<第9回・最終審査選出作品>「拡げた時、縮めた無限」 著者:吉田 塁
子泣き爺と砂かけ婆がテーブルに向かい合って、蕎麦を啜っている。女性の店員はそんなことお構いなしといったように、手早く食器をタオルで次々と拭いていく。彼女には妖怪は見えていないのだ。子泣き爺が天ざる、砂かけ婆がとろろ蕎麦だろうか。仮に彼女に見えたとしても驚かないかもしれない。その姿は日常的で人間らしい、妖怪といったようなおどろおどろしさがない。
「エーアールっていうんです」
隣に座る藤井さんがタブレットから顔を私の方に上げた。
「オーグメンテッドリアリティ。日本語だと拡張現実っていうんですけど」
藤井さんの言う横文字に追い付いていけないが、動画や文字などをスマートフォンやタブレットの画面上で現実に重ねて浮び上がらせることができるのだという。
「調布市は水木しげる先生の第二の故郷とされていて、ここ深大寺の入口に鬼太郎茶屋というお店があるんです。先程通り過ぎたところですね」
ねずみ男と鬼太郎のオブジェがあった。鬼太郎茶屋の存在は私も知っている。ここに遊びに来れば必ず目に留まる、特別な出で立ちのお店だ。
「部長と僕で立ち上げたプロジェクトは深大寺を妖怪とエーアールを使ってより盛り上げていこうというものなんです」
藤井さんの上司でもある私の夫、宮中義武は七週間前に亡くなった。五十八歳だった。心筋梗塞で倒れて、あれよあれよという間に。今日は四十九日の法要を終えてきた。二人で深大寺に訪れている。告別式の時に藤井さんが見せたいものがありますと言うので、今日の約束をしたのだ。
「妖怪スポットという場所を深大寺境内に設置し、そこでタブレットをかざすと妖怪たちが浮かび上がるというものです」
私たちがいる蕎麦屋も妖怪スポットの加盟店になる予定だそうで、子泣き爺と砂かけ婆が見ることができる。子供のように嬉しそうに話をする姿は少し主人の若い頃を思わせる。主人が生前に藤井さんの話をよくしていたのは、自分に似ている所が気に入っていたのかもしれない。
「本堂は特別なスポットなんです、ぜひ見ていただきたい」
行きましょう。そう言って藤井さんはお会計を済ませた。
蕎麦屋が立ち並ぶ歩道を抜けて行く。軒先で掃除をしている人達と藤井さんが挨拶を交わしている。
山門をくぐると厳めしい本堂が現れた。
金色の十二単を身にまとった大柄な男が本堂の中をゆっくりと通り過ぎる。
「深妙大王ですか」
「そうです。部長が深妙大王の衣装から何まで決めていきました」
常香楼の前に二人で立ち、タブレットを覗いている。私は主人が言っていた、その姿を初めて目にした。頭には銀色の大きな王冠をかぶり、立派な髭を蓄えている。主人が見たという深妙大王の身姿。何とも綺麗なお方なこと。
「この姿は偽物です。本当は深妙大王の姿は見たことがないのに、奥さんに嘘をついてしまったと、部長が言っていました」
藤井さんはおでこに噴き出す汗を拭った。
「それが引っかかっていたみたいで、これを作ったんです。お詫びと言っていましたよ」
あれは、私がまだ二十三歳の時だ。
「さっき本堂でとても綺麗な着物を着たおじさんを見たんです。こんな大きな冠を頭に付けて、のそのそと歩いていたんだけれど、僕と目があった時にすっと消えました」
義武さんは夕暮れに滲むヒグラシの鳴き声と一緒に大げさに身振り手振りをしている。私が目を瞑ってお祈りしている時に神らしき姿を見たのだそうだ。
「なんですか。お坊さんでしょうか」
私たちは本堂を離れ、元三大師堂に来ていた。夕暮れの深大寺境内。木々に囲まれており、いくらか涼しく感じるが、それでも背中、首筋にべとつく蒸し暑さが撫でつける。
「あれは深妙大王に違いない。僕らを祝福しているのかもしれません」
義武さんは恥ずかしそうに右手で後頭部をぽりぽりと掻いた。くせ毛がいっそう広がり寝起きのような髪型になる。
今日の義武さんは随分と落ち着きがない。心あたりはある。今日、義武さんは私にプロポーズをするつもりかもしれない。ポケットから浮き出ている四角い箱はきっと指輪だ。
「そうかもしれません。良いことがきっとありますよ」
深妙大王を見たというのは嘘。義武さんがしっかり目を瞑って、真剣に何かをお願いしている姿を私は隣で見ていたもの。本堂はさっきので、本日二回目。境内にあるお寺はすべて回った。もう少しお参りしましょうと義武さんは言うけれど。そろそろ足が疲れてきました。
「ですよね」
義武さんが子供のような目で嬉しそうに私を見た。私の返事はもう決まっているの。はやくプロポーズしてくれないかしら。
「この元三大師堂で最後にします。心に決めました」
そう言って私の右手を掴むとぐいぐいと引っ張っていく。
お賽銭箱の前に着くと、義武さんはまた真剣な表情で、目を閉じる。ごつごつとした手を合わせながら。私もそっと両手を合わせてお祈りをする。この人をお守りください。
「僕と、結婚してください」
目を開けると、そこには小さな箱の中に銀色の指輪が光っていた。やっぱり、本当にわかりやすいんだから。
あれから三十二年もたったのか。それは、いろいろあった。
「実は、本当にお見せしたいのは、元三大師のほうなんです」
藤井さんの声に我に返る。嫌だわ。年を取ると、物思いにふけることが多くなる。
私は藤井さんについて元三大師堂への階段を上る。そこで彼が立ち止まる。
「秘密のエーアールスポット二つ目です。ここで、アプリを起動させて覗くと、ほら見てください」
元三大師堂に向けられたタブレットを覗く。藤井さんが私の身長に合わせて、低く掲げてくれた。画面には現実と同じ元三大師堂が映っている。
「何も出てこないわね」
「もう少し待ってくだい、そろそろです」
すると、今私たちが立っている所から歩き出したように、二人の男女が画面にフレームインしてきた。
男はチノパンに少し着古された白いシャツ。女は小さな花が沢山入った水色のワンピースを着ている。私は胸を締め付けられる。あの時の私たちだ。
画面の中の主人は何やらワンピースを着た私に対して話かけている。頭の上に手を添えたり、顎のあたりをさすったり。とても大きな動きで何かを伝えている。深妙大王の嘘をついているのかしら。私は腰の後ろで手を組んでゆっくりと主人と歩調を合わせていく。立ち止まった二人はお互いに顔を合わせたかと思うと。手を繋いでぐんぐんと今の私から遠ざかっていく。主人のポケットが四角くふくれているのがわかった。
二人はお賽銭箱の前に着くと手を合わせ始める。すぐに主人はまだ目を瞑っている私の方を向き四角い箱をポケットから私に差し出した。
「もちろん、よろしくお願いいたします」
私は藤井さんの隣で答えていた。タブレットの中の動画は再生を終え元の現実を映す。
「今のワンピース、本物をお借りしました。部長がこっそり奥さんのタンスの中から持ってきたんです」
「あの人、私があのワンピースを取っておいていること知っていたのね」
頬に生ぬるいものが伝う。とっさに目をこする。私は泣いていた。悲しい。嬉しい。恥ずかしい。感情の名前なんてわからない。
「このエーアールは会社に内緒で作ったんです。実は部長の役、あれ僕なんですよ。それと、奥さんの役は僕の彼女がやってくれました。どうでしたか。部長は似てるって言ってましたけど」
藤井さんは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「主人はもっと、びくびくしていたと思うわ、変な嘘を付いてしまうほどに」
私たち二人は、深大寺をでてバス停に腰を下ろした。藤井さんは三鷹行を私は吉祥寺行をそれぞれ待つ。いつの間にか日が傾き人もまばらになっている。
「僕、結婚することになりました。さっきの彼女と。あの時、本当にプロポーズしているんです」
「まぁ、そうだったの。それはおめでとうございます」
「二人で話すんです。部長たちみたいな夫婦になりたいねって」
吉祥寺行きのバスが向かってくる。
「藤井さん。今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました」
「私たちみたいな夫婦って言ったけれどね。たまには好きとか、愛しているとか恥ずかしい言葉もかけてあげるのよ」
何がおかしいのか藤井さんは微笑む。
「奥さん、部長も同じことをおっしゃっていましたよ」
バスがプシューと音を立てて止まった。
吉田 塁 (東京都武蔵野市/26歳/男性/会社員)