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「ぼくたちの未来」著者:山中琴美

自分が何ものなのか、よく分からない。
将来どんな方向に進むのか?就きたい職業は?何に興味がある?休みの日には何をしているの?友達はいるの?好きな人はいる?…ぼくは公的にも私的にもこういう質問をされると、いつも言葉に詰まる。教師、親、顔見知り、友達…そういう人たちから、ぼくたちはいつもこういう質問を突きつけられている気がする。
ぼくは、まだ自分のことが何一つ分かっていない。 やりたいことも特にないし、これと言って強く興味を持つものもない。友達も、腹を割って話せるほどの仲の人はいなかったし、恋愛対象だって…ぼくは自分が女性を好きなのか、はたまた男性を好きなのかも、よく分からなかった。それは、どちらにもどきっと胸をざわつかされたことがあったから。 
土曜の午後、ぼくはなんとなくまだ下校せず、教室に残っていた。教室にはまだ数人のクラスメイトが残っていたが、ぼくは一人、自分の机に座り、ただぼーっとしている。今年度が始まって一ヶ月ちょっと、ぼくがこの学校に通うのも一年を切った。にも関わらず、ぼくは今後のことが何も決まっていなかった。大学に行く?…でも、何を勉強したいんだ?好きな人を作って、青春を謳歌する?…でも、好きな人ってそもそも作るものなのかな?
…まだ、何一つ分からなかった。ぼく自身という人間が。
「…青木?…何してんの、ぼーっとして。」
自分の名前を呼ばれ、ハッとする。その声は、クラス内の雑音の中をかいくぐって、ぼくの耳に届いた。
…低音の、耳触りの良い声。顔を見なくても分かる。クラスメイトの青山の声だ。「ん?…何もしてない。ただ、ぼーっとしてるだけ。」
彼はぼくの机に両腕を突いて、座っているぼくの顔を覗き込んでくる。
青山とは高一のとき同じクラスだった。別に特別仲が良かったわけじゃないけど、出席番号で前後になったことから、たまに話す程度の仲だった。今年また同じクラスになって、また出席番号で前後になり、顔見知りのぼくを見つけた青山は、やたらとぼくを構うようになった。
「帰んないの?」
「…うん。…どうしようかな、…」
「何それ。……なんか悩みでもあんの?」
突然のその質問にぼくはどう反応しようかと迷った。何か具体的な悩みごとは、ない。でもいつもふわふわしている自分がいて、自分が何ものなのか分からないんだ。…強いて言えば、それが悩み。
青山は少し心配そうな顔で、ぼくを見ている。…ちょっとだけ、話してみようかな。
「…なんかさ、俺、土曜の午後の時間って苦手なんだよ。…なんての、なんか自由じゃん?俺、自由って言われるとすごく困るんだよね。変だろ?…自由、って言われると、何していいか分からなくなる。」
ぼくがそう言うと、青山は少し神妙な顔をしていた。めんどくさいことに首突っ込んじゃったな、とでも思っているのだろうか。『そっか。じゃあ、また来週』きっとそんな当たり障りない挨拶をして青山はこの場を去るとばかり思っていたら、彼の手が、ぼくの手をぎゅっと握ってぐいっと引っ張った。ぼくは急に椅子から立ち上がらされた。
「行こう。」
引っ張られたはずみで急に近づいた青山の声が、ぼくの耳元で響く。抵抗する前に、ぼくの心臓はどきんと跳ね上がった。それは、大きくてゴツゴツしてて、でも案外あったかい彼の手と、いつもの彼の低音の声のせいだった。
「…えっ、…ちょっと!待っ……」
そのままぐいぐいと教室の扉まで連れて行かれそうだったので、ぼくは慌てて紺色のス
クールバッグを掴んだ。

 今、ぼくたちは深大寺にいる。ぼくは学校の最寄りのバス停から、行き先も確認できないまま路線バスに乗せられた。そして、今そのバスが出発する音がぼくたちの背後で響く。
「なんで、ここ?」
「え、…なんとなく。来たくなった。」
なんとなくでぼくはこんなところまで連れられてしまった。ため息をつき、とりあえず辺りを見回した。ここには小さい頃から何度も来ている。この辺りに住むぼくたちには馴染みのある場所だった。
で、どうするの?と青山の顔を見る。
「とりあえず行こう。なんか甘いもの食いたい。」
そう言うと青山は今度は俺の手首を掴んで、参道のほうに歩き出した。さっきも感じたけど、青山の掌はあったかい。ゴツいけど、そのあったかさのせいか触れられると気持ち良かった。
それほど大きくない深大寺前の参道に軒を並べる食堂や土産物屋は、観光客で賑わっていた。喧騒の中、少し強めの風が頭上の木々を揺らす音と、鳥のさえずりが耳に心地良い。ぼんやり揺れる木々を見上げていると、さっきまで隣にいた青山の姿がない。ぼくはきょろきょろと辺りを見回して彼を探したが、この人混みだ。見つからなかった。仕方なく近くにあった休憩用の腰掛けに座り、行き交う人々を見るとはなしに眺める。
みんな、何か目的があってここで立ち止まったり、先を急いだりしてるんだろうか…「いたいた!どこ行ってたんだよ?」
ぼんやりしてそんなことを考えていると、例の低音の声がぼくの耳に飛び込んでくる。それはいつも、迷うことなく真っ直ぐぼくの耳に届く。ぼくは声のするほうを見もせずに答える。
「それはこっちの台詞だ。」
青山は何も気にすることなく、ぼくの隣に座った。
「はい。これ。」
手にしていた二本のみたらし団子の片方をぼくに寄越す。こんなふうに有無を言わさず自分を押し付けてくる青山の存在が、ぼくには心地良かった。ぼくはその団子を受け取り、一こ目の団子をかじると、甘じょっぱさが口の中に広がった。青山はしばらく黙って団子を食べていたが、食べ終わるとその串をもてあそびながらぽつりと言った。
「青木、…さっきさ、自由って言われると困るって言ってたじゃん?何していいか、分からないから。…それって、お前の中で何にも決まってないからだろ?」
「…うん。そうだね。」
ぼくの返事を聞いた青山は、しばらく黙って何か考えているようだった。次に彼が何と言い出すか気になって、青山の横顔を見つめる。今までこうやってじっくり見たことはなかったけど、青山の鼻梁は高くて格好良かった。
そのうち青山はぼくのほうを向いて、笑った。
「いいじゃん、それで。だって真っ新ってことでしょ?青木の今は。あと、この先も。いいじゃん。何でもできるし、何にでもなれる。」
唐突に頭の中にすとんと落ちてきた彼の”真っ新”という言葉に、ぼくはぽかんとしてしまった。青山はそう言うと、ぼくを見て笑っていた。”何でもできるし、何にでもなれる。”彼の今の言葉を反芻する。
「…そんなことにも気付かなかったのか?お前の未来は、無限大ってことだよ。」
今度はちょっと悪戯っぽい笑みをこちらに向けて、青山はぼくの腕を自分の肩でぐいっと押した。確かにぼくは今まで自分のことをそんなふうに考えたことはなかった。
「まあ、大丈夫だからさ。心配すんなよ、いろいろ。…じゃあ、行くか。」
青山はそう言ってまたぼくの手を掴み、ぐっと引っ張ってぼくを椅子から立ち上がらせた。
今日はこのまま青山に振り回されてもいいかもしれない、とぼくはそのとき思った。しばらく新緑が輝く気持ちの良い今日の午後を楽しんでもいいかもしれない。 そして、青山に手を掴まれてどきどきする気持ちもそのままにしておいていいのかもしれない。だって、これから何が起きるか分からないし、可能性は無限大なんだから。

山中琴美(東京都/44歳/女性)