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「十三夜に、山門で」著者:野川歩

 いま、何時なのかしら。風が冷たいから、ずいぶん夜が更けたのかもしれない。ショールをかき合わせて、息をはく。どのあたりまで、来たのかしら。行かなきゃ。十三夜に、山門で。あなたと、そう約束したの。早く行かないと、母は、見知らぬ銀行員との縁談を進めてしまうだろう。その前に、あなたと。だから行かなきゃならないのに、どうもぼんやりしている。ぼんやりしているけれど、月明かりをたよりに、参道をひた走る。この下駄は、なんだかとても走りづらい。鼻緒がなくて、引きずるようなんだもの。でも、行かなきゃ。とにかく、行かなきゃ。
 「――ちゃん。」ふいに耳元で声がする。若い女が、心配げにのぞきこんでいる。親切そうな丸顔だけど、誰だったかしら。思い出しそうで、思い出せない。でも、ふりみだした髪を、おさげにすれば――ああ、女学校のさっちゃんだわ。どうしたの。卒業を待たずに、満州へお嫁に行ったのだったでしょう。そう、心配して帰って来てくれたのね。遠い大陸から、船に乗って海を越えて。学校でも、やさしかったものね。お裁縫が大の苦手のわたしに、いつも根気よく教えてくれた。ええ、きっと、母のすすめに従うのが賢いのよ。でも、行かなきゃならないの。わたし、あの人と行くのよ。
 あれは、去年のほおずき市よ。わたし、人ごみに酔って、鉢を持ったまま倒れそうになったの。あの人が抱きとめて、木陰で手当てをしてくれた。近くの医科大生なんですって。遠慮がちな声がやさしくて、背中を支えてくれた手が、大きくて、強くて。わたし、息が止まるかと思った。足もとに散ったほおずきの赤、いまでもあざやかにおぼえているわ。井戸で汲んできてくれた水の、ひんやり冷たかったこと。ひしゃくに口をつけて、のどを鳴らして夢中でのんだわ。まるで、生きかえるみたいだった。そう、きっとわたしはあの日、あたらしくなったの。だから今夜また、この山門で会うの。あの人と、行くのよ。
 「――ちゃんったら。」また声がする。腕をつかんで、引きとめようとする。女は困りきって、眉根を寄せている。奥二重の目に、見おぼえがあるのだけど。ええと、そうだわ、ねえやの文枝さんね。わかっているわ。きっと母はわたしをゆるさないし、一生会えなくなるのかもしれない。だいじょうぶよ、かれのことを文枝さんにだけ打ち明けていたこと、だまっているから。あなたも、どうかふたりだけの秘密にしてね。そんなに悲しそうな目をして、世間知らずのお嬢さんがって、心配しているんでしょう。わたしにだって、覚悟くらいあるのよ。でも、花嫁衣裳を見せられないのは、心のこりだわ。ごめんなさいね。晴れすがたで、みんなに見送られて、おうちを出られたらよかったのだけれど。
 「――ちゃん、おねがいよ。きこえないの。」女の声は悲痛になってきた。勘のつよそうな声にききおぼえがあると思ったら、三女の百合子じゃない。またそんな、きついもの言いをして。女の子はやさしく感じよくって、いつも教えてきたでしょう。あんたは小さいころからそうで、お兄ちゃんを言い負かしていた。お姉ちゃんふたりは、思いやりのあるいい子なのに。そんなことじゃ、いつになってもお嫁に――ううん、あんたのお嫁入りなんて、ずっと先のことよね。だって、今夜はわたしよ。わたしが――いやだ、わたし、いつの間に、四人も子どもを生んだの。だって、これから行くんじゃないの。十三夜に、山門で。そう約束したのよ、あの人と。でも。
 頭の中に、もやがかかったみたい。ずいぶん走ったはずなのに、山門は、まだなのかしら。でも、なんだか水音が聞こえてきたわ。そうそう、このお寺は清流のほとりにあるんだった。じゃあ、もうすぐかしら。あら、由緒ありげな瓦屋根が見えてきた。ここだったかしら。ちがうわ、これは、深沙大王のお堂じゃない。たしか、三蔵法師を砂漠で救った神さまだったわね。それじゃあ、お参りしていこうかしら。どうかわたしを、あの人のもとへ。十三夜に、山門でと約束したんです。わたしを、あの人と行かせてください。あの人と行く旅を、みちびいて。
 夜の空を風がざあっと渡って、名月とはいうけれど、まばゆいばかりの光だわ。こうこうと門前を照らして、まるで、まひるの景色。あおあおと樹々の枝がそよいで、足もとにせまってくるのは、清流の水しぶきかしら。わたしは、風にのって、波にのって、ゆうゆうと運ばれて、森と山をはるか超えて、まだるっこしかった足どりも、飛ぶように駆けて、はや山門へ。立ち並ぶ屋台、ゆかたの人々のにぎわい、境内をてんてんといろどる、あざやかな赤、赤、赤。ああ、ほおずき市だわ。そう、それでは、いまわたしを包んで運んでいくのは、あなたが汲んでくれた、あの、井戸水――? からだにしみわたって、すみずみまでうるおして、渇きを癒してくれた、わたしを生きかえらせてくれた、あの井戸水なのかしら。
 あなたは、あの日と同じゆかたすがたで、山門でわたしを待っている。腕を広げて、抱きとめてくれる。白い歯を見せて、すこやかに笑みを浮かべて。やさしい声でわたしを呼んで、つれていってくれるのでしょう。あの日と同じように、わたしを背に負って、そして小川のほとりを、草を踏んで走っていくのね。夜露が一面にきらきらして、きっと玉のようでしょう。わたし、きっと、いま死んでもいいって思うわ。でもあなたは、足を止めないわね。わたしたち、いっしょに行くんだもの。私鉄の駅から列車に乗ったら、省線へ乗り継いで、北の国をめざしましょう。あなたのふるさとからも、わたしの家からも遠い、だれも知らない土地へ。実った田んぼはきっと刈り入れがすんで、もうすぐ初雪が舞うころね。ひっそりふたりで冬を越しましょうよ。春が来て、ご近所とも顔なじみになったら、小さな診療所を開きましょう。あなたは腕のいいお医者になって、きっとみんなから慕われる。わたし、介抱でも帳面つけでも、なんでも手伝うわ。――でも、あなた、ゆかたで来たの?きょうは十三夜、秋も深まって、それに、これから長旅なのに。
 「おばあちゃんったら!」急にまた、女の声が呼びかける。困りきって泣きそうな顔は、だれだったかしら。そう、孫のなぎさだわ。ちがうわ、ひとみだったかしら。いずれにしても、息せききって、わたしを抱きかかえようとするみたい。「おばあちゃん、ねまきにサンダルで、こんなところまで。かえろうよ。おかあさんも、みんな心配して、さがし回っているよ。」うったえる声が、まるで水面をへだてたように、よどんで、遠くて、うまく意味をむすばない。なんだかわからないけど、わたしは行かなきゃいけないのよ。あの人が、待っているんだもの。わたし、あの人と行くの。
 「おばあちゃん。」なぎさかひとみか知れない女が、涙ぐんでいる。「おばあちゃんは、どこへも行かなくたっていいんだよ。いっしょに、おじいちゃんのおうちに帰ろうよ。」この女は何をいうのかしら。わたしは行かなきゃいけないの。あの人と生きるのよ。「おばあちゃん、忘れちゃったの。」女はせつせつと語りかける。「おばあちゃん、しあわせだったでしょう。おじいちゃんは、おばあちゃんやおかあさんのために、いつも一生懸命だったよね。戦争を生きのびて、復興をのりこえて、りっぱなおうちを建てて、ひいおばあちゃんも呼びよせて、おかあさんたちを大きくしたんでしょう。年をとって、銀行をやめてからは、おばあちゃんとふたりで、いろんなところへ旅行に出かけたよね。わたしも小さいころ、たくさんお話をしてもらったよ。おじいちゃん、やさしかった。おばあちゃんにも、やさしかったでしょう。一昨年がんで亡くなるまで、ずっと、いっしょだったじゃない。おばあちゃんは、おじいちゃんのおうちで、しあわせに暮らしてきたんだよ。」
 なんというおそろしいことをいうのだろう。銀行なんかをもち出して、しあわせだなんていって、わたしをつなぎ留めようとする。そうか、なぎさのようなひとみのような、若い顔をしているけれど、これは、実家の母なんだ。わたしを逃がすまいとして、追ってきたんだわ。わたしは、まろびながら走り出す。足がもつれそうだけれど、でも、行かなきゃ。あの人が、待っているから。十三夜に山門でって、約束したから。あの人の大きな手をとって、やさしい声と笑いあって、生きていくの。だから行かなきゃ、あなたに会えるまで。
 「おばあちゃん!」女が追いすがろうとするけれど、ふりほどいて先をいそぐ。走りづらい下駄をぬぎすてて、はだしになって、わたしは参道をひた走る。風にのって、波にのって、何度でも、あのほおずき市の日にかえる。井戸水で生きかえって、あなたの腕の中にかえる。十三夜の山門へかえって、あなたと旅に出るの。くりかえし、くりかえし、何度でも、あなたと生きる旅へと。

野川 歩(東京都)