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<第9回・最終審査選出作品>「桜ゆうれい」 著者:泉 清明

花が降ってきている。
薔薇園の近くの短い斜面、暖かな陽射し、まだ冷たい風。

仰向けに寝そべり、見上げる先には大きな木。桜ではない。滑らかな幹は、おそらく欅。
では、降っているのは欅の若葉なんだろうか。
いい香りがする。

今日は久しぶりに彼に会った。
さようならはきちんとした方がいいと、彼が願ったから。
久しぶりに会う彼は、色が少し白かった。
懐かしい日にともに訪れた時のように、古いカメラを肩に掛けて、大きな体でまっすぐ歩いて来た。
「待ってたよ。」
悲しそうに彼が笑うのを、美しいと思った。

せっかく彼に会えたのに、眠くて眠くて仕方がない。
うたた寝に入る直前の、もったりした甘さを体の中に感じながら、彼を見上げ、ああこの人とは
もう離れたんだと思う。
確かどちらかが死んだから、別れた。

彼が白っぽい服を着て、めったに着ない白いワイシャツなんかでここに来るからには、死んだのは彼だったか。
手を伸べて触れた指先は冷たい。
やはり彼なのか。

突然、悲しみがやってきた。
鼻の奥が塞がれたようになって、一切の妨げなく涙が溢れた。彼のいない世界、私はどうやって生きていくんだろう。
あまりの喪失感に、息ができない。

「どうして泣いているの?」
彼がかがみこんで、私の頬を手のひらで包む。
「今、どこか痛い?苦しい?」
視線を手繰ると、彼も泣いていた。
痛くないよ、苦しくない。でも、あなたはもういないんだね。
訪ね終わる前に彼が顔をそむける。
「もう、手が美希ちゃんに触れない。」
確かに、言われてみれば彼の手の感触は無い。
「俺を置いて行っちゃうんだね。」
ああ、やっぱり死んだのは私だった。

私、幽霊なの?
腕を上げたり、指を開いたりしてみる。
彼は顔を背けている。
幽霊だった記憶ないな。今までどうしてたのかな?
明るく言っても、彼は顔を見せない。
「美希ちゃん、死んだら、深大寺で妖怪になって、
神代植物公園をひとりじめしてお花見するって」
語尾が笑ったように震えた。

ひとしきり涙を流した後、彼は眼鏡をはずして涙をぬぐった。
「そうだ俺、抱きしめてあげようと思って来たんだ。死後の世界って寒いっていうから」
ははは。そうでもないんだよ。眠い私の声は乾いて軽い。
「そうなの?なんだ。カイロまで持ってきちゃった。」
春なのに。あなたらしい。
「でも寒くないなら良かった。」
カイロをしまいかけて、彼は私の目を見つめ、やはり渡そうか迷ってからポケットに入れた。

彼が、寝そべっている私の脇に横たわる。
「でも、抱きしめてあげるよ。外国人のカップルみたいに。」
汚れちゃうから、やめなよ。
「やめないよ。」
触れない彼の腕が、体の上でアーチをつくる。
「もっとこっち来てくっついて、俺に抱かれて。」

ね、わたし、どんなふう?
怖かったけれど、聞いてみた。だってホラー映画みたいだったら恥ずかしい。そんなの絶対帰る。
「ん、なんか思ったよりふつう。」
かわりない?
「ちょっとホワイトバランスが変な感じなだけ。」

 花びらのようなものは降り続いている。桜の木はここにはないのに、ひらひらと舞い、飛ばされてゆく。
 そういえば私が入院する前、最後のデートがこの神代植物公園のお花見だった。
 歩けるという私に、疲れてはいけないと備品の車椅子を借りてくれた彼は、もうずいぶん慣れた手つきで押してくれたものだった。
カリヨンを聴きながら薔薇園を見渡し、桜並木では道を譲ってくれる人々にお礼を言いつつも、
立ち止まって何枚も写真を撮った。近くの人の手を借りて、ツーショットも撮ってもらった。
あの写真、好きだな。一枚だけ取っておいてくれるなら、あれがいいな。

彼は黙って、少し私を見つめてから、笑ったように目を閉じた。
私はそっと彼の頬に触れてみた。昔、幸せな夜の最後に向かい合った時のように。私からは触れるような気がする。柔らかいような。

いつか離れるから、たくさん写真を撮りたがったの?
うっすらと切れ長の目が開く。
「何言ってるの?」
さようならする日が来るから?
離れたのに、もう重ならないのに、さようならと言う時に涙が溢れた。
思った通り、彼は何も言わない。うん、とも、違う、とも。
抱かれない彼の腕の中、私は少し震えた。彼は嘘をつかない。

「ね、もう一度一緒に暮らすには、どうしたらいい?」
彼はまっすぐに私を見ている。
「毎日同じ家に帰って一緒に眠ろうよ。飯食いに行って、映画観よう。」
白い彼の袖は、泥に汚れはじめた。
「結婚して恥ずかしい結婚式して子供も作ろう。いいベビーカー買おうぜ。貧乏くさくないやつ。」
彼は鼻を赤くして、静かに涙を流している。
私はそっと起き上がり、一度だけ彼の胸を叩いた。

「いてぇ。」
横たわる彼の悲しそうな苦笑につられて、私も同じ顔をしたと思った。
その時、私が寝ていたはずの彼の腕の中の真っ白な骨壷を見た。
私の顔はひきつったのだろう。彼は急に真顔で言った。
「ああ、ばれちゃったか。」

こんな、怖い思い、してくれなくてよかったのに。
私の声は遠くの洞窟から響いてくるようだった。
彼の手が頬に伸びる。大きな手。
彼はその素敵な手で、私をお墓から連れ出したのだった。
「ごめんね、すぐ戻すから」
私はもう、あなたの好きだった人ではなくて、こんな白く乾いた骨なのに。
「いいじゃない。一度くらい。俺と美希ちゃんの仲じゃないの。」

あ。

世界が、ぶれたように感じた。
彼の手が頬に触れ、私の流す最後の涙をぬぐう。
ありがとう、私を、悼んでくれんだね。
声に出せたのは、それだけだった。

私も悲しいとか、さみしいとか、幸せを祈るとか、ましてや愛の言葉など伝えることはできなかった。
突然視界が歪み、全ての輪郭が幾重にも重なって見えるようになった。

ああ、私、今神様にありがとうとか思っちゃったから。

神様を信じた私の召天は、始まるとあっという間に進んで行くようだった。
世界中が重なる線で描かれ、その隙間から、ほんの一瞬ずつ青い空がのぞく。
心には何の憂いもなく、体は重さを持たない。
彼は目を細めて、じっと私を見ている。
こんなになっても、あなたは見ててくれるんだね。
嬉しくて愛おしくて、胸が詰まったまま、私はとうとう彼のもとを飛び立った。

泉 清明 (埼玉県さいたま市)