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「新月の蛍」著者:永見恵子

 葵夏美は京王線調布駅に着くなり、猛ダッシュでバス停に向かった。午後5時29分発・深大寺行きバスに乗らなければならない。動物霊園が閉まる時間が迫っているからだ。今日、六月十一日は亡くなった猫・優作の三回忌。夏美はどんなに忙しくても、命日のお参りだけは欠かさなかった。
 夏美は証券会社の営業職として勤めて五年が経ったが、心が弱く泣き虫の自分を隠し、バリバリのキャリアウーマンを装っていた。そのギャップが夏美を苦しめていた。家に帰るといつも優しく包んでくれる優作のおかげで、何とか乗り切ってこられた。優作を突然の交通事故で亡くしたことは大きかった。
 夏美には恋人がいたが、優作が来てしばらくして別れた。「お前の努力が足りないからだろう」が口癖だった。仕事をテキパキこなし成果を上げる彼の仕事ぶりは尊敬するが、合わない何かを感じていた。
 優作がいっそ人間だったら、と思うこともあった。泣いていると、香箱座りをしてじっとこっちを見て「そんなら、俺が養ってやる」と言わんばかりの顔をする。「人間だったら、恋人にしたい…」と思うことが何度もあった。
 車窓からは、あかね色に染まる一筋の雲が見えた。昼の空にうっすら浮かぶ月がこの日は見えなかった。ネットで調べると今日は新月。願い事をすると良い日と書かれてあった。
 バスを降りると、辺りは薄暗いオレンジ色になっていた。鬼太郎茶屋もそば屋も閉まり、ひっそりとした参道を駆け抜けた。深大寺脇の坂を上ると、石垣の間に古めかしい門が見えた。息をハァハァさせながら、一気に階段を駆け上がると、忠霊塔には灯りがともっていた。夏美は安堵した。
 高い石塔でできた忠霊塔の入り口には几帳台があり、「葵夏美、猫、優作」と記入した。優作はここで仏に守られ眠っている。
 夏美がロウソクから線香の火をもらおうとすると、風もないのにロウソクの火がゆらめいた。「優作、来てくれているの?」。手を合わせると夏美は大粒の涙をこぼした。いつものことだが、優作のことを思い出すと、涙が止まらなくなる。そこにいると思うと、会いたい気持ちが一層、高まった。
 亡くなった当時は無気力になり、「自分も一緒にあの世に行きたかった」。そう口走る日々が続いた。三年が立ち、ようやく心の落ち着きを取り戻した。
 優作と出会ったのはまさにここ深大寺。五月の連休が終わると、憂鬱な日が続いた。緑いっぱいの喧噪のない所に行きたい。ネットで探し、深大寺に決めた。そば粉を引く古い水車が心を捉えた。田舎の素朴な雰囲気が残っている。近くには神代植物園があり、甘い香りのするバラ園もある。ここは癒やしの空間がいっぱいだ。
 深大寺に行くと、湧水が寺を囲むように流れていた。川底まで見える透き通った水が音を立てよどみなく流れる。それを眺めているだけでも気持ちが清らかになれた。水路には清流でしか育たないクレソンが生えていた。
 あてもなく歩いていると、白黒のハチワレ猫がおいしそうに水路の水を飲んでいた。シンメトリーの模様が美しい猫。夏美はそ~っと近づいた。
 「水、おいしい?」。声を掛けてみた。
 「ニャーン」。かわいい声で鳴き、夏美と目を合わせた。
 妙に人間っぽい、不思議な雰囲気の猫。夏美は一瞬で運命を感じた。野良猫は、めったに人とは目を合わせない。猫が目を合わせるのは信頼している場合だけだと聞いたことがある。夏美は猫が大好きだが、この猫には特別な何かを感じた。
 そーっと手を伸ばし、頭をなでた。「ニャーン」。猫は夏美を見上げると、前足の伸びをした。警戒心が無いことを示す仕草だ。しばらく、この猫と遊んだ。ゴロゴロ喉を鳴らす音で、日々の疲れが吹っ飛んだ。
 「バイバイ」と猫に語りかけ、立ち去ろうとした。一、二歩、歩き出すと、猫は足にスリスリしてきた。頭をなで「また来るね」と言い、歩き出した。振り返ると、猫は足を止めた。再び歩き出し振り返るとそこにいた。「だるまさんが転んだ」のよう。思わず吹き出した。「一緒にいたいのね」。鞄に入れて、連れて帰った。
 お参りを終えると、夕日が木々のてっぺんを照らしていた。もうすぐ日没。人と霊の区別がつかなくなる黄昏時だ。木々が生い茂り、静まりかえった空間に恐怖さえ感じた。
 ここは豊かな森と清らな水を生かし、地元の人がゲンジ蛍を復活させたという話を新聞で読んだことがある。「蛍が願いを叶えてくれるかもしれない」。
 鬼太郎茶屋もあるし、「最終バスには幽霊が出る」という都市伝説も聞いていた。辺りに人影はない。怖い気がしたが、一縷の望みが夏美を留まらせた。
 深大寺の門は閉まっていた。参道にあるベンチに腰掛け、暗くなるのを待った。風がそば屋の軒先の風鈴を鳴らす。水路を通り抜けた夜風は、夏とはいえ肌寒かった。
 蛍が生息するという寺院裏の斜面に向かった。薄暗い街灯が点き始めた。街灯が暗いのは、蛍のために明かりを絞っているから。この町の優しさを感じた。
 その斜面は湿地になっており、真ん中に湧き水が流れる。蛍の餌になるカワニナが生息できるほどきれいな小川。優作と出会った場所だ。
 しばらくすると、闇の中に薄黄緑色の小さな光が現れた。数個の優しい光が点滅しながらふわふわ飛び交う。見とれていると、ひときわ大きな蛍がこちらに向かってきた。光をじっと見ていたら、急に睡魔に襲われ、その場にしゃがみ込んだ。
 「夏美さん、大丈夫ですか」。顔を上げると、白いカッターシャツに黒いズボン、目鼻立ちがはっきりした背の高い青年が立っていた。
 「なぜ、私の名前を?」。
 「優作ですよ」。
 「えっ、優作って。私の猫と同じ名前」。
 「同じ名前じゃなくて、私はその優作ですよ」。
 その青年は、猫の優作と雰囲気が似ていて、夏美が抱いていた理想の彼・そのものだった。そばにいるだけでいつもの幸せな気分になれた。間違いなく優作だ。
 年を重ねた蛍は妖精となり、新月の日だけは人になれる。この地をさまよっていた優作はその訳を話し、蛍の妖精に懇願した。「そなたの人を思う心はよくわかった。最後の命、そなたに預けよう」。蛍はそう言うと新月の命日を待った。
 「毎年、ここに来て泣いている夏美を見て、いたたまれなくなったんだ。優しい蛍の妖精さんのおかげで、こうして人の体となり、夏美と話ができるようになった。人でいられるのはほんのわずかだけど…会えて良かった」。
 夏美は涙がこぼれ落ちそうになるのを何とか堪えた。
 「泣いてもいいよ。夏美」。優作は夏美を抱きしめた。
 「愛している。僕は猫だったけど、人間の男のように夏美を愛したかった」。
 夏美は背伸びをして優作に激しくキスをした。
 二人は手をつなぎ、深大寺の小道を歩いた。薄暗い街灯が二人を照らした。小川の水音が、かすかに聞こえる。二人だけの静かな時間が流れた。
 「夏美のそばにいるだけで僕は幸せだった」。
 「泣き虫の私に寄り添ってくれた。それに支えられ、何とかやってこられた」。
 夏美は目を潤ませ、大粒の涙を流した。優作は手でその涙をそっと拭った。
 夏美は優作を見上げて、目を合わせた。優作に初めて出会った時、目を合わせたことを思い出した。二人は楽しく過ごした日々を語り合った。
 「一緒にいた日々があまりにも楽しく…。大きな穴がぽっかりと空いた」。
 「僕は夏美のことを守ってあげたかった。息が止まろうとしている瞬間でさえ、僕は夏美を置いて、死ぬとは思っていなかった」。
 「楽しい日々が突然…、考えてもみなかった」。
 「人間だったら…もっともっと…」。優作は言葉を詰まらせた。
 優作の姿がだんだんと透明になっていく。
 「行かないで」。夏美は優作の手を引こうとしたが、つかめない。
 「短かったけど、夏美と一緒にいられて良かった」。
 「愛している。生まれ変わったらきっときっと一緒に…」。
 優作の姿はどんどん透明になり、見えなくなった。
 小川の脇には、小さな黒い虫が死んでいた。

永見 恵子(東京都調布市)