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「妖怪探し」著者:大野薫理

武蔵境通りを自転車で下っていく。先に走る康太のシャツが風で膨らむ。迷いのない、その背中を追いかける。

私の家と康太の祖母の家は隣同士だ。康太が生まれる前、祖母が一人で暮らしていたが、妊娠を機に両親は同居を始めるようになった。偶然ではあるが、ひと月違いで私たちは誕生した。いつしか私たちは歩けるようになり、言葉を話せるようになり、競い合うように大きくなっていった。毎日、お互いの家や庭を行き来しては日が暮れるまで遊んだ。私は小さい頃から友達が多かったが、康太と一緒にいる時間が楽しくて仕方がなかった。一緒に拾ったドングリや松ぼっくりも、道端に落ちている石だって特別な何かに見えた。並んで食べるおやつも美味しかった。母親のお腹に居る頃からの仲だからだろうか。
ところが、小学校三年の時に康太と両親の三人は引っ越していった。そして、高校一年生の秋に康太は一人で調布に戻ってきた。七年振りの再会。久しぶりに会った康太は何かが大きく変わっていた。見た目の変化とかではない。康太を占めていた大きなものがごっそり無くなってしまったみたいにみえた。
最低限の言葉しか話さず、誰とも関わろうとしない康太は、高校ですっかり浮いた存在になった。私は、生徒会やバスケ部の人脈を駆使し、あらゆる友人に彼本来の人柄や性格を伝えては、しばらく見守って欲しいと言い続けた。昔の康太を知る幼稚園や小学校からの幼馴染も助けとなり、次第に理解を示してくれるようになった。学校では自分から話さない康太だが、私と二人きりの時は笑いもするし、私のお節介にも平気で文句も言ってくる。なぜ皆と喋れないのかは、自分でも分からないのだそうだ。心の中の何かが、そうさせているらしい。
康太が妖怪探しを始めるようになったのは、そんな高校生活が落ち着いたころだった。夜明け前に私の部屋のちょうど真向かいに位置する康太の家の裏口が開いた。その古い扉は独特の音が出る。河童が鳴くとしたら、きっとこんな声に違いない。私は、耳を澄まして気配を追う。毎回、康太は自転車でどこかへ出かけて行き、ほどなくして戻ってはくるのだが、手ぶらの所を見るとコンビニでもないらしい。気になった私は尾行することにした。少し離れて追いかけていく私に気づくことなく自転車を漕いでいく。目的地はすぐに分かった。深大寺だ。近くには植物園もあるしカニ山もある。もう少し行けば野川もあり、小学生の頃は、毎日どこで遊ぶか迷うくらいだった。中でも深大寺は私と康太の一番のお気に入りで、一時期、深大寺にお参りするのが日課だったこともあった。
駐輪場には見慣れた自転車がぽつんと置いてあった。康太を探す。木々に囲まれた闇は深く、昼と夜とでは、まるで別世界のように思えた。外灯の明かりまでもが不気味に感じられる。昼間は人で賑わう土産屋や蕎麦屋を抜けると弁財天池の前で佇む康太の姿があった。私はしばらく声を掛けられずにいた。暗い池を見つめる横顔がひどく小さく寂しそうに見えたからだ。それでも決心して近づくと声を掛けた。康太は本当に驚いた顔をしたが、ふっと優しい顔になると「だめだよ、こんな夜中に危ないよ」と言った。
「じゃあ今度から一緒に来よう」
こうして私は康太の妖怪探しに付き合うようになった。

「自分ではどうすることも出来ない問題ってあるよね」
いつもと変わらない声と表情。私は全身を耳にする。
「例えばなんだけど、親の離婚とか、いじめとか、ばあちゃんの病気とか」
「うん」
「俺の伸び悩んでいる身長とか」
最後の例えは俯きかけていた私の顔を覗き込むようにして言った。康太は笑っている。それがかえって悲しくなる。
「仕方ないって、いつも諦めてたんだ。でも、ある時、諦めたくないかもって思ったことがあってね。昔から見たいと思っても見られないもの。それをね、探してみようかなって」
「それが妖怪探し?」
「そう」
幼い頃から空想したり、想像のものや目に見えないものを探し求めたりするような男の子だった。特に妖怪が好きで、それらが載っている図鑑をいつも見ていた。調布を離れてから、康太の身に何が起きたのかは分からない。でも耳にしてしまったことがある。小学校の卒業式の朝、目を覚ますとお母さんが居なくなっていたこと。結局その後、お父さんも康太を置いてどこかへ行ってしまったこと。それを聞いてから、独りぼっちで小学校と中学校の卒業式に立つ康太の後ろ姿が頭から離れない。見てもいない康太の背中を。
「次は見られるかもって考えるだけで、明日が楽しみなんだ」
深大寺に妖怪を探しに行くのは、眠れない夜をやり過ごすためだと思っていた。良かった。康太はちゃんと明日を楽しみに生きている。
「でも由香はダメだよ。ちゃんと寝ないと。成長期に睡眠は大切なんだよ」
急に真顔で康太が言う。
「私はこれ以上大きくなりたくない」
恐らく遺伝なのだろう。中学に入った時点で身長は百七十センチ近かった。大して上手くもないのにバスケ部の部長になったのも身長のお陰だろう。
「でもさ、由香が授業中に寝ているのを見ると、付き合わせて申し訳ない気持になる」
私は亀が生息している池を見ながら口を開く。
「野生の亀ってさ、熟睡時間が短いんだよ。敵にいつ襲われるか分からないから。私もそう。授業中に寝てはいるけど起動中でもあるわけ。学校ってさ、常に競い合わなきゃいけないし、頭も体力も使ってHP削られるし。だから合間を縫って休んでいるだけだよ」
水面は静まり返っているが、きっと亀たちは浅い眠りを続けているに違いない。
「面白い言い訳を考えたね」
「とにかく、私も妖怪探しに付き合うからね。私の方が康太より霊感体質だから可能性は大いにあると思う」
「妖怪と幽霊は別物なんだけどな」
私がくっついてくることに真剣に拒んではいないのだろう。私が康太に木登りやザリガニ釣りを教えたときも、何かと文句を言っては楽しそうにしていた。あの時と同じ表情をしている。
いつものように少しだけ会話をして、深大寺をひと回りして帰ろうとした時だった。本堂の方から何やら声がした。二人で顔を見合わせる。頷き合うと、息を潜め山門の方へと向かう。不動の滝の水音が足音を消してくれてはいるが、出来るだけ音を立てないように石畳を歩いていく。妖怪探しも今夜で何度目だろうかと思っていた。始めてから一年近くになろうとしている。もしかしたら康太の願いが届いたのかもしれない。階段を一段ずつ登っていく康太の背中が弾むように揺れている。扉で閉ざされている山門に近づいたとき、中からはっきりと声が聞こえてきた。
「はっけよい」
「のこった、のこった」
隣で康太が大きく息を飲んだ。僅かな隙間から境内を覗く。私は瞬きをした。
そこに、間違いなく、いた。幼い康太が夢中で見ていた図鑑の中から飛び出してきたような者たちが、いた。それらが境内の真ん中で相撲を取っている。敷き詰められた砂利を踏み鳴らし蹴散らし、私たちのことなど気にもせず真剣に遊んでいる。想像していたよりもとっても小さい者たち。だから探しても見つけられなかったのか。私たちはいつの間にか繋いでいた手を強く握りしめると、再び音を立てないように元来た階段を後ろ歩きで一段ずつ下りて行った。繋いだ手から康太の興奮が私に伝わり、私の興奮が康太に伝わる。階段を下りきったところで、私たちはお互いを包むようにぎゅっと抱き合ってその場で何度も跳ねた。そしてまた手を取り合って自転車置き場へ走って行くと、自転車に跨り力強くペダルを漕いだ。一言もしゃべらなかった。でも二人とも笑っていた。私は笑い過ぎたのか涙も出ていた。家の前でもう一度お互いの何かを確認するように抱き合った。
私は自分のベッドにもぐりこみ布団を頭から被って丸くなると、さっき二人で抱き合った時、いつの間にか康太の身長が私の身長と変わらなくなっていたことに気づいた。

大野 薫理(東京都調布市/50歳/女性/家事従事)