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<第9回公募・選外作品紹介>「つれあう」 著者:蓮葉 朔

「あれ、源さんじゃね?」
 つり革を握る私の隣で、幼馴染で腐れ縁の悟が欠伸を噛み殺しながら言った。
 調布駅北口行のバスは、自転車を必死に漕いで坂道を上っていく源さんとすれちがった。私の視線が右から左と源さんの姿を追う。いつものことなので心配はしないが、朝から大変だねえ、と思った。源さんは毎日、自転車で深大寺周辺を駆けている。
私の家は調布市深大寺三丁目、京王線調布駅からバス十三分だ。毎朝、高校への通学のため七時過ぎに悟とバスに乗る。源さんはご近所のおじいちゃんで、源さん風に表現すると「つれあい」のおばあちゃんと二人で暮らしている。源さんはしゃきしゃきした人で、おばあちゃんは私が小さいころにお手玉や折り紙を教えてくれた優しい人だ。
そんなことを感傷的に思い出していると、バスは調布駅に着いた。下りの京王線で高校へ向かう私は、運が良ければ座って目的地まで行ける。地下へと移された駅へ、サッカー部花形フォワード選手の悟と駆け降り、改札を抜けホームの一番前に並んだ。

「お、今帰ったのかい」
 家の手前で源さんに声をかけられた。
 部活もせず塾にも行かない私は、日が暮れる前に帰宅する。
「ただいま。今朝、自転車漕いでる源さんをバスから見たよ」
「見られちまったか。ま、すぐに見つかったから、どってことないよ」
 源さんは徘徊するおばあちゃんを自転車で探しては、おばあちゃんの手を握り自転車を押して帰ってくる。自転車じゃなくて、走って探したほうが楽なのでは、といつも思う。
「おばあちゃん、今何してるの」
「晩飯こさえてるよ。食べに来るか」
「じゃ、後で。ビール持ってくね」
「おう」と、源さんは目を細めた。
 両親は共働きで兄弟も姉妹もペットさえいない私は、幼いころから源さんの家に入り浸っていた。源さん夫婦には子どもがなく、だから孫もなく、そして金魚すらいなかった。 
 私の両親は源さん夫婦に甘え、数本の缶ビールを持っていくように私を躾けた。発泡酒ではなくビールである。父が家で飲むのは、
もっぱら発泡酒だったから、源さんに対するいわば特別待遇、感謝の気持ちは明らかだった。私は両親のぬくもりが足りなくても、グレずに、キレずにたぶんそれなりに育った。
私が源さんと一緒にビールを飲んでいることを、両親は知らない。時折、悟も参加する。
「お邪魔します。源さん、ビール」
 いつものように勝手に上り込んだが、源さんの返事がない。あれ、と訝りながらリビングのドアを開けると、おばあちゃんが台所でトントンと包丁を使っている。
「おばあちゃん、源さんは」
 話しかけても、おばあちゃんには聞こえなかったようだ。リビングの隣の和室を覗いて、私はひっと息をのんだ。源さんが苦悶の表情で倒れている。
「源さん、大丈夫」
 私は駆け寄り源さんの肩に手をかけた。源さんは苦しさで呻き声しか出ないようだ。大丈夫じゃない。どうする。救急車だ。一一九番に生まれて初めて電話をかけた。
「ごはん、できたわよ」
「おばあちゃん、大丈夫だから。私がついてるからね」と言い、震える手で、源さんの肩をさすり続けた。やっとサイレンとともに救急車が到着したとき、おばあちゃんはお茶を飲みながらテレビを観ていた。
「おばあちゃんを一人にできないんです。ごめんなさい。私、ついていけない」
 救急隊員に涙ながらに説明すると、担架の上の源さんは小さく手を振った。
「俺は大丈夫。つれあいを頼む――」、と言いたいのだとわかった。
 救急隊員は病院から連絡をすると約束してくれた。遠くなっていく救急車を見送ると、胸が痛くて涙が止まらなかった。
「ごはん食べましょう」と、おばあちゃんは、繋いでいる私の手を引いた。
「そうだね、食べようね」
 愛妻家の源さんが、おばあちゃんを置いて逝くわけがない。私は涙をぬぐった。

心臓発作を起こした源さんは、しばらく入院することになった。私は学校を休んで源さんの家に泊まりこんだ。父と母も度々様子を見に来たし、病院へも足繁く通ってくれた。悟はノートやプリントを届けるついでに、力仕事を手伝ってくれた。私は源さんが帰ってくるまでおばあちゃんに付き添うと決め、片時も離れなかった。日傘をおばあちゃんに差しかけながら、後をついて歩いた。おばあちゃんは深大寺では馴染みらしく、あちこちで「よしさん、こんにちは」と声をかけられた。
おばあちゃんは、何かを探すように深大寺を歩いた。
 おばあちゃんは時折平常に戻る。そんな時は「加奈ちゃん、源さんはどこ」と心細そうに言った。おばあちゃんは平常に戻ると、私の名前を呼ぶ。
 五月後半の日曜日、深大寺はいつもより混んでいた。おばあちゃんは、いつものように何かを探している。
「桜はまだ咲きませんか」
「おばあちゃん、桜はもう終わったよ」
「桜の木はどこですか」
「どこだろうね。私わかんないよ」
 そんな会話をしながら、のんびり歩いていると、にわかに空が掻き曇った。
「こりゃ、来るね。おばあちゃん、雨宿りしなきゃならないみたいだよ」
 ポツポツと大粒の雨が落ちてきた。晴雨兼用傘におばあちゃんを入れて休める店を探していると、「よしちゃん、寄っていきなよ」と蕎麦屋の女将が声をかけてくれた。渡りに船とばかりに、私はおばあちゃんの背中を押して店の暖簾をくぐった。
「すみません、助かります」
「止むまでいていいよ。もう客は来そうにないから」と、女将がお茶を出してくれた。
「源さん、入院したんだって。あんた、加奈ちゃんだろ。いい子だね。他人の面倒見るなんてさ」
「いいえ、私の方こそ面倒見てもらっていたもんで」と、恥ずかしくてへらへら答えた。
「よしちゃんと源さんと私は幼馴染でね。深大寺で育ったんだよ」
 源さんに聞いたことがあった。源さんはずっと深大寺で暮らしていて、おばあちゃんの実家も近くにあったと。
「源さんは悪ガキでね。饅頭を盗っては自転車で逃げてたよ」
 今と変わらないじゃん。ざるそばをご馳走になりながらハハハと笑い、昔話を聞いた。
「いつでも寄っていいからね」と女将に見送られ、夕立の上がった道を、私たちは帰った。

「加奈ちゃん、深大寺に桜を探しに行こう」
「いいよ。暑いから日傘と水筒持ってね」
 おばあちゃんは自分で傘を持ち、私は麦茶を入れた水筒を持った。
「おばあちゃんは、どうして桜の木を探してるの」
 ずっと気になっていた言葉をかけた。おばあちゃんが平常に戻ることが少なくなってきて、今聞かなければ、もう聞けずじまいになってしまうかもしれない。
亡くなった子どもを埋めたのよ――。しばらく黙っていたおばあちゃんは、苦しそうな表情で言った。返す言葉が見つからなかった。
 深大寺に着くころには、おばあちゃんは私の名前を忘れてしまっていた。
 あと三日で源さんが退院できるという日、
風呂掃除をしている間に、おばあちゃんがいなくなった。行先は深大寺とわかっていても、深大寺はそれなりに広い。空模様も怪しい。私は傘を持って急いで深大寺に向かって走った。上り坂に息が切れ、源さんが自転車を使う訳がよくわかった。
「何してるの、おばあちゃん」
 おばあちゃんは深大寺の奥の林の中でしゃがんでいた。真っ白な日傘が転がっていて、見つけることができた。
「これ、桜の木ですよね」
 黒い幹に緑の葉、黒くて小さなさくらんぼのような実がなっている。
「うん、そうだね。これは桜の木だよ」
「そうですか。よかった。やっと見つけた」
 おばあちゃんはそういうと、正座をして手を合わせた。はらはらと涙を流しながら。
「いったい、どうしたの」
 女将が驚いて駆け寄ってくれた。おばあちゃんは疲れたのかぐったりしていて、蕎麦屋の前まで連れて来たが、私一人の力ではどうにもならなかった。
「よしちゃんね、戦争で亡くなった初恋の人との思い出を桜の木の下に埋めたのよ」
 女将が教えてくれた。
「彼の思い出を桜の木の下に埋めると、子どもになって生まれ代わると信じてるの。深大寺は恋愛成就の寺だからね。結局、よしちゃんは子どもに恵まれなかったから、ずっと心を痛めていたんだよ」
「そのこと、源さんは」
「もちろん知ってるよ。幼馴染だもの。でもね、二人は本当に好きあって一緒になったんだ。きっと深大寺の神様が二人を一緒にしたんだね」

 退院した源さんに父が電動自転車を贈った。
 今日も源さんはつれあいを探しに、深大寺を駆け上っていく。
 私は今日も腐れ縁の悟と調布駅のホームへと走る。

蓮葉 朔(東京都調布市/47歳/女性/自営業)

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