*

「おでこイノセンス」著者:鬼頭ちる

「ねえ。深沙堂の前でキスしたら、深沙大王様に怒られるかな?」なぜか蓮悟より、私の声が頭に響く。
「そうだね。ちょっと不謹慎かな」優しいはずの蓮悟の声に、風が無かった。忘れもしない、初夏の深大寺。
 久しぶりに髪を切った。切ったといっても、前髪を作ったのだ。そうだ、久しぶりなんてもんじゃない。もしかして、生まれて初めてだったかも。

「風奏のおでこって、キスしたくなるようなおでこだね」
 中学にあがってすぐ、初めて歩く長い廊下で、すれ違いざまにいきなり言われた。
「えっ、あの」思わず振り返る。見たこともないような美少女だった。
「あの、これはね」今度はいきなり、私のほうが話しかけていた。
「私がまだ赤ちゃんの頃、お母さんがキスがしやすいようにって、絶対前髪を作ってくれなかったの。ワンレングスは、似合う似合うって幼稚園でも小学校でも言われてきて。だから、あの」
「ふうん」と、なぜか私の名前を知っている美少女は、私が夢中で話している間ずっと、私の目でも口でもなく、おでこをじっと見つめていた。
「私、明日もう転校しちゃうの。あなたと同じクラスになりたかったな。バイバイ」
 出逢ってすぐの、お別れ宣言。私に興味があるのか無いのか。 後で聞いた話では、その美少女は女の子が好きで、私にキスしたかったらしい。もちろんおでこに。
 私のおでこは、誰かにキスされるために存在する。やっと自覚したのは、美少女との邂逅から十年後、社会人になってからだった。

「深大寺は、子どもの頃からよく来ていたんだ。父さんが母さんと大喧嘩するたびに」
 蓮悟はどこか、あの美少女に似ていた。涼し気な目元。茶色い髪とその瞳。青々とした深大寺に風が吹くと、さらさらとした懐かしさを覚えた。一瞬で好きになった。
「僕の母さんは、綺麗で真面目で良い人だとは思うんだけど、何でも我慢する癖があるんだ。人が気にしないような事もどんどん積もらせていく。そしてある日、何の前触れもなく爆発する。まあ大抵、映画やエステや旅行なんかに送り出すと機嫌が直る。薄荷みたいに、スーッとね」
 話している間、蓮悟はずっと空を見上げていたかと思うと、今度はふっと俯いて見せる。私の顔は見ない。後で、ただ照れていただけなんだと知る。
「薄荷。ミントとか、おかげで嫌いなんだ」
 そう言って苦笑いする蓮悟のシャツの袖から、今はふっと、鬼太郎の妖気アンテナのように薄荷が香った。付き合って、三度目の初夏だった。
 お父さんからバトンタッチするように、私と蓮悟はまるで儀式のように、深大寺でデートを重ねた。愛を深める、というより、この出会いへの感謝を忘れないように。
「両親が離婚してからは、ひとりで来ていたんだ。あちこちに父との想い出が隠してあるよ」 言ったそばから「あ。今の、ちょっと臭かったかな?」と頭を掻いて笑う。そんな、少しずつ意外な自分を見せてくれる蓮悟が好きだった。
 深沙堂にお参りした時は、辺りをキョロキョロ何度も何度も確認して、誰も来ない隙を逃さぬようキスをした。私のおでこに。初めて唇にしてくれたのは、寒い冬の夕暮れだった。深大寺のことは、ぜんぶ蓮悟が教えてくれた。
「ここには深大寺を開いた満功上人の、両親の恋を助けてくれた縁結びの神様がいるんだ。昭和四十三年に再建されたものだから、ちょうど母さんの生まれた年」
 蓮悟は、もうほとんど逢っていないというお母さんの話をさらりと出す。愛しているのかいないのか、私には分からなかった。

 連悟から漂う薄荷の香りにめまいがする。それでも気づかないフリをして、深大寺の境内を並んで歩く。儀式のように。
「私、ここ好きよ。こんにちは。今日も一日よろしくね」
常香楼は、この広い深大寺の中で、実は私の一番のお気に入りスポットだ。幕末の大火で焼けた梁と木鼻を撫でていると、かわいそうで、じわっと涙が滲んでくる。
「うん。そんな風奏だから好きになった」
あの時の蓮悟の言葉はもう無いと、焼け残った傷跡たちが賢明にささやいてくる。
――うん。大丈夫。分かっているよ。あなたたちは優しいね。ありがとう――
 きっと蓮悟は、もう今年のお正月にふたりで新しくしたお守りは持っていないのだろう。恋愛成就のお守りだけじゃない。鬼灯祭の時の鬼灯守りだったり、だるまだったり、お揃いで求めたものはたくさんあった。でもみんな、歩きながら想い出に変えていく。
 悲しくはなかった。お蕎麦を食べたって、蕎麦まんじゅうを頬張ったって、湧き水で淹れた美味しい珈琲を向かい合って飲んだって――。
 今、目の前にいる連悟は、みんなみんな、想い出になるためにここにいるんだ。湧き水の小川の流れがけっこう早くて、最初はほんの少し怖かった。すると蓮悟は笑って、「ここ、子どもの時に一度だけ、河童の子どもが流れていくのを見たことがある。流れに乗って、とても気持ち良さそうだった。「僕も一緒に泳ぎたい!」って河童が流れて行ったほうを指差しながら父さんに言ったら、父さんは、僕の話を馬鹿になんてしないで「父さんも流れて行きたいなぁ」って、その場にしゃがみ込んだっけ。僕も並んでしゃがんで、同じ角度で首を傾けながら、流れのずっと先まで、しばらく見つめていたこともあった。その後だ。父さんと母さんが別れたのは」
蓮悟の言葉が、まさに深大寺の湧き水のように、頭の中に自然と湧いてくる。
「こんなこと話すの、風奏が初めてだよ」
――そうね。そして最後ね。あなたがこうしてあなたを教えてくれるのは――。

 デートの最後はいつも、その日一度来たとしても、必ず深沙堂だった。
「ねえ、深沙堂の前でキスしたら、深沙大王様に怒られるかな?」初めて来た時と同じセリフをつぶやいてみる。
「怒らないよ。風奏と僕となら――」震えながら、まるで磁石と磁石をそうっと近づけるように、蓮悟が私のおでこにキスをした。
「ずっとこうしたかったんだ。これからはもう、遠慮はしない。風奏は僕のものだ」
穏やかな蓮悟の心に、火が灯ったと思った。でも今日は――違った。
「そうだね。ちょっと不謹慎かな。もう行こう」
 蓮悟もやっと、気づいた私に気づいたようだ。私たちは、ふらふらと目的も無く、それでもきっちり足並みを揃えて、不動の滝までやってきた。二匹の並んだ龍の吹き出し口から、何か言いたげな水の音が、ドクドクと私たちの体中に染み渡っていく。
 おそらく蓮悟の心の中で、湧き水がいっぱいになったのだろう。まっすぐ滝を見つめたまま、はっきりとその声は聴こえた。
「ごめん。奈穂が好きなんだ」
「うん」
 特に言いたいことはなかった。嬉しそうに話す、私の知らない人のこと。気づかないはずはない。でもまさか、通い始めたばかりの絵画教室の高校生に恋をするとは。
まるで、そっちが蓮悟の初恋みたいで、想像しただけで私まで甘酸っぱくなっていく。かたくなにおでこを隠す、たっぷりとあるその子の前髪は、きっと蓮悟がキスをすれば
たちまちほどけてしまうのだろう。

 初めて前髪を作った。生まれて初めて。
 美容院を出て、すぐバスに乗った。深大寺行のバス。深大寺とその風に、私の新しいおでこを紹介するために。「たまには隠すのもいいでしょ?」と笑いながら。
 ふと、LINEが届いていることに気づく。あ。昨日初めて話した、猫好きのあの人だ。「今、どこですか?」
「いま、深」
 揺れるバスの中で手が止まった。おでこを掻き上げながら、その名を覗き込んだ。

鬼頭ちる(東京都練馬区/女性/会社員)