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「酷暑」著者: さいとう蜜柑

 深大寺の小ぢんまりとしたお蕎麦屋さんの一番端の席で、小百合さんが来るのを待っている。
 小百合さんと会うのはこれが二回目だ。
小百合さんは私の通う美術大学の先輩で、たまたま大学の近所にある学生御用達の焼き鳥屋で酔っぱらって大騒ぎしていた私を、小百合さんが介抱してくれたのが縁で知り合った。
 それがほんの十日前。私は小百合さんに、いかに自分が俊平さんを好きなのか、号泣しながら話したらしい。私自身はよく覚えていないけれど。小百合さんは根気よく話を聞いてくれて、おまけに背中をさすったり手を握ったりしてくれたという。周りにいた同級生たちは「とにかくハラハラした」と後日、言っていた。
 小百合さんは、ジュエリーデザイナーとして同級生の旦那さんと二人でブランドを展開しており、その界隈では若くして成功したアーティストの一人だ。有名卒業生としてデザイナーを志す学生に向けた特別講義をするために、その日、大学へ来ていた。その後、学生時代を懐かしんで、件の焼き鳥屋で飲んでいたのだった。ちなみに旦那さんは、私の俊平さんへの愛の叫びが始まるや否や、さっさと帰ってしまったという。
 小百合さんから「深大寺でお蕎麦でも食べない?」と誘われた時は、予想外の出来事に驚いて、一瞬断ろうとした。小百合さんとシラフで会うのは、気まずくて、恥ずかしくて逃げ出したい気持ちだったけれど、学生の戯言にあれだけ付き合ってくれた、大先輩のお誘いは、さすがに断れないなと思い直した。
 小百合さんは音もなく、けれど忙しい毎日が板についている歩き方で、足早にやってきた。
「突然打ち合わせが入っちゃって。日曜日なのに嫌になっちゃう。ごめんね」
 あの時は酔っ払っていてわからなかったけれど、小百合さんはなんというか身に纏っている温度が低い人だ。一目で高いんだろうなぁとわかるワンピースに、ハイヒール。そして自分でデザインしたのであろう、パールの連なるピアスが涼しげに耳元で揺れている。
「いえ、全然。大丈夫っす」
 なんとなくスマホを触るフリをして、俊平さんからのラインがないか確認する。
―夕方、1時間くらい体、空くかもしれないから。
ラインがきたのは今日の早朝。どうかどうか、俊平さんの体が空きますように。その時間だけ、あの人の体が私のものになりますように。それだけを願っていたから、小百合さんが十分遅刻してきたことに気づかなかった。
「白井さん、就活とかしてるの?」
 小百合さんも私もシンプルなざるそばを注文した後で、小百合さんは聞いた。
「いやー…なかなか上手くいかなくて」
 俊平さんとの恋は人生において最難関の課題で、それに取り組んでいる自分は、別に就職せずに卒業したって生きていけるという、謎の自信があったから、就活は全くしていなかった。
「だってあの坂上くん、だもんねぇ」
 と、小百合さんは私の状況を見透かしたように、悪戯っぽく笑った。
「え? 俊平…坂上さんのこと知ってるんですか?」
「うん。この間は白井さん、相当酔っ払ってたから言いそびれちゃったけど。予備校時代の後輩なんだよね。今は何してるの?」
「カメラマンです」
といっても、スーパーのアプリに掲載される商品の物撮りが専門の、それもフリーランスっていう微妙な立場だ。俊平さんは銀行員である梨花さんと同棲している、いわばヒモであり、しかもそれに誇りを思っているところも、私がなぜだかわからないけれど俊平さんのことが好きな理由の一つなのだ。もう嫉妬とかいわゆる恋愛における普通の感情は、死滅し乾燥し風に吹かれて飛んでいっていた。最初、俊平さんを好きになった時、彼には女友達もたくさんいて、自分は彼の浮気相手にもなっていないことに、苦しくて苦しくて本当に死ぬかと思う勢いだったけれど。脳みそは簡単にぶっ壊れる。
「私は合格したくて必死にデッサンを頑張ってたけど、彼にとって予備校は、遊び場って感じだったな。それがあの頃は、許せなくてね。どうしてあんなにモテるんだろうって不思議だったけれど、彼って女の子に『大丈夫?』って聞くんだよね。自分なんかよりよっぽど頑張ってる君のことがたまらなく心配だっていう顔で。そりゃあ、みんな彼のことが気になっちゃうよね。だって、女の子はみんな頑張ってるんだから」
「きっと演技じゃないんですよね。心の底からそう思ってる」
「だから厄介。抜け出せなくなる。でしょ?」
「私、やばいですよね」
「やばくていいんじゃない。羨ましいよ。私もあの時、坂上くんのこと好きになっておけ
ばよかったなぁ。あ、今は興味ないからね。安心して」
「わかってます」
「正しさなんてくだらないって、若いとき一瞬でも思えたらよかったんだけどね」
店内はクーラーが効きすぎて寒いくらいだった。スマホが震えた。小百合さんが目で「どうぞ」と合図してくれたので、画面を見ると、俊平さんからラインが来ていた。今日は梨花さんが残業で遅くなるから、家に行ってもいいし、シャワーも浴びていいらしい。
 
 外に出ると、強烈な日差しに目眩がした。直射日光を浴びる肌が痛い。週末だというのに暑さのせいで観光客はまばらだ。
「せっかくだしお参りしようよ。ここ、縁結びの神様なんだよね?」
 と言い出したのは小百合さんで、体が汗でベタつくのを感じながら本堂で投げ銭をしてから手を合わせた。私の願いは夕方叶うので、すぐに合わせた手を離して目を開けると、小百合さんはとても真剣な面持ちでしっかりと目を瞑り、手を合わせていたから、びっくりした。声なんて全然かけられない感じで、小百合さんの整った額に汗の玉がいくつもできて、ゆっくりと流れていく様子を、しばらく眺めていた。
「どうして誘ってくれたの、深大寺だったんですか?」
「白井さんが、坂上くんと出会った場所だって聞いたから」
小百合さんは暗闇から戻ってきた目を細めて笑った。
 タイミングを見計らったかのように、小百合さんのスマホが震えた。先程の蕎麦屋の方へ向かうと、小百合さんの旦那さんが汗ひとつかかずに待っていた。
「今日はありがとうね。元気、出た」
 小百合さんは旦那さんの姿を見るやいないや、小さな声でそう言って、旦那さんの元に駆け寄ると、一度振り返って小さく手を振った後、足早に颯爽と帰っていった。
 蕎麦屋の近くの駐車場に停めてあるBMWに、小百合さんが乗り込むのを見て、完璧なよそゆきの日常には奥行きがないんだなと、暑さでぼんやりとした頭で思った。

 それから三日後、小百合さんは消えた。
 旦那さんが仕事から自宅に帰ると、結婚指輪がテーブルの上に置いてあったらしい。大きな仕事が立て続けに決まっていたために、それはそれは大騒ぎだったという。
 しかし、旦那さんは終始冷静で、小百合さんの悪口を一切言わなかったから、主に男性陣からさらに一目置かれるようになったし、ブランドもきっと持ち堪えるだろうとの噂を聞いて、一瞬目撃しただけだけれど、あの夫婦生活に、小百合さんが座ったり寝転んだりできるような、つまり居場所ってやつは、やっぱりなかったのかなって思った。
 あの日、深大寺で手を合わせていた小百合さんの横顔を、思い出す。
―元気出た。
 「もっと自分を大切にしなよ」と言われるような恋愛をしている私が、他人を元気付けることができたなんて、単純に嬉しかった。たとえ小百合さんが元気を出した結果、世間から「とんでもないこと」と思われることをしたとしても。
 小百合さんのことは全然よく知らないけれど、今きっとどこかで誰かと一緒にいて、そしてその人と恋をしていて、その恋が果たして自分にとって幸せかどうかわからない類のものであろうことは、なんとなくわかってしまうのだった。

さいとう蜜柑(神奈川県川崎市/35歳/女性/自営業)