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「旅立つ夏」著者: 上岡由紀男

 今年は空梅雨と言われ、梅雨明けも七月中旬前と例年に比べて早かった。梅雨が明けてからは毎日が真夏日であり、時には猛暑日を記録する日々が続いた。
 貴英と寿美子は、七月下旬のある土曜日その日も容赦のない陽射しが照りつける中、東京都調布市にある深大寺を訪ねようとしていた。以前から深大寺に行きたいと寿美子は言っており、この土曜日に境内で天然理心流の演武があるらしく、この日を強く望んだのだ。寿美子は歴史好きで、新選組の大ファンであることは、貴英も知っていた。
「天然理心流って、新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司らが修行していた流派だよね。近藤勇や土方歳三は、確かここら辺の出身だったはずだ」貴英も記憶の糸を手繰ってみる。
 深大寺に向かうバスのなか、貴英は先日居酒屋で寿美子と飲んでいた時のことを思い出していた。寿美子の夫に人事発令が出て、八月一日付で東京から北海道へ異動になるとのことだ。やはり異動となったか、その思いがまず貴英に浮かんだが、貴英と寿美子の二人の関係をこれからどうしていくのか、何らかの決断をしなければならなかった。

大野貴英は大学卒業後、大阪に本社がある教育産業に就職して、六年目を迎えていた。
福岡で二年間、大阪本社で三年間勤め、そしてこの四月から、東京勤務となったのだ。
 貴英は大阪で、当時二年付き合って結婚も考えていた彼女と、昨年の年末に別れた。彼女に他にもっと好きな人ができたとのことで、貴英はあっさりと振られてしまったのだ。
「もっと話し合いたい」との貴英の言葉に、「話しても結果は変わらないから」と彼女ははっきりと、そして少し冷たい言い方で応えた。彼女のその決定的な一言を、この時の貴英はぼんやりと、彼女とは無関係な遠くにいる誰かが発した言葉のように聞いていた。
社内恋愛であり、しばらく失恋を引きずってしまったが、気分を一新して今まで以上に仕事に取り組んでいきたい、とやっと貴英は考えることができるようになっていた。
 勤務は千代田区にある東京本社であった。貴英の異動先部署は、小学生から高校生までの通信用教材の企画開発を行なう教材企画部であった。そのチームには貴英の他に五人のメンバーがいた。その五人のメンバーの中に、栗原寿美子がいたのだ。
 リーダーは岩瀬という四十歳過ぎの小柄で無口な方であり、寿美子が唯一の女性メンバーであった。貴英を除く五人は既婚者であり、貴英がチーム最年少であった。
 寿美子は、今年二十八歳になる貴英より三歳年上で、どうやら子供はまだいないようであった。女性としては身長が高く、たっぷりとした黒い髪の毛は後ろでまとめたり、下ろしていたりすることもあったが、どちらでも寿美子には良く似合っていた。表情も生き生きとしていて、その笑顔は思わずいつまでも見つめていたくなる程魅力的であった。
 貴英は岩瀬の指示で、寿美子と一緒に仕事を進めることが多かった。自然と寿美子と話をする機会も増えた。いつしかプライベートのことも話もするようになり、貴英は去年別れた彼女のことも打ち明けていた。寿美子はちょっと困った顔をして、「それは辛い経験だったね」と一言添えるだけであったが、貴英にはそれでもう充分であった。
昼食は外食する者もいたが、多くは社内でお弁当かコンビニで買ってきたもので済ませていた。寿美子はいつも栄養バランスを考えて、きっちりとお弁当を作ってきていた。
「大野さん。いつもお昼軽くすませているようだけど。朝や夜はしっかりと食べているの?」貴英は、昼はコンビニでお握りを買うか、あまり食欲がない時は、カロリーメイトなどの栄養補助食品で済ませてしまうこともよくあった。
「朝はめったに食べないかな。夜はほとんどお酒を飲んでいるよ。一人で居酒屋や蕎麦屋なんかでね。お酒好きだから」
 寿美子は少し眉根を寄せた。貴英の食生活を心配していたのだ。ただその時はそのことに深く触れず、「主人は飲まないけど、私はお酒大好きよ」と言うだけであった。
 それから暫くして、二人で居酒屋に行くことになった。二人にとって、楽しい時間の共有となった。寿美子が貴英を居酒屋に誘ったのは、食生活にあまり関心を示さない貴英にきちんとバランス良く食べて欲しかったからだ。その思いは貴英にも充分伝わっていた。
 代々木で飲んで、二人で総武線に乗って帰路に向かったが、寿美子と出会えたことは、貴英に喜びだけでなく、それ以上の不安と戸惑いももたらした。東京に出てくる時、失恋を乗り越え、仕事に全力で打ち込む決心をしていたのではないか。いま貴英は、急速に寿美子に魅かれつつある自分を意識していた。寿美子はしかも既婚者である。だがもう寿美子への思いは、貴英の上っ面だけの理性ではどうにも抑えられなくなっていた。
貴英が東京に出てきて間もなく七か月になろうとしていた。十月末の土曜日の昼間、どうしても手料理を食べて欲しいという寿美子の誘いで、貴英は寿美子のマンションを一人訪ねた。月の半分は出張と言うご主人は、土日は関西に出張のようであった。
料理もお酒もすごく美味しかった。最初お互い真向いでお酒を飲んでいたが、時間が経つと、寿美子が貴英の隣に座ってお互い壁に背もたれして飲むようになっていた。その日寿美子はキャロットスカートをはいていた。まっすぐ伸びた白い足が貴英にはまぶしかった。手を伸ばせばすぐそこに寿美子の肩に触れることもできる。このまま手を伸ばしたら、寿美子は受け入れてくれるだろうか。それとも…。貴英は酔った頭で、そんな想像をめぐらせた。それを知ってか知らないでか、寿美子は笑いながらワインを口にしている。
「そろそろ帰るよ。あまり長居もできないし」貴英は意を決したかのように、腰を上げた。寿美子は、「分かった。ちょっと送るね。とっても楽しかったよ」と応じた。マンションは五階建てで、寿美子は最上階に住んでいた。下りのボタンを押し、ドアが開いた。貴英が最初に乗り、開くボタンを押しながら寿美子を向かい入れた。その時貴英は軽く寿美子の腕を引いたが、寿美子はそれを弾みにするかのように、貴英の胸に飛び込んできたのだ。思わず貴英は両手で寿美子を抱きしめていた。そしてそのまま寿美子の口に自分の口を押し付けていた。何秒口を合わせていただろうか。長い時間のようでもあったし、ほんの数秒であったかも知れない。一階に着くまで、貴英は寿美子を強く抱きしめていた。
 貴英と寿美子は定期的に飲むようになっていた。二人で北陸と東北へ旅行にも出かけた。
「今は一番貴英君のことが好きだよ。もう貴英君のことしか考えられない」
旅行で金沢に泊まった夜、寿美子がポツリと打ち明けた。貴英は何も言わず、寿美子を強く抱きしめた。その日が貴英と寿美子にとって、初めての夜となった。
(もう寿美子と離れることはできない。例え許されない恋だとしても…)寿美子を抱きしめながら、貴英はそう決心していた。夜空を見ると、冬の満月が二人を淡く照らしていた。

深大寺の宗派は天台宗であり、都内では浅草寺に次いで歴史が古い。境内は緑が多く水路も整っていて、夏に訪れても境内全体が涼やかな印象を受けた。敷地内の本堂や釈迦堂などを、二人は時間もゆっくり流れているような心地良さを感じながら、歩いて回った。
 深大寺は厄除けとして知られているが、縁結びの寺としても有名であった。恋にまつわるたくさんの絵馬が奉納されていた。参拝にあたって、寿美子は合掌しながら丁寧に一礼をし、お願いごとをしていた。目をつむり、いつもより少し固く口を結び、両手を軽く合わせてお願いごとをしている寿美子の横顔を、貴英はそっと覗き込んだ。
(縁結びのお寺で、いま真剣に寿美子がお願いごとをしているのは、ぼくとの未来のこと?)そんなことを考えながらも、貴英もある決意を手を合わせながら固めていた。
 天然理心流の演武を見た後、二人は遅い昼食のため、蕎麦屋に入った。そこでお酒を飲み、結局二時間近くいることになってしまった。蕎麦屋を出ると、たちまちムッとする熱気が体を包み込んだ。もうすぐ四時だというのに、まだまだ暑い。バス停に向かって歩き始めると、寿美子が自然に腕を組んできた。触れ合う腕や肩を通して、ぬくもりが伝わってきた。そのぬくもりに、寿美子の愛情を貴英ははっきりと感じることができた。
 寿美子と出会って、一年四か月の月日が流れた。仕事に打ち込み、寿美子と多くの時間を共有した日々は、貴英にとっていつまでも色濃く印象に残るはずだ。小学生時代、充実したかけがえのない夏休みを過ごした子どものように。寿美子は既婚者だから、寿美子と結婚するということは歓迎されるばかりではない。それどころか特に寿美子の配偶者とのことを考えると、暗澹たる気持ちになった。だが二人の前に立ちはだかる困難には、できるだけ誠実に立ち向かっていこう。その困難の多くを自分が引き受け、寿美子を守っていこう。貴英はそんなことを考えながら歩いていた。繋いでいた寿美子の手をいつもより少し強めに握りながら…。
蝉の鳴き声を背に受け、貴英と寿美子はしっかりとした足取りで、お互いの思いを抱きしめてバス停までの道を歩いていった。

上岡 由紀男(千葉県市川市/64歳/男性/会社員)