「ゆびきりげんまん」著者: 櫻糀あめ
仏壇の小さな引き出しを開けた時、底に敷いてあった湿気取り用の古い新聞に目が留まった。写真コンテストの大賞作品。老いた女性と青年が、寺の本堂を背景に、顔を見合わせて楽しげに笑っている。その姿が、なぜか私の心にひどく焼きついた。
「あら! その男の子のほう、若い頃の和彦おじちゃんよ」
「えっ、嘘でしょ。これが?」
一緒に蝋燭を探していた母が、写真を覗き込んで声を上げる。明るく金に脱色した短髪と、耳たぶに光るピアス。眉毛まで剃られているので本当に人相が悪い。四十年前ならば、かなりやんちゃな部類の格好であったはずだ。優しくて穏やかな親戚の和彦おじちゃんとは、まるで思えなかった。
「当時、お母さん中学生だったから、もう怖くて近寄れなかったのよねえ。懐かしいわ」
「でも、一緒に歩いてる人は誰なんだろう。うちのおばあちゃんじゃないよね?」
若い頃のおじちゃんが、大口を開けて笑いながら見つめる先。おばあさんはすっかり腰が曲がって、歯もほとんど抜けて、頭には柄物の手ぬぐいのほっかむりを被っている。母はじっと写真を見て、「確かに誰かしら」と怪訝そうに首を傾げた。四十年前のやんちゃで柄の悪かったおじちゃんと、心の底から笑い合えるほど親しい人物として、そのおばあさんは少し違和感があった。いい写真だからこそ浮いて見えて、気になってしまうのだ。
「今度集まった時、おじちゃんに聞いてみようかなあ」
「それならあんた、明日にでも会いに行ったらいいじゃない。確か今は、調布の深大寺で工務店やってるらしいから、近いわよ」
深大寺駅のバス停脇には、背の高いひまわりがひょろひょろと群生している。そのすぐそばに立ち、和彦おじちゃんは炎天下の中私を待ってくれていた。いやあ暑いね、と首にかけたタオルで汗を拭う彼の柔和な笑みは、元ヤンキーにはとても見えない。そう言うと、おじちゃんは眉を下げて珍しくはにかんだ。
「この歳で、いとこの子どもにやんちゃがばれるのは恥ずかしいなあ。でも、いい写真だったろう。あれは」
「うん、すごく。だから、話を聞きたいと思ったの」
おじちゃんは嬉しそうにして、先に立って歩き始めた。今まで一度も深大寺へ来たことがないという私のために、話のついでに辺りを案内すると言ってくれたのだった。
アブラゼミの鳴き声が、木造の建物ばかりの街並みにわんわんと反響する。深大寺の本堂へとまっすぐ続く石畳の道を、おじさんと二人でのんびり歩いた。透明のプールバッグを持って、小学生の集団がランドセルを揺らして横を駆けていく。なんとなく、深大寺は観光地という印象があったので、当たり前に通学路として使われていることに驚いた。誰かが吹いた調子外れのリコーダーでさえ、この古き良き景色の中では風情を伴って聴こえてくる。
「あのおばあさんはね。当時、僕と恋人だったんだよ」
えっ、と驚きで声が出た。八十歳のおばあさんと、二十歳の金髪ヤンキーが恋人。蕎麦屋の入り口にぶら下がった大きなちょうちんが、生ぬるい風に吹かれてゆっくり揺れる。何と言葉を返すべきか迷う私を振り返って、「ははは、驚いてる」と呑気におじちゃんは笑った。
「ごめんごめん、冗談だよ。半分だけね。正確には、恋人のふりをしてたんだ」
四十年前、いかつい装いでこの道を闊歩していたおじちゃんを、おばあさんが呼び止めたのが始まりだったという。ひどく親しげに目を潤ませて話しかけてくるのに困惑していた時、おばあさんの家族が慌てて走ってきて頭を下げた。痴呆症のせいで、昔付き合っていた恋人に、おじちゃんは間違えられていたのだ。
「それからたまに道で会うと、僕と話す時だけは少女みたいになってよく笑うの。だんだん僕、ご家族に気に入られてきちゃって」
おじちゃんはやがて毎週末、夕方の散歩係を任されるようになった。外に出たがらないおばあさんだが、恋人のおじちゃんが誘うと必ずついてきてくれるからだ。おばあさんが亡くなってしまうまでの数年間ずっと、おじちゃんはおばあさんの恋人として振る舞い続けた。
「すごく仲良くなったけど、そんなわけだから僕は一度も名乗らないままだった。いつもシゲルさん、シゲルさんって恋人の名前で呼ばれてさ。面白いだろ」
かき氷とお団子、どっちがいいと脈絡なく聞かれる。お団子のほうを選ぶと、おじちゃんは少し先の茶屋へ入ってみたらし団子を頼んでくれた。蝉の声を聞きながら、焼きたての団子を頬張る。甘しょっぱいたれが、白い餅の表面についた焼き目の苦味とよく合った。
「シゲルさんっぽく、演技とかしたの?」
「いや、何にも。本人のことなんて元々知りようがなかったし。シゲルさんって呼ばれて、うんって返事するだけで、僕はもうシゲルさんだったんだ」
「そんなもんだよ」とおじちゃんは笑った。冗談めかしているようで、どこか寂しさを含んだ声だった。寺の敷地を囲む堀に沿って、お互い何となく少し黙って歩く。堀の中を流れる水は驚くほど澄んでいて、覗き込むと底に沈んだ小石や枯葉までがくっきりと見えた。
「おじちゃん。最後に、二人が写真撮ったところに行きたい」
これで話はおしまい、とおじちゃんは言いたいのだろうと思う。けれど、まだ聞いていないことがあるような気がした。石造りの階段を上がって、山門をくぐる。初めて訪れた深大寺の敷地は、想像していたよりもずっと広かった。木漏れ日に照らされた鐘楼、掛所に下がる色とりどりの絵馬、ぐるりと見渡せる範囲より向こうにも石畳の道は続いている。けれど、やはり私の目を引いたのは、山門から入って真正面に構える深大寺の本堂だった。かつて、大口を開けて笑うおじちゃんたちを見守っていた時と変わらない姿。四十年前と今の景色が、脳裏で鮮やかに重なった。
「あの写真、別に撮ってもらったわけじゃなくてさ。ここを散歩してた時、いつの間にか勝手に撮られたんだよ。知らない間に勝手に応募されて、大賞まで取っちゃって」
「そりゃあ大賞にもなるよ。何だか本当にいい写真だもん」
そうだろう、とおじさんはしみじみ私に同調した。懐かしげに、でも確かに痛みを覚える表情で、目の前にそびえる本堂を見つめる。お盆の時期が近いからか、大きな白い切子灯籠が賽銭箱の奥で揺れていた。
「あの人はね、僕の前じゃ、いつも本当に恋する少女の顔になったんだ。よぼよぼのおばあさんになんて、全然見えないくらいかわいくってさ。きっとまた会いにいらしてね、シゲルさん、って別れ際には指切りをしてた」
小指と小指を絡めて、指切りの歌を歌うでもなくぎゅっと目をつむるのが癖だったという。骨と皮ばかりの節くれだった彼女の指が、その瞬間ばかりはいつも、驚くほど強い力でおじちゃんの指を握った。
「もうどの仕草も、かわいくてしょうがなくて……。ありえないことだけど、気づいたら僕は本気で恋しちゃってたんだ。ただの八十歳のおばあさんで、僕じゃなくシゲルさんを見てるって知ってても、本当に好きだった」
おじちゃんの声は、笑っているのに震えていた。ごめん、と私になのかそうでないのか分からない謝罪の言葉を呟いて、首元のタオルでやや乱暴に顔を拭う。私はどうしてあの写真が、ひどく見る人を惹きつけるのか分かった気がした。一見すると孫と祖母のようでも、二人の浮かべる笑顔が家族に向けるそれではないのだ。互いに事情は違っても、彼らの表情の中には確かに、瑞々しく輝く恋があった。
顔に押し付けられたタオルの隙間から、ぽたりと一粒、汗とも涙ともつかないものが石畳に落ちていった。蝉がじいじいと鳴いている。私はそっと、汗ばんだ広い背中に手を添えた。
「ねえ。お店戻って、かき氷食べようよ。さっきはお団子って答えたけど、本当はどっちも食べたかったの。次は私がおじちゃんに奢ってあげる」
その言葉は、何かおじちゃんには面白かったようだ。ぶるぶると背中が震えだして、「そんな、四十年前の失恋を今更、慰めるみたいに」と言って上げた顔はすっかり笑っていた。
「ははは、あーあ。面白いからもう、本当に奢ってもらおうかな」
「ひどい、笑いすぎだよ。本気で言ったのに。もう行こう、ほら、蕎麦も食べよう」
笑われた恥ずかしさのやり場に困って、私は逃げるように先に立って山門へ向かう。待ってくれよー、と声が飛んできて振り返ると、おじちゃんがまだ笑いながらこちらに歩いてくるのが見えた。四十年前と変わらず、深大寺の本堂は彼の背中を後ろから静かに見守っている。蝉の声さえ遠ざかるほどの強い風が吹いた一瞬、よく似た笑顔でおじちゃんの隣を歩く誰かが見えた気がした。
櫻糀 あめ(東京都/20歳/女性/学生)