<第9回・最終審査選出作品>「タートルズメモリー」 著者:三瓶 恭子
「当機はまもなく成田国際空港に到着します。日本時刻は午前十一時五十分…」
うたた寝をしていた僕が聞こえてきたアナウンスにはっとした瞬間、十一歳のあの日の光景が鮮明に甦って来た。
「そこに放しちゃいけないのよ!」
後ろからいきなり言葉を投げつけられ、ムッとしながら振り向いた。目を三角につり上げた亜季(あき)が、両手を固く握りしめて睨んでいる。両足はハの字に開いていて、まさに仁王立ちだ。僕より三㎝程大きいだけなのに、迫力は三㎝分ではきかない。右の握り拳からはリードが出ていて、済まなそうな表情を浮かべ、お座りをしている権太の首に繋がっている。
「だって元々この池で拾った亀なんだよ。」
僕は亜季の迫力に圧倒されながらも、何とか自分の正当性を訴えようと必死の抵抗を試みる。しかし心の中では早くも「負け」のライトが点滅し始める。昔から亜季に口答えをして勝ったためしはないのだ。
亜季とは生まれた時からの腐れ縁、幼馴染だ。母が僕の出産時に入院した病院の二人部屋で偶然同室になったのが亜季の母親だった。ものすごい安産で僕が生まれた二日後、母親をうんと苦しめてやっと誕生したのが亜季だ。二日だけでも兄貴の僕のはずだったが、その後黄疸がひどく出たため、処置室に入れられ、結局二人とも同じ日に退院したのだった。そんな縁があり、家が近所だったことも手伝って、幼稚園の頃までは良く一緒に遊んだ。この深大寺でも初詣を始め、だるま市やそばまつり等、様々なイベントに一緒に参加した。
しかし次第に僕は男子の友人と荒っぽい遊びに夢中になり、亜季は女子同士の不思議な「ごっこ」世界にはまり、一緒に遊ぶことが徐々に減っていたのは自然なことだ。同じ小学校に入学はしたが、言葉を交わす回数はめっきり減り、更に男子対女子の言い争いの場面になると、亜季はその弁舌の才能を如何なく発揮して僕たちを言い負かすのだ。そんな女ボス的な亜季に、「二日だけでも兄貴だぞ。」と心の中で叫びはするものの、だいたいのシチュエーションにおいて筋は向こうが通っていることは否めず、仁王立ちの女子軍団を背にすごすごと退散するのだった。
そんな亜季にまずい場面を見られたものだ。僕が飼っている亀は、二人が幼稚園の年長の頃に、この深大寺の弁財天池で捕まえたものだ。当時は五㎝程の大きさのものだったが、今は二十㎝はゆうにある。
亜季は亀のぬめっとした皮膚に触るのがどうしても我慢できずに泣いた。僕にしても気持ち悪いのは同じで、積極的に触ろうという気にはならなかったが、珍しく怯えている亜季になんとか自分の強さを見せたくて、無理矢理気持ちを奮い立たせ、甲羅を掴み、亜季の目の前に突き出した。
「こんなの何でもないさ、ほら。」
手足をロボットのように交互に動かす亀の腹を見つめ、
「拓(たく)海(み)、すごいね。」
と、涙で濡れたまつ毛を瞬かせながら、尊敬の眼差しを僕に向けた亜季。その時僕は言い知れぬ達成感と幸せの中にいた。今考えてみると、あの時ほど亜季に対し優越感を感じた事は無く、言い換えればそれが唯一亜季に「勝った」と胸を張って言える出来事だった。
亜季に「勝利」したとても貴重な戦利品の亀は、嫌がる母を説き伏せ、僕の家で飼われる事になった。だが、その大切なヴィックを手放さなければならない日がやって来た。
ある日、珍しく早く帰宅した父が、当時滅多になかった家族四人揃った夕食の席で、
「会社の異動でマレーシアに行くことになった。家族みんなで行こうと思う。暖かくて海がきれいで、食べ物もおいしいぞ。」
と、突然切り出した。母はもう承知の様子で父の隣で微笑み、何も言わない。
「引っ越すの?皆で?学校は転校するの?」
弟の隼(しゅん)の質問に母は、
「ええ、そうよ。外国だから飛行機に乗って行くのよ。拓海も隼も飛行機は初めてよね。海に毎日入れるわよ。学校も日本人学校があるから全然心配ないの。」
「ヴィックは?連れて行ける?」
僕の質問に父も母もキョトンとした表情を浮かべ、ああと思いついたように言った。
「亀はちょっとな。置いていかないと。」
ただ一つの戦利品は残されることになった。
そんな訳で僕は、亜季と一緒にヴィックを拾ったこの弁財天池へやって来たのだ。ここで拾ったのだから、数年飼ってここに戻すのは何も問題は無いだろうと思った僕だったが、そうでもないらしい。
「拓の亀はミドリガメでしょ。外来種なの。元々この池にいたって言うけれども、それも誰かが池に放してそれが繁殖したものよ。だから池に戻すのはダメ。」
優等生の学級委員らしい答えに、今回もまた僕は反論できない。
「じゃあどうしよう。ぼく外国に引越しちゃうんだ。」
亜季の目が大きく見開かれ、みるみるうちに潤んできた、ように見えたが気のせいだったようで、すぐにキラキラは収まった。
「何処に行くの?」「マレーシア。暖かくて海がきれいで食べ物がおいしいんだって。」
僕はまだ一度も行ったことのない国について、父の受け売りの言葉で説明する。
「ふ―ん、そうなんだ。ずっとなの?」
「ううん。六年間だって。今五年生だから、六年後っていうと高二になっちゃうな。」
「じゃあヴィックはあたしが預かってあげる。」「いいの?六年だよ。」「大丈夫。亀って散歩とか必要ないし、丈夫なんでしょ。」
僕はヴィックの処分を免れた安堵と、亜季の思いもよらぬ提案に戸惑いながら、水槽を亜季に渡した。
「何でヴィックという名前にしたの?」
「別に、意味なんてないよ。言い易いから。」
勝利=Victoryのヴィックだなんて絶対に教えない。
「ねえ知ってる?この深大寺の言い伝え。ある青年がお金持ちの娘と恋仲になったんだけれど、娘の父はそれを絶対に認めず、娘を湖の小島に隠してしまったの。でも青年は娘の事が忘れられず、毎日湖畔に立ち続けていたら、大きな亀が現れて、その背中に乗って、娘に会いに行くことが出来たんだって。その話を聞いた娘の父は、亀は深沙大王の使いで、水の神である深沙大王の心を動かせた青年は只者ではないと悟って、娘との仲を認めたの。やがてできた二人の息子を僧にし、湖の辺りに深沙大王を祀り、そこが深大寺になったんだって。
だから、ここの亀さんは大切にしなきゃ。それにヴィックは二人で見つけたんだもの。あたしにだって飼う権利はあるわよ。」
「えっ、覚えていたの?ヴィックを捕まえた時の事。」
「当たり前じゃない。素手で持ち上げちゃって目の前に突き出されたんだよ。、あたしには絶対できないって、すご
いって思ったよ。」
このささやかな戦利品は僕だけの思い出の亀だとばかり思っていたので、少し驚いた。
「ねえ、手紙書いてよね。」
うんと答えようと振り向いたその頬に亜季の唇が触れた。l何、今の?
水槽を左手に持ち、権太と右手が繋がった亜季は、「じゃあね」と明るく笑いながら、呆然と佇む僕を残して去って行った。
引越しまでの数日、学校で目が合っても亜季は全くいつもの亜季だった。やっぱりあれは偶然だったのか。クラスの皆が寄せ書きをしてくれた色紙には「ヴィックは任せて」と、端っこに小さくあった。
あれから六年が過ぎ、父が日本に帰る日が決まった。その間僕は日本人学校の中学を卒業し、シンガポールにある日本の大学の系列高校に入学していた。マレーシアには適当な高校がなかったので、憧れの1人暮らし、寮生活になったのだ。高校卒業まであと一年なので僕だけ残ることになったのだが、夏休みを利用し、家族と共に一時帰国することになった。僕の高校は夏に進級なので、日本の夏休みが始まる少し前から休みに入り、九月からは高三になるのだ。三つ下の隼は日本であと1年過ごし、日本の高校受験に備える。
日本に帰って数日が経ったある日、亜季から電話が来た。
「鬼灯祭りに行こうよ。浴衣着て来るのよ。」
有無を言わせず電話を切る早業も健在だ。帰国したてで浴衣なんかある訳がない。
うだるような暑さも夕方になると幾らか薄れ、僕はTシャツにビーサン姿で待合せの深大寺山門に立った。浴衣姿の女子中高生らが大勢いて、急に亜季が判るか、いやそれより亜季が僕の顔を覚えているか不安になった。
とその時、肩を叩かれ振り向くと、僕の記憶よりかなり大人びた浴衣姿の亜季がいた。
「浴衣着てないじゃない。」
ぷーっと頬を膨らませる亜季に、さっきまでの心配が吹き飛んだ。出店を冷かし、お焼きを買って池の脇のベンチに腰を下ろす。
「ヴィック、どう?」「元気よ。あと一年預かっとく。拓が日本に帰って来るまで。」
目の前を僕たちと同じくらいのカップルが通り過ぎて行く。
「拓、随分背が伸びたね。」「亜季が縮んだんだろ。」「なーによ、それ。」
自分でも驚くほど滑らかに会話が進む。六年間は僕をだいぶ話し上手にしたようだ。あの時僕より三㎝大きかった亜季は、今はたぶん僕より十三㎝は小さい。
昔を思い出しふと気が緩んだ瞬間、首を掴まれたと思ったら、唇がすっと重なった。
全くの不意打ち。ああまた僕の負けだ。
三瓶 恭子(東京都三鷹市/女性/画廊勤務)