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<第9回・最終審査選出作品>「降水確率五十%」 著者:尾崎 陽子

ママの口癖はさ、「悪い男と良い男を見極める目を養いなさい。悪い男っていうのは、けちな男のことよ。お金のこともそうだけどそれだけじゃなくて、時間、感情、すべてにおいてけちな男のことよ」っていうのでさ、それをあたしが小学生だったころからときどき言って聞かせられたわけ。もちろんそのときはその意味なんてよくわからなくてね。それにそのママが選んだはずのパパがものすごくけちな男の典型だったからさ。ま、だから別れたんだろうけど。極めつけはさ、家の本棚にあった山田詠美の「放課後のキイノート」を手にとってみたら、あとがきに、ママの口癖とおんなじことが書いてあってさ、ちょっとママ、あなたの教訓、パクリじゃんって。しかもその教訓、まるで生かせてないじゃんって。笑っちゃうでしょ。あれ、これ言ったことあったっけ? あ、聞いた、あ、そう。
 でさ、二十歳ちょいのときにあたしは大恋愛をしたわけ。でもあたしはママの教訓をひとつも生かせずに、もう史上最強にけちな男を選んでしまったわけよ。しかもそのけちな男に五年も費やしてしまったの。もう、無駄以外の何物でもないよね。二十代前半の、女としていちばん瑞々しい時を、ドブに捨ててしまったわけよ。元彼がけちな男だと見極めるための時間だったと思えば無駄じゃないのかもしれないけどさ、やっぱり五年は時間かけすぎたよね。楽しかったこともあったけどさ、男を見極めて、バツだったら、さっさと見切りをつけることも大切よね。でもさあ、顔がすごいドンピシャでタイプでさ、あたし面食いじゃん? だからずっと我慢してたんだよねえ。でもさ、大恋愛敗れて考え方改めたよ。男は顔じゃない、初心に帰って、次はけちじゃない男を選ぶんだ! って。……え、あ、そう、これも言ったっけ、……そう。
 しばらく会っていなかった人と会うと、自分の近況報告をどこまでしたかわからなくなる。カウンター席の横でノンアルコールビールを飲む、幼馴染の崇とは、私が件の元彼と付き合って以来一度しか会っていなかった。元彼にばれないように、こっそりメールや電話でちまちま連絡はとっていたので、五年間分の互いの報告をしようとしても、それ聞いた、ばかりになって、でも面と向かって話していないので、どれを話してなくてどれを話したのかわからなくて、会話はちぐはぐになった。
「崇、なんで傘持ってんの?」
 私は話を変えようと、彼のイスにかけてあるビニール傘に目をやった。
「え、繭、天気予報見てこなかったの?」
「ケータイで見たよ。降水確率五十%」
「じゃあ持ってくるだろ、ふつう」
「だって五十%なら、五分五分じゃん。降らない確率も五十%なわけだし、降ったら運がなかったってあきらめるもんでしょ」
「おまえバカだね。降水確率五十%なら降るよ。そういうもん」
 崇はノンアルコールビールをおかわりした。そして腕時計に目をやり、
「お、あと十五分で繭もアラサーの仲間入りだ。おめでとう」
 と言ったので、
「ちょっと、まだおめでとうって言わないでよ。十五分後にもう一回余計にトシとるみたいでいやだ」
「なんだその理屈。まあいいや。あ、繭のお母さん、まだ深大寺の蕎麦屋で働いてるっておふくろから聞いたけど」
「あ、まだうちらのママ仲良いんだ。うん、そうそう。なんか、接客業が楽しいみたい。というか、ちやほやされるのが、かな」
「あー、繭のお母さん、美魔女だからなあ」
「ビマジョってなに」
「なんでもない」
「ふうん。でもさ、別れた旦那にプロポーズされた場所で働くのって、どうなの?」
「思い出の場所だからでしょ」
「別れたのに? それって未練がましくない?」
 私がそう言うと、崇はふっと黙ってしまった。ゆっくりと瞬きをする崇の「未練」に、自意識過剰かもしれないけれど、自惚れかもしれないけれど、思い当たることがひとつだけあった。
 二十歳のとき、私は崇と一度だけ寝たことがある。私の「大恋愛」がさっそくうまくいかなくなって、元彼に内緒で崇と会った。
 私は散々元彼の愚痴を言い、崇はそれを文句ひとつ言わずただ聞いてくれていた。そして、散々飲んだ私は、あーもー崇にしとけばよかった、と、ティッシュ一枚分くらいの重みでつぶやくと、崇は真顔で、「そうしろ。おれは繭が好きだから」と言われてびっくりした。のは、ちょっと嘘だ。本当は、私に甘い視線を向けてくる崇に気づいていた。そして私は、彼の想いに甘えて、彼と寝た。酔っていたからとか、傷ついていたからとか、そういう言い訳はふさわしくない。単純に、寝たかった。それだけだ。
 でも私は崇と付き合ったりせずに、元彼と付き合い続けた。私にとって崇はやっぱり、顔が全然タイプじゃなかったし、なにより、たまに愚痴を聞いてくれる男友達、という貴重な存在を失いたくなかった。だからこそ私たちはまっさらで仲の良い幼馴染でいられたのだ。寝なきゃよかったのだけれど、過ぎたことはしかたない。コトが済んだ翌朝、向かい合って朝食をとっているときに、私は崇に「これからも友達でいてくれる?」と、本当に卑怯でずるいことを言った。崇はただ「うん」と言った。
 崇はまだ私のことを好きなのだろうか。この五年間、崇から女の話は聞かなかった。もっとも、崇との電話は、私が一方的に元彼の惚気や愚痴を一方的にまくしたてることで成立していたので、彼女がいたかどうかはわからない。
 自分の気持ちを打ち明け、寝てみたら、翌朝「これからも友達で」なんてのたまう女と、よく今まで友達でいてくれたよなあ。
「あ、一分切った」
 崇が腕時計を見て言った。
「十二時まで? うわー」
 私は頭を抱え、ため息をつき、諦めたように、カルーアミルクを飲んだ。
「十秒切った! 九……八……七……」
「あんたまじ細かいなあ」
「三……二……一……0と、二十五歳おめでとう。結婚しない?」
私は呆気にとられ、は? と言って、ぽっかり口を開けた。
「なんで?」
「いや、好きだからでしょ、そりゃ」
 崇は右手の人差し指で鼻の下をこすった。
「え、ずっと? 小学生から?」
「あー、まあ、そうかな」
「まあってなによ」
「いや、人並みに別の女の子と付き合ったこともあったし」 
「ああ、あったねー」
「なんで不機嫌そうに言うんだよ。おまえこそ俺のことずっといいように使ってたくせに」
「うーん、すいません」
 私は素直に謝った。
「でもなんでいきなりプロポーズ? 結婚を前提としたお付き合いとかはないの?」
「だって……今更じゃね?」
 崇の言いたいことはよくわかったので、私は「まあね」と言った。
 お互いになんとなく黙ってしまった。小学校に入学してからすぐ、私を好きだったとすると十八年か。これはすごく長い時間なのではないだろうか。
 私が筆記用具を忘れたら、おろしたてのバトエンを貸してくれた崇。シロツメクサで冠をうまくつくれないでいたら、自らつくった王冠をそっと頭にのせてくれた崇。運動会ではちまきを忘れた私に自分のを貸してくれ、自分が忘れたと先生に申告した崇。文化祭の看板をつくるグループにハブられて、一人で作業していたら、何も聞かずに手伝ってくれた崇。マラソン大会の練習のために夜中にジョギングをしていたら、危ないからと毎晩一緒に走ってくれた崇。
 ひとつ、またひとつ思い出してゆくと、あれ、なんかイイやつじゃん、と思った。顔はタイプじゃないけど、まあ、でも。
「降水確率くらい」
「え?」
 崇はすっとんきょうな声を出した。
「降水確率がなに?」
 崇は言った。
「今日の降水確率くらい。あたしが、あんたと、結婚する確率」
崇はぱっと顔を輝かせた。店の奥から、前もって打ち合わせでもしてあったのであろう、『まゆちゃん たんじょうび おめでとう』と書かれたプレートの乗ったホールケーキが出てきた。ノンアルコールビールを飲んでいたはずの崇が、あの、オレ今、プロポーズ成功したんすよ、と酔っぱらいのようにケーキを持った店員さんに絡み、店中から恥ずかしいくらいの祝辞と拍手をいただいた。まだOKとは言っていないのに。
でも、でも。
十八年、私を想い続けてくれた男。顔はタイプじゃないけど、でも、それだけ長い間私に心を向けてくれていたことって、それって、絶対、けちじゃできないよな。
「今週末にでも、繭のお母さんに挨拶しに、深大寺に行こう」
 崇は言った。
四角く切り取られた窓の外には、いつの間にか、たっ、たっ、と大粒の雨が弾けていた。

尾崎 陽子(東京都国分寺市/26歳/女性/ライター)