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<第9回・最終審査選出作品>「終のひと」 著者:牧 康子

「三月で退職します。疲れました」、江國からの社用の年賀状に、達筆の彼にしては少々乱れた添え書きがあった。桐子はそのインクの匂いに、ふとなつかしさを覚えた。
 江國は、桐子の大学時代の同級生だった。そしてすぐ恋人になった。大学は都心だったから、日頃のデイトはキャンパス周辺だったが、休みの日には、よく彼の下宿に近い調布の深大寺を訪れた。彼は長野出身だったせいか、自然や神社仏閣などを好んだ。当時は、人影もまばらな苔むした深大寺に詣でたり、水音をたてている湧水をたどって杉林の中をあてもなく歩き周ったものだ。三鷹の天文台まで足を延ばしたこともある。 
でも桐子は学校に、江國は商社に就職し、デイトもままならなくなるうち、自然と距離ができた。そのうち互いに職場恋愛して結婚し、付き合いは途絶えていた。
 江國は商社に入社以来、順調に階段を登りつめ、定年間際には重役にはなれなかったものの、関連会社の社長に就任したと聞く。サラリーマンなら誰もが望むコースだった。
桐子は、江國の会社に、律儀に年賀状だけは書き続けていた。江國からは、たまに社用の年賀状が返ってきたので、かろうじてお互いの消息だけは知っていた。年賀欠礼で、それぞれの連れ合いの訃報も知ったが、その時はそれだけだった。
 その江國もとうとう退職するのだ。もう七十歳だった。仕事とゴルフしか興味のない彼は、妻にも先立たれ、これからの毎日をどうすごすのだろう。暇をもてあまし悶々とした日々を送っているのかもしれないと、桐子は思っていた。

四月が始まったころ、突然、江國から桐子に電話があった。「いっしょに、深大寺に花見に行かないか」と言う。大学卒業以来、クラス会で何度か顔を合わせたことがあったとはいえ、それこそ五十年振りのデイトだった。桐子はすでに教師を定年退職していた。夫は五年前亡くなっていたし、息子たちは独立して別居していたから、誰に気兼ねもいらない。彼女は、江國の申し出を、驚きながらも承諾した。
 三鷹駅のバス乗り場で、待ち合わせをした。五十年振りなんて、江國を見分けられるだろうか。彼はすっかり年をとっているだろうし、自分もまぎれもなくおばあさんになっている。でもお互いさまだと思って、桐子は桜色のツインニットに、薄炭色のロングスカート、低いパンプスを選んだ。
 桐子がバス乗り場で駅からの歩道橋ばかり見つめていたら、突然横から声をかけられた。
「桐子だろ?僕だよ」
 江國は、黒いブルゾンにグレイのポロシャツ、同じくグレイのチノパン、スニーカーという若々しい服装だった。髪はすっかり白くなっていたが、しわ深い顔には、端正な昔の面影をくっきり残していた。
「お久し振り!」
「メガネですぐきみだってわかったよ」
 桐子は、強い近視で学生時代からメガネをかけていたが、今は遠近両用だ。
「思ったより、変わってないな」
 江國は、ニッと白い歯を見せて笑った。
「腰の曲がった、しわくちゃのおばあさんが現れると思っていたんでしょ」
桐子も笑いながら、彼をにらんだ。
ふたりは、深大寺行のバスの後部座席に並んで腰かけた。車内では、元気でやっていたか、どこか悪いところはないの、などと、まずお互いの健康を気遣った。
バスは、警察、図書館、市役所を通り過ぎ、住宅街へと進んで行った。その年は桜の開花が例年より早かったせいか、葉桜に近い桜並木がずっと続く。車窓からは、若葉色のさわやかな風が入ってきた。終点の深大寺で降りると、参道を山門へと向かった。
「このへんは、見違えるように賑やかになったな」と、江國は目を見張った。桐子は、うなずきながら、当時と同じようにそっと江國と手をつないだ。枯草のようなやさしい匂いがした。彼もごく自然に手を握り返してきた。
 ふたりは石の階段を上がり、藁葺屋根の山門をくぐって境内へ進んだ。シダレザクラが、まだ美しく花をつけていたのでしばし見とれた。ムクロジやナンジャモンジャの大木が、さわさわと風に葉を揺らしている。手水で手を清め、本堂へ詣でた。昔のままのコースだ。桐子も江國も、目を閉じて手を合わせた。
 それから開山堂へと続く古びた石段をゆっくり上った。当時は競って駆け上がったなと、思い出しながら。そこは小高いせいか、鶯がまだケキョ、ケキョと鳴いている。草や土の匂いが立ち込めていた。
「静かだなあ」
「ここは昔と変わっていないわね」
 学生時代、初めて江國とキスを交わした場所だったことを思い出して、桐子はひとり頬を赤らめた。そんなことを江國は覚えているだろうか。彼はあたりを歩き回って、少年のようにトカゲを追ったり、石を蹴ったりしていた。しばらく休んでから、今度は坂道を下って、延命観音の前で、足を止めた。
「昔は通り過ぎたけれど、これからは、ここでしっかりお願いしないといけないな」
「そうね、長生きしないとね」
 桐子も同意して、しばらく手を合わせた。
それから、当時よく通った、縁結びの神の深沙大王が祭られている深沙堂で、心を込めてお祈りした。

「ここの蕎麦はうまかったな」
「私もお腹がすいたわ。食べましょう」
 当時は二、三軒しかなかった名物の蕎麦の店も、ずいぶん数が増えていた。ふたりは、池をのぞめる静かな店を選んだ。
「どう、退職の気分は?」
蕎麦を食べながら、桐子は一番気になっていることを尋ねてみた。
「五十年、馬車馬のように仕事をしてきたから、急に相談役にと言われてとまどっているよ。でも、いつまでも会社にしがみついているわけにもいかない」
「わかるわ。私も定年退職した頃は、手持無沙汰だったもの」
江國は、うん、うんとうなずいた。クラス会で見かけた、現役時代の居丈高な態度はすっかり影を潜めている。
「妻も、三年前逝ってしまったしね」
 江國は遠くを見るようなうつろな眼をした。
「そう、ご病気で?」
「末期がんだった」
「お気の毒に。でも、お子さんたちがいらっしゃるでしょ」
「もう娘たちは嫁に行っている。時々は、僕の世話を焼きに来てくれるけれど、やっぱり亭主と子供優先だ」
「うちの息子たちもそうだわ」
「仕事があるうちは気がまぎれていたけれど、今はひとりでどうしていいかわからないという心境さ」
永年連れ添った妻に逝かれた頼りなげな姿に、桐子は慰めの言葉も見つからなかった。
「ゴルフには行かないの?」
「現役の頃は、毎週のように行っていた。商談にも結び付いたしね。でもOB連中ばかりだと、ボヤキが多くて面白くもなんともない」
今度は江國が、桐子のことを訊いてきた。彼女は夫が五年前、朝起きたら隣の布団で冷たくなっていたこと、心筋梗塞だったことなど、当時は涙なくしては語れなかった話を、さばさばと伝えた。でも夫が急にいなくなったあと、心にぽっかり空いた穴は、今でも埋まってはいない。
「それはたいへんだったね」
「私も途方にくれたけれど、いまは家で学習塾を開いて、小学生にぼちぼち勉強を教え始めたの。はりがでてきたわ」
「そうか、その道の先輩だね。ご指導いただかなくては。きみに電話してよかったよ」
 江國はちょっとほっとしたように、桐子を見つめた。そして蕎麦をもう一枚追加して、おいしそうにたいらげた。
「次は、あそこで団子を食おう」と、江國は立ち上がると、手早く支払いをすませ、桐子を山門近くの茶店へと促した。あちこちの店から、団子の焼けるいい匂いが漂ってくる。彼は、みたらし団子を注文すると、縁台に腰を降ろした。彼女も隣に座った。
 桐子が団子を一串食べて、お茶を飲んでいると、江國は桐子の分まで食べてしまった。食欲旺盛だ。これなら病気になる心配はないだろうと、彼女は安心した。
 江國は、観光案内所でもらった深大寺マップや、行事案内を広げていた。今度はナンジャモンジャコンサートへ行こう、薪能も面白そうだと、老眼鏡をかけながら資料を食い入るように眺めている。
「行く、行く、全部つきあうわ」、桐子はそう答えた。江國は、笑顔で「やった!」というように、拳を作った。伴侶を失った痛みを抱えたもの同志、これからはいい話し相手になれそうな気がした。

 帰りはバスで吉祥寺へ出て、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んだ。話はいつまでも尽きず、時間を忘れた。でも夜も深まったので、次回をしっかり約束して駅で別れた。
 ふたりが別々に過ごしてきた年月に比べれば、これからの時間はあまりにも短い。十年あるだろうか。でもひとりぼっちの老後より、心を寄り添わせる相手がいたほうがずっといいに決まっている。江國もそう思っているに違いない。桐子は再びの恋の予感がした。
「縁結びの神様にお祈りしてきたんだもの。今度の恋はきっと実るわ」と、桐子は久しぶりに熱いものが全身を駆け抜けるような気がした。

牧 康子 (東京都杉並区/68歳/女性/無職)