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「金環を背負う帆舟」著者:神室宗介

「やっぱりここがいい」
 境内とその周辺をひとしきり見終えた幸(ゆき)さんは、山門の前で再び立ち止まった。すぐ脇には不動の滝がある。仏像を頂きに載せて苔むすように草木を生やした双頭の龍が、絶え間なく湧水を吐き出している。むせ返る夏の兆しを感じる中で、飛沫を上げる二筋の小滝は涼やかだった。柔らかい風が吹いて、山門を取り囲む草木がさざめくように揺れ、季節を先取る風鈴が彩りを添える。と思えば、砂利道を踏みしだく音が遠くから聞こえ、その爆ぜるような騒がしさにはっとさせられた。ここ最近、僕の耳は幸さんとの逢瀬によって、根本から作りかえられたように鋭敏になっていた。
 ふと、地面に落ちた笹の葉を見つけて戯れに笹舟を作った。不動の滝が流れる水路に浮かべた笹舟はしばらく進んだ後、落ち葉にぶつかって沈んでしまった。
「残念。……懐かしいね。子供の頃、川遊びでやった」
ベンチに腰掛けた幸さんはそっとサンダルを脱いで、マニキュアも塗ってない素足を水路に浸した。白く細い足に籠った熱を清流が奪い、水面の輝きがくるぶしと艶めかしく重なりあう。突然、幸さんが駄々をこねるように両足を水の中でばたつかせ、せせらぎに子供じみた雑音が混じった。六月の陽射しを散らす飛沫の眩しさに目が眩みそうだった。そんな振舞いを眺めていて、改めて可愛らしい人だなと思った。
週に一度、平日の午前九時から午後三時までの間。幼稚園児の送り迎えがある専業主婦の幸さんに許された時間はたったそれだけだ。幸さんは決して多くを語りはしないけれど、胸の中には淀んだものがある。半年間、限りある時間の中で逢瀬を重ねていくうちに井戸の底に眠る不穏な水脈に触れているような気がしていた。
「深大寺に行きませんか」
 土曜日の夕方、料理教室のレッスンの後、いつものメッセージ連絡ではなくて、幸さんから直接声をかけて来たのはそんな矢先のことだった。

僕と幸さんが出会ったのは半年前の冬。一年間同棲した彼女に見事にフラれた僕は、通勤の乗換駅の新宿でチラシを受け取った料理教室に通い始めた。それはあまりに家事に無頓着で共働きのパートナーの負担をこれっぽっちも考えずに愛想を尽かされた男の、かたちばかりの罪滅ぼしの意識からだった。
料理教室は年配の主婦から若い大学生まであらゆる世代の女性で占められていた。最初のレッスンは寒い季節にぴったりのポトフ。先生の手業を真似しようとして、手に持った野菜をぎこちなく何度も流しに転がし、挙句の果てにはピーラーで指を引っ掻いた。情けない悲鳴を上げた時、口元を手で押さえ隣で上品に笑っていたのが幸さんで、その左手薬指には金色の指輪がきらりと光っていた。毎週土曜日午後のレッスン。見知らぬ女性ばかりの気まずい空間の中で、誘蛾灯に惹かれるようにいつも幸さんの隣を陣取っていると、四回目のレッスンが終わった後に突然幸さんに声を掛けられた。下心があると間違えられたのかもしれないと焦って嫌な汗が出る。しかし、それが単なるお茶のお誘いだとすぐに分かると、自分でも笑ってしまうくらい裏返った変な声が出て、幸さんの人の良さそうな白い顔に笑い皺が浮かんだ。
「女性同士でも気を遣いあって嫌なんです。どうしても相手の家庭とか、事情とか、そんなものを探り合っているような錯覚に陥ってしまって。だからむしろ嬉しいですよ」
 いつも隣につきまとっていたことを詫びた際、紅茶を啜りながら幸さんはそんな風に語って、清原さんなら指輪もしてるし、と付け加えて僕の左指を指した。僕が苦笑いで同棲者と別れたばかりの事情を話し、左手薬指のそれが惰性でつけたままのものであることを告げると、幸さんは一転、気まずい顔で謝罪を始めた。こちらも慌てて首を横に振り、お互い同じように謝罪する鏡合わせのシンクロナイズが可笑しくて、ふとした瞬間、二人同時に蕾が花開くように声を上げて笑いあった。
三十過ぎと僕より少し年上。化粧気の薄い幸さんの笑顔は驚く程あどけなくて、魔が差すとはこんなことをいうのだろう。引き出しの奥にそっと隠された宝物を見つけたような、その愛らしさを独り占めしたい気持ちが白いシャツにこぼした染みのようにじわじわと胸に広がっていた。
「今度一緒に、どこかへ出かけませんか」
さり気なく放ったつもりの言葉に、幸さんの顔から波が引くように笑顔が消えた。しかし、伏し目がちに俯いた彼女から漏れ出た言葉は――分かりました、だった。
そうして、僕は惰性の指輪を外して週に一度仕事を休むようになった。幸さんは水の音が好きで、渓谷や池、海辺など静かな場所に行きたがった。僕から場所を提案することがほとんどで、今回のように彼女から明確なリクエストを貰ったのは初めてだった。

深大寺についてまず、本堂でお参りをした。井戸に竹筒を挿した手水舎には季節の紫陽花が活けられ、竹筒からどぼどぼと流れ落ちる湧水は痛みを感じるほど冷たかった。
「何をお願いしたんですか」
幸さんは奥二重の目を細めて家族の無病息災と答えた。でもきっと、それは嘘だ。幸さんは夫と息子とそして義母との四人暮らしで、料理教室に通い始めたのは味にうるさい義母の舌を満足させるためだ。お世辞抜きに料理上手ですよと伝えたこともあったが、幸さんは寂しそうに首を横に振るばかりだった。おまけに外資系の商社に勤めている夫は毎晩帰りが遅く、自宅で夕飯をとることなど滅多にない。薄ら寒さの残る三月の海。左手薬指のものを弄びながら幸さんが漏らした言葉をずっと覚えていた。
料理教室では朗らかに話す幸さんも、二人きりの時は言葉少なだ。逢瀬の間、会話は必要最小限にしてせせらぎや波に傾聴するその姿は、閉ざされた世界に佇んでいるようにも、自らを無限に拡散させているようにも見えて、その背中がいつも愛おしかった。
深大寺でも、国宝の釈迦如来像や見ごろの薔薇が咲き誇る植物園にも無関心な様子で、小さな祠が祭られた池や水源の湧水池、あるいは水生植物園といった水のある景色ばかりを眺めては物思いに耽っていた。地下水が湧出するように言葉が自然に流れ出るその瞬間を待って、僕はただ従者のように付き従っていた。

「仕事じゃなかったんだ」
どれくらい経っただろう。水面を大きく踏みつけて、幸さんが不意に沈黙を破った。
「ずっと、仕事で忙しいからだと思ってた。でも違った。ただの浮気だった」
自分のことを棚に上げて世話ないよね。そう言って自嘲する幸さんの瞳から零れた一滴が水面に波紋を生む。しかしすぐ嗚咽は淀み、泉が枯れるようにそれ以上涙は出なかった。胸の奥から染み出た言葉に、幸さんは苦しそうだった。
「流せばいいと思う」
その胸のつかえを取りたくて、小柄な背中を後ろからきつく抱きしめた。こうして肌を触れ合わせるのは初めてだった。湧水は絶え間なく湧き、ありとあらゆるものを押し流していく。束の間の喜びも、苦しみも、汚いものも、美しいものも。そこにあるのはただ清らかにたゆたう今だけだ。幸さんが水辺を求めた理由が今なら分かる気がした。
「ねぇ。もう一度、作ってくれないかしら」
幸さんは足元に落ちていた黄緑色の大きな笹の葉を拾いあげて僕に手渡した。先程と同じように、子供の頃に身体で覚えた感覚を頼りに笹の葉を折り、切込みをいれ、緩やかな流線型を作る。幸さんは出来上がったばかりの笹舟を愛おしそうに撫でてから、僕に背を向けてそれをせせらぎに放った。水面に浮かんだ一艘の笹舟は清流に乗って力強く前に進む。高く昇った陽の光が葉の色を反射して、笹舟から光の柱が薄っすらと昇っている。それは帆だった。笹舟は黄金色の帆をなびかせて輝いていた。
「……ところで、なんで深大寺に?」
人心地を取り戻した幸さんの横顔を見て、ずっと聞きたかったことを尋ねた。幸さんは進む笹舟を見つめ、しばらくしてから口を開いた。
「だって……深大寺は縁結びの場所だから」
 口元を押さえて小さく笑うその左手には、あるはずの金環の輝きが失われていた。
――はっと、記憶の糸を辿る。いつからその金環が外されていたのかは分からない。
水面に目を戻した。黄金色の帆に勢いをつけた笹舟はあっという間に遥か先、姿の見えないところへと流れてしまっていた。

神室宗介(東京都/男性/会社員)