*

「深大寺のキーホルダー」著者: 室谷明子

「えっ財布盗まれたんですか」
 優太はハンドルを握ったまま目を大きく見開いた。加奈子は頭を抱え、事の経緯を説明した。前日、推しのコンサートの帰り、興奮冷めやらず混み合う電車に乗り、駅を出てコンビニに立ち寄った時、財布がないことに気づいた。
「あぁ、それスリですよ。リュックのポケットでしょ。コンサート帰りの混んだ電車で狙っているヤツがいるんですよ」
「警察でも同じことを言われた」
 落ち込む加奈子を横目で見て「まぁ加奈子さんの場合は財布を首から下げていたほうがいいですよ」と言った。
「私は幼稚園児じゃないのよ」怒って優太の顔を見ると白い歯を見せて笑っている。
「まったく三十路の女をからかって」と加奈子は思った。
 ワンボックスカーはウインカーを出してバックで袋小路に入って行った。加奈子は車を降りてインターフォンを押した。タキが杖をつき、家族に支えられながら出てきた。
「おはようございます」
 タキは丸めた腰を伸ばして加奈子に手を預けた。
「おはよう」
 加奈子は顔いっぱいに皺を作るタキの笑顔が好きだった。
「お変わりないですか」そう言いながら後部座席にタキを座らせた。ワンボックスカーは町内を周り、デーサービスの利用者を乗せて施設に戻る。加奈子は窓から空を見た。青空にちぎった綿あめのような雲が点々と浮かんでいる。梅雨に入って雨に降られるかと心配していたが、絶好の行楽日和だ。
「お天気が良くって助かりましたね。今日は深大寺でお蕎麦ですよ」加奈子は後ろを振り返り言った。
「普段の行いがいいからね」タキが言うと、車内から笑いが起こった。
「加奈子さんは花より団子ですね」優太が小声でつぶやいた。
「どうせ私は花より団子ですよ。深大寺のお蕎麦を食べたことある? お水が綺麗だから香りも良く、コシがあってツルツルって何枚でも食べれちゃうのよ」加奈子は頬を膨らませた。
 施設に戻ると先に着いた利用者に若い女の子達がお茶を配っていた。朝の会が始まり、所長がボランティアの女子大生を紹介した。
「今日の深大寺散歩のお手伝いに来てくれた大学生の方々です」所長の隣に並んだ三人の女の子達はもじもじと恥じらいながらお互いの顔を見て一人ずつ自己紹介をしていた。
水も光も跳ね返す張りのある肌。生命力のみずみずしいオーラが放たれている。向こう正面にいる優太を見た。笑顔で拍手を送っている。きっと優太の目にもあの子たちが眩しく映っているんだろう。そう思いため息をついた。
 小型マイクロバスに乗って調布へ向かって出発した。車内では優太がマイクを廻し、皆を盛り上げている。
 国道二0号を走り、深大寺の近くまで来ると、ゆったりとした郊外の風景に変わっていった。バスを深大寺通りに軒を連ねている予約をしていた蕎麦屋に停めた。総勢十八名の団体なので混まない時間の早めの昼食となった。
 全員の目の前に運ばれたところで、所長が「いただきます」と声を上げた。利用者の両隣には職員が付いていて、食事のサポートをする。長い麺をすすれない人には短く切ってあげたり、少しずつ食べれるようにお椀に移したりした。詰まらせないように声を掛ける。老人にとって食事は肺炎を起こすこともあるので、注意しなくてはいけない。加奈子はタキと端の席に座っている。
 加奈子はタキが麺をゆっくり、つゆに浸けて口に運ぶのを見守った。
「加奈ちゃん、美味しいねぇ。蕎麦ってこんなにも美味しいんだね」
 タキは夢を見るように目を細めている。加奈子も蕎麦をすすった。前にも深大寺で蕎麦を食べたことがあったが、湧き水で締めた蕎麦は風味がある。つるつるとすする音が「お帰り」とでも言っているかのように聞こえた。ちらりと優太を見ると豪快に蕎麦をすすっている。「一枚じゃ足りなさそう。まぁ私もだけど」加奈子は心の中で呟いた。
 タキが加奈子に声を掛けた。
「加奈ちゃん、優太君のこと好きなんでしょ」
 突然のささやきに食べていた蕎麦が喉に詰まりそうになり、お茶を飲んで息を整えた。
「好きとかないですよ。ただの同僚ですよ」
「いいのよ。歳をとると分かっちゃうの」
 加奈子は顔を真っ赤にして俯いた。
「ほらね。でも大丈夫よ。優太君も加奈ちゃんのことが、好きだから」
「そんなことないですよ、私よりも四つ年下なんですよ。タキさんからかわないでください」
「加奈ちゃんを孫みたいに思っているの。幸せになってほしいのよ」
 もうダメだ。今まで自分の中で認めてはダメだと思っていた想いが、堰を切ったように心の中に流れていった。その後も動揺が止まらず、蕎麦がなかなか喉を通らなかった。
 全員の食事が終わり店を出た。ゆっくりと山門の方へ歩いていく。蒸し暑くもなく、時折、涼しい風が流れて店ののぼりを揺らしている。
「加奈子さんが言った通り、蕎麦がめっちゃ美味しかったです」優太が後ろから声を掛けてきた。加奈子は優太の顔が見られずに「よかったね」と言って手を引く利用者の方へ顔を向けた。
「どうしたんですか? 食べ過ぎてお腹が痛いの」
「大丈夫」と、ぎこちない笑顔を作ってみせた。
「優太くん、こっち手伝って」前の方から声がした。優太は「はーい」と走っていった。
 境内には幾つもの湧き水が清流になって流れ、その垣根から紫陽花が出迎えるように咲き誇っている。「いい時期に来られましたね」と皆が口々に語っていた。あれから優太は話しかけて来ない。「バカみたい。しっかりしなきゃ」加奈子は自分に言い聞かせた。
 駐車場へ戻る道で、大きな鬼太郎とねずみ男の像が店の前に立っていた。女子大生達は「可愛い」と声を上げた。瓦屋根の上に「鬼太郎茶屋」と書いてある。店の周りで少し休憩となった。お店には鬼太郎と仲間達のキャラクター商品が並んでいた。利用者は懐かしいねと話して、疲れたのか店を出て施設が持って来たポータブルの椅子に腰を掛けた。加奈子が利用者と話をしているその後ろで、優太がレジに立っている。「誰にあげるお土産? 」首を振ってその想いを振り払った。
 長かった一日が終わり、利用者を送り届けた車内は加奈子と優太だけになった。優太は黙ってハンドルを握る。夕日が車内に差し込み二人をオレンジ色に染めた。沈黙が時間をゆっくりさせる。「どうしちゃったの。いつものように喋ってよ」焦る加奈子は何か話題を振ろうと「今日の女子大生、可愛かったね」と言うが、優太は黙って前を見ている。  突然、優太が口を開いた。
「ちょっとコンビニに寄ってもいいですか」
 コンビニの駐車場に車を停めサイドブレーキを引いた。車から降りようとしない優太に「どうしたの、買い物しないの」と声を掛けた。
「これ加奈子さんにプレゼント」胸ポケットから小さな包みを取り出した。
「なに? プレゼントって」加奈子は白い包みを手渡された。
「開けてみて」取り出すと、キーホルダーだった。お椀のお風呂に入った目玉おやじが、その大きな目で加奈子を見ていた。
「おい鬼太郎」優太は裏声で目玉おやじの声真似をした。
「すごい、似てる」加奈子は笑った。
「加奈子さんが財布をなくさないように、この目玉おやじが見張ってくれますよ」加奈子の目から涙が溢れた。
「優しくしないで、辛くなるよ」
「俺だって、なかなか勇気がいるんですよ。付き合ってくださいって言うの」もう加奈子は気持ちが止められなくなり声を上げて泣いた。優太は加奈子を抱き寄せた。
 加奈子はキーホルダーを握りしめた。

室谷 明子(埼玉県新座市/57歳/女性/家事従事)