<第9回・最終審査選出作品>「深霞」 著者:早川 任
季節外れの香取線香が銀色の支柱を中心に途切れた円を描いている。押し入れで見つけ、せがまれるままに焚き、立ち上る煙と香りに興奮していた彼女は、一つ目の円が出きる前に瞼を閉じ始め、今は妻に抱かれ柔らかな夢を見ている。
いずれはあの煙のように消えてしまう蚊取り線香のくれた彼女との一日をかみしめ、素足でベランダに降りてタバコに火をつける。十年ぶりの煙は居心地を悪くさせるばかりですぐにもみ消した。煙を追い出すように空気を吸い込んでは吐き出す。夜に目が慣れてくると、近くを走る高速道路に照らされた雑木林がこんもりと浮かび上がる。くらりとする頭で見とれていると、林はいくらか春を抱えた風に揺れ、その輪郭を曖昧にする。タバコの臭いが薄れてくると、風向きのせいだろうか、隣家から漂う線香の匂いが鼻に付いた。何気ない風と香につられるように、朧気になった昔を私は思い出していた。
上京して二年目の五月。イメージしていた東京に住みつき、夜の世界に飛び込んだものの、家賃の高さと人の騒々しさに疲れ、静かな調布に腰を落ち着けていた。学校とバイト。新しい友人達と穏やかな日を過ごしていた。
静かな、心地よい不便さを与えてくれるこの町で、バイト先からアパートへの帰り道、深夜の深大寺通りを歩くのが何よりも好きだった。武蔵境通りと三鷹通りに挟まれたくねくねと曲がる先の見えないその道に見えるはずのない将来への不安を重ねていたのかもしれない。舗装された鳶色の歩行者道路、小さな水路から手を伸ばす紫陽花。寝静まった蕎麦屋ので逆さまになる椅子の脚。それらが彼女と歩くまでの僕の新しい夜遊び相手だった。
彼女と歩く特別な理由はなかった。夜のシフトが空き、昼間のシフトから移動してきたこと。家が三鷹通りから出るバスに乗った方が近いこと。そのためには深夜の深大寺を抜けなくてはならないこと。その程度だった。夕方のチームにすんなり溶け込み、仕事は僕よりもそつなくこなす。話し好きな、誰からも好かれる小さな女の子だった。
コマ送りの花火のように紫陽花が日一日と開き、歩く度に雨の香りが濃くなっていた。そんな夜の深大寺を二人で歩いて分かった事と言っても、年齢は僕より少し上、学生、地方から出てきたこと。こうして夜の深大寺を歩くのは楽しい事。僕が少し怖かったこと。将来は教師になって、給食を毎日食べたいこと。それくらいだった。
「カロリーすごいよ、あれ」
「うそ!どれくらい?」
「カレーの時は一二〇〇位あるんじゃない?」
「給食のカレーおいしいよね!でも、普段からそれはきついか。・・・残せないよね?」
「カレーの時はお替わりして、普段は生徒に見られなければいんじゃない?」
「そっか!やっぱ悪い奴は違うわ~」
彼女のバス停まで、そんなたわいのないキャッチボールをしていた。
そんな時間は、すぐにとても大切な時間になった。他の女の子といると注意深く避ける沈黙も、歩いている僕達が共に紡ぐ糸のように風にたなびき、か細くとも二人を繋げてくれてくれるようだった。
けれど僕は手を取ろうとすらしなかった。彼女にはきちんとした相手がいたし、それを話す彼女はとても幸せそうだった。そして僕もまた以前のように自分を差し出し、受け取る女の子達と体を重ねていた。慣れ親しんだ楽しい夜も、眠る頃に会いたくなるのは決まって彼女だった。
僕たちは画面を通して言葉を交わし、夜の深大寺を抜ける時だけ、言葉を通して温もりを交わしていた。雨の匂いが埋め尽くす頃、生き生きと開いた紫陽花の花びらをつまみ、指先に吸い付く柔らかさを共に感じ、雨の中、濡れそぼる手すりをゆっくりと這う蝸牛に、傘と顔を寄せ合って見つめていた。
彼女と歩いて二カ月。ある夏の夜だった。店を終えた蕎麦屋からだろうか。蚊取り線香の香りが頼りない涼を運ぶ風に乗り鼻をついた。僕らはいつものように歩いていた。
「香取線香ってなんでこれなんだろう。田舎でも同じだったなぁ」
「本当だね・・・。カレーの香りだったらいいのに」
「またカレー?合わなくない?蕎麦つゆとかさぁ・・・」
振り返ると彼女は立ち止まり、参道へ続く道を指さしていた。
「こっちへ行ってみない?」
いやな予感がした。けれど、当たり前のように彼女から目を離せなくなる。背けていた思いは驚くほど簡単に僕を覆い尽くしていった。あまりのあっけなさに僕は少し困った顔をしたに違いない。察するように彼女は「大丈夫」と言って笑った。
両脇の店からは古い家屋の香りが漂っていた。市が立てば吹き流しの下がるロープが左右の店を繋いでいるようだった。その下を白い街灯に照らされ、見慣れない小さな背中が山門に向かって歩いていく。「あそこは思ったより暗いんだね」彼女の声が、線香混じりの風に乗り聞こえた。曖昧に答え僕は彼女の後を追っている。小さな水路を横目に階段を上がると、彼女の香りが濃くなった。驚いて顔を上げると柔らかい体が僕と触れ合う。
「おっと、ごめん。大丈夫?」
「・・・いたい」
「そんなに?」
「すごく、とても、イタイね」
彼女は笑いながら厳めしい顔をして階段の途中で立ち止まっていた。僕はその顔に安心して、ここに来た意味を忘れてしまっていた。いつもと少し違う。けれど言葉を通して温もりを交わせると思った。
「この世界で貴方しか知らないヒミツってある?」
彼女はそう言って山門に振り返った。三百年以上前から人々を見続けた古びた朱色の門。電気仕掛けの灯籠は、役目通り山門の色と形だけを浮かび上がらせ、僕らの顔は薄く夜に溶けていた。
「誰にもじゃなくてオレ一人だけ?・・・どっちにしてもないかなぁ。そんな話、結局誰かが知ってるし」
「私はあるわ」
「言っていいの?」
「いいのよ」
「貴方がとても好きだってことだから」
しなだれる緑と佇む山門に語りかけているようだった。隙間を埋めるように香がかすかに漂う。
「赤ちゃんを産むの。もう少ししたらね」「でも貴方の事がとても好きなのよ。どうしようもないくらい。お母さんになっても消えないくらい」
その時どんな顔をしていたのだろう。
僕ら山門のまえで理由のない恋と避けようの無い別れを二人で確かめていた。
言葉が途切れ、僕は小さな背中を抱きしめた。とても熱い体だった。いさめるようなせせらぎが聞こえてくる。振り払うようにこちらを向かせ力のかぎり抱きしめる。背中に回した腕から身体の形が伝わってくる。押さえつけていたありったけの感情を交わすために、僕達は抱きあった。消えないように彼女を身体に刻みつけながら、頭の片隅で願いが蠢く。
潰れてしまえばいい。
彼女の中にある僕の感情。彼女が育む幸せ。潰れてしまえばいい。そうすれば僕達はまた、夜の道を二人で歩いていける。潰れてしまえ。潰れてしまえ。けれど、背中に食い込む腕からは答えを見つけた彼女の、どうすることもできない感情が伝わってくる。僕は少しだけ腕を緩め薄く目を開けた。茶色い髪の向こうには閉じられたままの朱色の門が、ただ静かに僕らを見つめていた。
翌日、彼女はバイトを無断で辞めた。いくつかの私物が入っていたはずのロッカーは、すぐに別の名札が掛けられた。僕は季節が変わる頃にバイトを辞め、また夜の世界へと戻って行った。
夏のある日、仕事を早く片付け私はバスに乗り深大寺へ向かった。蒸し暑さはどこも変わりないが気圧の気まぐれだろうか、思いの外風が抜けていく。あの頃のように少しだけ右に寄り深大寺通りを歩く。そばつゆの香りが青臭い感傷を掘り起こし苦笑してしまう。茶店の軒先でとぼける鬼太郎とねずみ男の脇を抜け、あの日の山門に頭を垂れて境内へと入る。鐘楼の台座に腰をつけ携帯電話の画面を開く。玩具箱のようなメールフォルダから移したはずの彼女を探す。先生・こーちゃん・ミレイ・・・準備運動のようにかつての友人達のメールを開いては閉じていく。
付きん棒の鎖がキチリと音をたてた。
やがて紫陽花の花弁のような、しっとりとした言葉が浮かび上がる。私はアルバムをめくるようにメールを読み返す。二人ともせわしなくホールと厨房を動き回り、見ることもなかっただるま市や鬼灯市が言葉の中に残っていた。
画面をなでる度、無個性な文字が変わらぬ思いを乗せ流れていく。増えることの無い言葉の連なりには、時をおいて届いた最後のメールから滲み出る、哀しみと幸せが晴れることの無い霞のように深く広がっていた。
「消えることなくあの日のままに」
小さな手を握る写真が一枚添えられていた。
私は携帯電話を握りしめ空を見上げた。鬼太郎とねずみ男にじゃれているのか、子供達の笑い声が小さく聞こえる。紫紺の旗のはためく音が、境内を埋める木々のざわめきと混じり、夏の空へ溶けていった。
早川 任 (東京都三鷹市/36歳/男性/会社員)