしていた。ところが兄はそれを察し、これは拙いと、山仁さん達を説得にかかった」
山仁は、お前を主宰にしてやろうと言うのに馬鹿な奴だ、と罵倒し、俺達から見放されたら、お前はこの世界で生きて行く道はないのだぞ、と脅した。あることないこと言いふらせば、若造一人葬るくらい何でもないと。
「な、なんと:」
「兄はあなたを支持したばかりに、山仁さん達から脅され、あなたとの友情も失い、生き甲斐だった俳句までも喪う恐怖から、死を選ばざるを得なかった」
山仁は、自らの野望の為、才能ある前途有望な若者を死なせた事を終生悔やみ続け、命あるうちに、唯一の遺族である博美に詫びておきたかった、と言ったという。
「そうだったのか:」胸塞がる思いがした。
「あなたに詰られた時、反論したとしても、立場上、逆効果になると思ってたんじゃないかしら。何れ時が来れば、自分のした事は分かって貰える、という気持ちがあったんだと思う。あなたを敬慕してたもの、兄は:」
博美は薄っすら涙を浮かべていた。
別れ際、博美は『以上がお話ししたい全て。これで心おきなく入院出来る』と言った。
秀行はこれまでの人生の拠り所が、全て崩れ去った思いがして、呆然としていた。
その所為もあり、博美の病の状態も、いつどこに入院するのかも聞きそびれた。
博美は「あのとき、一方的にあなたを責めて、何と言う女かと思われたでしょ。赦して下さい」と言い、自分の軽はずみな言動を悔やみ、謝罪した。だが陳謝すべきは、博之を反対派と決めつけ、色眼鏡で見、その行動を曲解し、突き放した自分ではなかったのか?
昔、丁度この季節。博美とこの墓前に額ずき、「秋の実りの如く、作句も熟達し、恋も成就しますように」と祈ったことがあった。
あれから三十年。この墓域と同じように、自らの境涯も変わった。ただ、博美の存在を忘れた事は一度もない。なのに、逢っても、優しい言葉一つかけられなかった。このままなら、生きて再び目見えることは叶うまい。自らの誤解で折れ曲がった二人の道を、放置したまま生きるのか?それで本当に悔いはないのか?唯一の手掛かりは『きすげ』誌。主宰は旧知の句敵。博美の病の様子や住い等、頭を低くして教えを請うべきでは?秀行の波郷墓前での煩悶は、続いていた。
相原 文生(神奈川県相模原市/74歳/男性/無職)