<第9回・最終審査選出作品>「別れ神日高」 著者:水島 啓介
寺で一人の女性と会った。心地良い、優しい日差しが木々の間から差し込む、夏の前の事だった。
こんな所で会うなんて奇遇ですね、と彼女は言い、僕が座っていた石段の横に座った。彼女の長く美しい髪に心和まされる一方、僕の顔は疲れきっていた。こんな事は彼女に言うべきではなかったのかもしれない。僕は生きることに疲れたと愚痴をこぼした。そして彼女はそれを慰める言葉をかけてくれた。それが彼女との最後の思い出だった。彼女はその後亡くなった。
僕が小学五年生の頃に日高という名のクラスメイトがいた。日高はいたずら小僧という言葉が具現化されたような男で、よく女の子にちょっかいを出し、ギャーギャーと文句を言われながらそれを喜んでいる男だった。
彼には「別れ神」という名のあだ名があった。彼に噂されたカップル、友人は別れる運命にあるというのが名の由来だった。もちろん彼にそんな神通力が備わっている訳ではなく、単にひやかされたのが気恥ずかしくなりお互いうまく喋れなくなってしまう、という小学生にとってはありがちな話であったのだが、クラスの、とりわけジンクス好きの女子はこの噂を大いに信じ、そして恐れてもいた。
ある日クラスで小競り合いがおきた。女子と女子との喧嘩だ。僕は途中からやじ馬に入ったので事情を把握しかねていたが、最初にいたやじ馬の一人が親切にも事の起こりを説明してくれた。どうやら原因は交換日記にあるらしかった。
「何で日記に私の悪口を書くの、信じられない」
「なによ、元はあんたが悪いくせに」
今にも取っ組み合いになりかけるか、と期待したその時、先生が来て二人は引き離された。が、それでも二人の腹の虫は収まらなかったようだ。放課後、二人は日高の所に頼み事をもってきた。
「私達を引き離して。もう絶対口を利かないんだから。それにはあんたの力が必要なの」
たまたま日高と一緒に遊んでいた僕はそれを聞いてなるほどと思った。こんなメリットゼロの悪名が付いた男にも何かと利用法はあるものだ。まさに捨てる神あれば拾う神あり。この場合は神の方が拾われたわけだが、僕は何となく「リサイクル」という言葉が浮かび、最近のごみ問題について考えていた。
当の神様も最初は困惑していたようで、照れくささ半分、事情が飲み込めないのと半分で、最初は渋っていたが、一向に引かない彼女らに根負けし半ばヤケクソ気味に言い放った。
「お前ら、ラッブラブー、ヒューヒューお熱いね」
その言葉に満足したのか彼女らはお互い顔を見合わせ頷くと、鼻息を鳴らしながら別々の方向へと歩き出していた。
神の有効利用法について僕は何も周りには話さなかった。が、いつの間にか女子を中心に翌日には広まっていて、それ以来神のもとに迷える子羊ならぬ、怒れる女子達が時たまやってきては以前のように絶交祈願をするようになっていたのだ。お調子者の日高はだんだんノリが良くなっていて、しまいには「ふむ、その願い叶えてしんぜよう」なんて事まで言っていた。
そして再び神の転機が訪れた。その転機をもたらしたのは、例の交換日記でもめていた二人だった。あれだけ大騒ぎしたのにある日突然仲直りをしていたのだ。周囲はぽかんと彼女らが手をつなぎながら登校する様子を見ていた。雨降って地固まるという言葉のごとく、以前よりも二人の友情は固く結ばれているようだった。
なんだ、日高のお祈り効かないじゃん。とつぶやく声もあった。一体いつからお祈りになったのか、しかしそれには日高ではなく件のご迷惑ズが回答した。
「日高は別れ神なんかじゃなかったの。だって、本当に結ばれる二人って色々な困難を乗り越えていくわけじゃない。その結果、二人の絆は強くなる。日高はそれを与えてくれた、縁結びの神様だったの」
なんだそりゃ。と、僕は正直思ったが、元々日高のジンクスを信じている女の子達はこれにも飛びついた。それから、ありがたい神の所へは、ひっそりと女子が恋愛話をもってくるようになった。誰それくんと自分が結ばれるようにお祈りしてほしい。そういった願いが神のもとへ届けられるようになった。
日高の仕事は卒業まで続いた。意外にも日高は口が固く、誰から何の相談を受けたかは絶対他に漏らさなかった。よく、そんな面倒な事をやるなあと日高に言った事もあったが、日高にもこれはこれでメリットがあるらしい。
「女子が誰の事を好きかってのがこれで分かるじゃん。結構おもしろいぜ」
日高は少しニヤつきながら言い、さらに「実は」とちょっと間を置きながら「お前のこと言いに来た奴もいたしな」とこらえていた笑顔を全開にしながら僕が予期せぬ事を付け加えてきた。一瞬で僕の心臓が魚のように跳ねた。清岡――と頭に一瞬よぎったが、自分でかき消した。これまで生きてきた十年少々、僕は人生とはそんなに甘く無いということを知っていた。
「どーせ、高橋とかなんだろ」高橋とは僕の姉によく似たクラスメイトだ。ちなみに姉は僕よりも体格が良い。性格は大怪獣。とってもジャイアンのような女性だった。
「ま、それは仕事上の秘密だな。仕事続けられなくなるからお前もこの事は言うなよ」
とだけ言って、彼はそそくさと自転車にまたがり帰ってしまった。その後も何度か尋ねたが結局、その相手の事は教えてもらえなかった。
僕は十九歳になっていた。中学、高校と無味乾燥な日々を送り、ようやく大学生になれたものの、女っ気一つないキャンパスライフに危機感を感じ、藁をも掴むつもりで、恋愛祈願をしに深大寺へと来ていた。
結局、子供時代に日高の言っていた女の子はその後もずっと現れなかった。時折、寂しくなるたびに彼が言っていた女の出現を祈ったが、所詮は日高という胡散くさい神様のいうことだ。信用したのが間違いだった。待っているだけでは何も変わらない。大学生になってやっと気づいた僕は、まずは第一弾ということで日高よりも霊験あらたかな深大寺にお参りへ来たのだ。
寺にはあまり人がいなかった。これは絶好のお祈り日和だ。一心不乱に祈りを捧げていると、ふと横に人の気配を感じた。
「久し振りだね」
黒く長い髪を風になびかせながら清岡沙友里がそこに立っていた。清岡沙友里、小学生の時に僕が恋したクラスメイト。整った顔、透き通った白い肌。うすい青地のワンピースの裾を揺らしながら、大きな目で僕を見つめる。日差しを避けるためにかぶった麦わら帽子が良く似合っていた。
「き、清岡さん。どうしてここに」
突然のことに慌てながら僕は訊いた。声が多少裏返ってしまったかもしれない。最悪だ。
「恋愛祈願」
彼女はそう言って笑っていた。この美少女が恋愛祈願。いったいそんな必要があるのか。久しぶりに会った初恋の人相手に動揺を隠せず、僕は瞬間的に聞き返してしまった。
「うん」と彼女は頷く。「日高くんって覚えている?」彼女は続けた。
「小さい頃ね、彼にもお祈りを頼んだ事あったんだ。女子の間ではすごい効き目だって流行っていたから、恥ずかしかったけど私もお願いしてみたの。誰にも言わないでって言って一人で。まるで日高くんに告白しているみたいに緊張したのは今でも覚えている」
告白、という単語がチクリと胸を刺した。当たり前だが、彼女も年頃の女の子だった。好きな人の一人や二人くらいいただろう。でもそれを改めて言われるとやはりショックだ。
「日高くんは、真剣に聞いてくれた。いつもの彼とは別人ってくらい。でも私の場合、お祈りはしてもらえなかったの。オレなんかに頼っちゃダメだ。その気持ちをぶつければ絶対うまく行くって彼は言っていたわ」
日高が真剣な顔をしている姿をイメージしてみたが、一向にうまくいかない。あいつにもそんな一面があったのかとぼんやり思った。
「でも、私にはそんな勇気はなかった。日高くんが言うようにチャンスはいくつもあったんだ。でも行動には移せなかった。そうして小学校を卒業しちゃったの。中学でも同じ。ずっと勇気が出ないままだったの」
彼女の言葉を漏らさず聞いた。そして尋ねた。
「清岡さんは、誰が好きだったの」
ついに聞いた。彼女は再びふふっと笑っていたが何も答えず、ただ微笑んでいた。遠くで車のクラクションが鳴った。そちらをチラッと見て視線を戻すと、彼女は僕に向かって紙を差し出していた。そこには彼女の連絡先が書いてあった。
それが僕と妻とが初めてまともな会話をした日の話だった。
月日は経ち、僕らは幸せな家庭を築いた。子供にも恵まれ、その子たちも大きくなり、孫もできた。色々な事があった。悲しいことも多かった。しかし、いつも妻は僕を励まし、支えてくれた。僕たちは幸せだった。
妻が亡くなり、葬儀も終わった。ふと僕は、妻との最後の思い出となった寺へと足を運んでいた。妻はもういない。最後に妻と交わした言葉を思い出す。
「君がいなくなってしまうのに耐えられないんだ」
自然と涙が出てくるのがわかった。こんな時も彼女に甘えている自分が情けなかった。しかし、彼女は優しく笑いかけながら言う。
「私は幸せでした。あなたと長く一緒にいられてとても幸せでした。それでいいじゃないですか。だから、泣かないで。私の分もこれからも生きて下さい」
その後、眠るように死んでいった彼女の事を思い出し、僕は再び泣いた。
空を見るといわし雲が見えた。木々が風に揺れる。目を閉じ、僕は妻への思いを馳せる。
緑に囲まれた静かな寺で、僕と妻をからかう声が聞こえた気がした。風に揺れる疎林の奥で小さな少年がこっちを向いている。
あの時の日高が笑っていた。
水島 啓介(東京都武蔵野市/28歳/男性/塾講師)