「DON’T BE」著者:内井一貴
太陽の熱を受けたコンクリートの感触が、ランニングシューズのソールから一定のペースで下半身に響く。お盆を少し過ぎた夏の日差しを浴びていると、二十分ほど軽く流して走っただけなのにもうあごの先から汗が滴っている。十五時をまわったばかりの調布駅周辺は、サラリーマンの帰宅ラッシュの時間よりは少し早くて、制服を着た学生と主婦が歩いているばかりだった。チェーンの牛丼屋や個人の商店が並ぶ駅前の商店街を僕たちは二人で走っていた。
「今日は組手の練習だから、抜けてきてホント正解」
同じペースで横を走っていた雄太が僕にそう言った。足が地面に着くたびに言葉と言葉の間が短く切れる。
「先輩と組手とかしんどいからマジ無理」僕も笑って答える。
今頃体育館の一階にある武道場は、部員の叫び声で満ちているに違いなかった。高校の空手部の練習は、型稽古をする日と組手という試合形式の練習をする日に分かれている。今日は組手の練習の日だ。安全面にうるさい顧問が練習に参加しない今日は、特に激しく練習しているにちがいなかった。僕と雄太はそれが嫌で、ランニングするといって全体練習を抜けてきた。
「ここまで来たら、学校の連中もいないし走らなくても大丈夫じゃない?」
雄太が走るのをやめて歩き始めたのを見て、僕も歩き始める。風を感じなくなったとたんに、まともに夏の暑さを感じて全身から汗が吹き出してくる。
「これから一時間くらいゆっくりして、そのあと走って帰るとすると、どのへんでサボる?」
「学校から離れてるけど、人目につくと良くないからなあ」
そう言って僕は学校のマークが入った体操服の胸元をつまみ上げて雄太に見せた。たしかに、と雄太もうなずく。袖だけ緑色のラインが入った白いシャツに、緑一色に染められた短パン、学校制定の体操服は絶妙にダサい。でも、校則では校外を走るときには体操服じゃないといけないことになっている。
「マジでダサいんだよなあ、この体操服。校章入ってるからなんかあるとすぐ通報されるし。これでバレないとこあんのかな」
「深大寺どうよ。歩いて二十分くらいだし、売店あるからなんか買って日陰で休もうぜ」
僕の提案に、アリだなと雄太も乗り気になった。
「せっかくだし、ミキちゃんとの今後も神様にお祈りしとこうかなあ」
雄太が笑ってそう言った瞬間、ドクリと心臓が高鳴るのを感じた。左胸に神経が集中して、一瞬全身の血が沸き立ったような感覚がする。慌てて気を落ち着けようとしたけど、その後もしばらく僕の心臓はドクドクと脈打っていた。
「いいじゃん、せっかくだしお願いしとけよ」僕は精一杯笑顔を作ってそういった。なおも語りかけてくる雄太の声を聞きながら、一体今僕はどんな顔で笑っているんだろうと思った。
僕らの通っている高校は男子校で、少し離れた町に同じ系列の共学の高校がある。年二回、春と夏に行う空手部の合宿は、両校合同で行われていた。
七月の終わりに行われた今年の夏合宿には、合わせて五十人が参加した。四泊五日で行う夏合宿は練習の合間に花火や海水浴があって、毎年一組はカップルが誕生することで有名だった。もちろん、こっちの高校の男子とあっちの女子のカップルだ。九十九里浜に行きたいという部員の意見が採用されて、今年の合宿は千葉の上総一ノ宮駅近くの宿舎を貸し切って行った。
僕は四泊五日の合宿が憂鬱で仕方なかった。練習がしんどいのはいつものことだから別に関係ない。合宿の間中、女子といるのが耐えられなかった。正確に言うと、女子とイケてる連中だけが仲良くしているその輪から外されているのに耐えられなかった。
別に意図的にハブられているわけじゃない。でも、どうしても輪の中に入る勇気が出ない。一軍の連中の中に自分が入ってもし場の空気を壊したら、お前も来るのかよという視線をもし誰かから受けたらと考えると、どうしてもその中に入ることができなかった。そして、自分はあまりそういうことに興味がないというようなフリをしてしまうのだ。
今年の合宿は最終日までついにカップルは誕生せずに過ぎていった。誰もいないのかよ、とがっかりした顔で言っている同期に、まあそんな年もあるっしょ、と笑いながら答えていた。内心では、何とかこのまま平穏に終わってほしいと心の底から思っていた。
でも、今年もカップルが一組誕生してしまった。それは雄太だった。
最終日の晩はサイゼリアの一角を貸し切っての打ち上げだった。その中で雄太はむこうの女子に公開告白をした。五十人の視線を受けた中、雄太はミキちゃんと呼ばれるその女の子が座っているテーブルまで行くと、照れながら告白し、その場でイエスの返事をもらった。歓声と黄色い悲鳴に包まれたファミレスで、先輩や同期に囲まれる雄太を、僕は遠目に見ているだけだった。イケている子たちは皆テーブルを立って雄太のもとに走って行って、テーブルに残ったのはイケてない部員だけだった。残った組の中にはそもそもそういう恋愛ごとに興味のないヤツもいたけど、そんなのは少数派で、本当は中に加わりたいのにそうできないヤツが大半だった。大盛り上がりしている真ん中とは対照的に、誰も話さずにただカチャカチャと食器の触れあう音だけが鳴っているテーブルはあまりにもみじめだった。
席を立って、輪の中に加わろうと何回思ったかわからない。でも、ぼくにはできなかった。靴底が地面に張り付いたように動けなかった。平然とした表情をつくりながら、内心でうらやましがっている僕はあまりにもみじめで情けなかった。何も気にせずに、誰とでも自然体でいられる雄太のことを心の底から妬んだ。
「俺、人生で初めての彼女なんだけどさ、イマイチどうしたら良いのかわかんないんだよね」
平日の夕方とあって、深大寺の境内には外国人観光客がわずかにいるばかりだった。僕らは石畳の左右に何軒も並んだ売店のうちの一つでサイダーを買い、本堂に向かって歩きながら飲んでいた。
雄太は無邪気に彼女との話を聞かせてくる。当然僕に彼女なんかいたことはないが、そんなことは気にせずに聞いてくる。その純粋さがうっとおしかった。
十段ほどの石段を上がり、「山岳淳」と書かれた額が下がっている山門を抜けると、砂利が敷き詰められた広場の先に本堂がある。僕らがいる山門から真正面の本堂までの二十メートルほどの間には、石畳の道がまっすぐに伸びていた。
「でかいなあ、やっぱ」
雄太は本堂をまっすぐ見上げていた。本堂は何本もの木造の太い柱で支えられていて、屋根には瓦が敷き詰められていた。屋根の中央から僕らの方にせり出した小さな屋根が庇のようになっており、その下に賽銭箱が置かれていた。瓦や太い木の柱が醸し出す重厚さと、その下でシミひとつなく整えられた障子の白さは、なんだか抗いがたい雰囲気があった。
「あ、やべ。財布持ってきてないから、お賽銭入れられないわ」賽銭箱の前まで来て、雄太が慌てたように言った。
「次回来た時で許してくれるよ」
僕がそう言うと、たしかにと笑って雄太は本堂に手を合わせ始めた。
広場には僕と雄太しかいなかった。二人だけが並んで本堂の前で手を合わせていた。
日差しの名残りが焼き付いた真っ赤なまぶたの裏で、僕は考えていた。
僕は雄太のことをうっとおしいと思うことがあるけど、それは雄太を嫌いなんじゃなくて、単純にうらやましいだけだ。スクールカーストのような目に見えない力にとらわれることなく、自分の本心のままに行動して、それがみんなに受け入れらえる。そんな雄太のことを心の底からうらやましく思っているだけだ。もし、雄太が僕の元から去ろうとしたら、僕は必死に止めるだろう。しかも、止めるときも必死さを見せないように、余裕がないことを決して悟られないようにするだろう。なんて小さな人間なんだろう。
鼻の奥がジクジクと熱を持ってくる感じがした。いつか僕にも彼女ができたら、きっと深大寺に来よう。そして今日の記憶を上塗りしよう。あんな小さなことで悩んでいたなと笑って話せるようになろう。
「何をお願いしたのさ」いつの間にか目を開けていた雄太が笑いかけてくる。
「空手強くなれますようにって」僕は笑って答えた。
「ウソつけよ、そんなの願うやつは練習サボんないだろ。本当のこと教えろよ」雄太が笑いながら肩をこづいてくる。
「本当だよ」僕は笑ってそう言うと、山門に向かって駆け出した。
内井一貴(東京都大田区/27歳/男性/会社員)