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「さるべき業縁のもよおせば」著者:有薗花芽

 彼女は妊娠していた。
 ギョッとするほど大きくせり出したお腹を目にしたとき、私が思わず嫌悪感で顔をゆがませながら、「いやだ」と口にしてしまったのは、何も私が人でなしだからではない。
 てっきり赤ん坊の父親が、彼女の訴訟相手だった塾長だと勘違いしたからだ。
 ちょうど半年前に彼女は、私が働いている調布にある学習塾から姿を消した。前職は飛行機の客室乗務員だったという彼女は、そこでは英語講師をしていた。突然の退職のあと、彼女は塾長からセクハラがあったとして、慰謝料を求める裁判を起こしたのだ。
寝耳に水だった会社は上を下への大騒ぎになり、生徒や保護者には決して知られぬようにと、かん口令が敷かれた。慢性の人手不足のおかげで、塾長はなんとかクビだけは免れたものの、運営本部からは厳しく叱責され、減給にもなった。
 私は事務職員で、セクハラこそされなかったが、塾長からのパワハラめいた発言や不愉快な態度は日常茶飯事だったので、裁判に負けて慰謝料五十万円を支払ったのだと聞かされたときには、胸のすく思いがした。塾長の奥さんと中学生の子ども二人には気の毒だったが、さぞ家庭でも針の筵だろうと想像すると、ついほくそ笑まずにはいられなかった。
たしかに塾長は仕事のあと、よく彼女だけを飲みに誘っていた。二人で肩寄せあって出て行く姿を、私は何度も目撃している。彼女はそれをセクハラだったと訴えたのだ。だが、むしろ彼女はこれ見よがしに、自分だけがおごってもらえることを吹聴していたのではなかっただろうか。はたして、二人の間に実のところ何があったのかは……知る由もない。
 訴訟騒ぎが一段落したころ、突然彼女からメールが来ておどろいた。
 半年前にセクハラ裁判で被害者側の証人になって欲しいと頼まれ、私はそれをすげなく断っていたから、以来、彼女には敵認定されているものとばかり思っていたのだ。「久しぶりに、お昼に深大寺の蕎麦でも食べに行かない?」というメールを読みながら、私はその行間から虚をつくように、恨みの念でもドロリと出てきやしないかと怪しんだ。
「じゃあ、仕事が休みの平日に」と返信したのは、ひとえに好奇心が勝ったからだ。うまく話を聞き出せれば、会社の飲み会で肴にするにはうってつけだし……それに、不愉快千万な塾長の弱みを握っておくのも悪くない、という魂胆もあった。
「いやだ、ちがうわよ」と彼女は私を叩くふりをして、はじけるように笑った。
「ちがうって、じゃあ……?」とお腹を凝視したまま口ごもる私に、彼女は明るく言った。
「退職したあと、結婚したのよ。私、大きな声じゃ言えないけど、夫とはずっと不倫関係だったの。それで、つきあっていることは誰にも内緒にしてたのよ」
 開いた口が塞がらなかった。
「……おめでとう」という言葉を、私はなんとか絞りだした
「アハハ、ありがとう」と彼女は大きな口を開けて、くったくなく笑った。
「私も今年、三十八だからさ。ずっと不倫してたし、もう結婚も子どもも無理かな、なんてあきらめてたんだけど、なぜか退職した途端に彼の離婚がとんとん拍子に進んで、妊娠してることもわかって……塾長からは、ご祝儀がわりの慰謝料五十万円もいただけたし、ホント、一気に人生の春がきたって感じよ」
彼女の言葉は私の胸にグサリと突き刺さった。私は彼女と同い年で、数年前に元彼と別れたきり、恋愛の気配すらなかったからだ。ひとつ年下だった元彼は徹底した「割り勘」主義で、よほどの記念日でもなければおごってくれない人だった。つき合っていたころはデートから戻る度、母親から「今日も割り勘?」と非難がましく聞かれるのが嫌でたまらなかった。まるで「愛されてないのね」とでも言われているようで腹立たしかったのだ。
「で、会社であいつ、今どんな感じ? 意気消沈してる? 社長から何か言われてた?」
 なるほど、と、私はここでようやく腑に落ちた。彼女はどうしても、自分が与えたインパクトの大きさを知りたかったのだろう。妊娠中だというのに、母親がこんなドス黒いことばかり考えているのは、お腹の赤ちゃんに悪影響じゃないんだろうか……と、半年にしてはやけに大きく見える彼女の腹部に目をやりながら私は思った。
「うん、だいぶ参ってるわね。なにせ減給されたし。社長からは、次に何か問題を起こせば即クビって言われてるし」
「ほっほーう。いいわねえ」と彼女はまるで胎児と喜びあってでもいるかのように、ポッコリとしたお腹を両手でさすりながら、「ここに入ろうか」と深大寺の山門に近い、趣のある蕎麦屋の前で立ち止まった。人気の店らしく、平日でも店の前には行列ができていた。
「いらっしゃいませ、あら!」と、出迎えてくれた中年の女性店員はおどろいたように目を見開いた。彼女が妊婦だからかと一瞬思ったが、どうやら顔見知りだったようだ。
「いやだ、赤ちゃんができたの?」と店員さんは目の両端に優しい皺をつくってたずねた。
「そうよ、私、結婚したの」と彼女は得意げに言った。それから私にむかって小声になると、「何だってみんな私の大きなお腹を見ると、まずは決まって『いやだ』って言うのかしらね」とわざとらしく鼻を鳴らした。
 まずは入り口で、彼女は一番シンプルなもり蕎麦の大盛を、私は温かいきのこ蕎麦を注文し、お会計を済ませた。開放的なテラスの座敷に私は心をひかれたが、彼女は、今日はちょっと肌寒いし椅子のほうが楽だからと、店内のテーブル席を選んだ。そして、つわりのときは、それこそ無性に蕎麦が食べたくて、いつもインスタントのカップ蕎麦を大量に買いこんでいたのだと、先に出されたお茶をすすりながら話した。
「この蕎麦屋にもね、一緒に来てたのよ」
つわりの流れでそう言ったので、私はてっきり結婚してからの話だと思った。
「旦那さんと?」
「ちがうわよ、塾長と。平日が休みの昼に呼び出されて……生徒のことで相談があるって」
「断ればよかったのに」と私が言うと、彼女はそれには答えずに言った。
「そのときも、この店で蕎麦を食べたの。そのあと、ちょうど桜の季節だったから、神代植物公園でお花見をしようって言われて、一緒に歩いたわ。しだれ桜が体を包みこんでくるぐらい満開で、そのまま大量の桜の花に、飲みこまれてしまうんじゃないかと思った」
「いやだ。まるでデートじゃない」
「フフ、でね、そのあとすぐ妊娠したのよ」
「いやだ、思わせぶりな言い方しないで。塾長とはそういう関係じゃなかったんでしょ? 不倫とはいえ、そのときほかに、つき合ってた人がいたんだから」
彼女は私の目をまっすぐに見つめて、力強くうなずいた。
「ええ、そうよ。……ねえ、今日、ここで私と一緒に蕎麦を食べたこととか、私がもう結婚して妊娠していることとか、ちゃんと社内に広めておいてね。私が塾長との痴情のもつれで裁判を起こしたなんて、みんなに思われるのは癪だから」
 そんなの、もうとっくに思われてるわよ……と、私は心の中で舌打ちした。
彼女が本当は塾長のことを好きだったんじゃないかというのは、社内でもっぱらの噂だった。結ばれない腹いせに、せめて塾長の心に爪痕を残そうと、あんな裁判を起こしたんじゃないかというのが大方の見方だったのだ。きっとこの蕎麦屋にだって、何度も二人で来たに違いない。そうでなければ、店員さんと顔見知りになるはずもない。
「このあと、植物公園に十月桜を見に行かない? 『子福桜』がちょうど見頃なのよ」という彼女の誘いに、私は首を横に振った。もう、じゅうぶん、お腹いっぱいだった。
 翌日、私は彼女との約束を律儀に守った。ほかでもない当の塾長に、彼女と深大寺の蕎麦屋へ行き、彼女はもり蕎麦の大盛を食べたこと、結婚して、もうお腹に子どももいることを、つぶさに報告したのだ。迷惑そうに私の話を聞いていた塾長は、最後に「へえ」と気の抜けた返事をひとつだけした。だが、終始その視線が定まらなかったことも、もう二度と元には戻らなさそうな深い皺が眉間に刻まれたことも、私は見逃さなかった。
自分が与えたダメージに満足して、私は席に戻った。事務机の一番上の引き出しを開け、厄除け開運のお守にそっと触れてみる。彼女と蕎麦屋で別れたあと、深大寺で受けてきたものだ。私の目には悪魔にしか見えない角大師の姿が、それにはあしらわれていた。
 彼女から双子の赤ちゃんが生まれたとメールがあったのは、それから数か月後のことだ。あんなに結婚を喧伝してたくせに、シングルマザーになったのだと朗らかに書かれていた。
 すでに塾長は離婚し、職場からも姿を消していた。空っぽになった塾長の机は私に、歎異抄の「さるべき業縁をもよおせば、いかなるふるまいもすべし」を思わせた。「いかなるふるまいも」してきた結果、みんな今に至っているのだと思った。そして、ああ、私だって、母親の言葉になんか耳を塞いでいれば、今ごろは元彼と……と、天をあおいだのだ。

有薗花芽(大阪府)