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<第4回応募作品>「これまでのこと、これからのこと」 著者:森 香奈

連日三十度を超す真夏日だった。貧乏学生のぼくが住む三鷹のおんぼろアパートは、クーラーの効きがいまいちで常に暑い。
それに比べここ深大寺は、いつでも不思議と涼しさを感じさせる。それは神秘的ともいえる、内なる静けさに故のあるような気がしてならない。
緑の多いこの界隈の景色が好きで、ぼくは自転車を漕いで往復三十分の道のりを、月に幾度かやってきていた。むろん、この近くに住む美里さんと知り合ってからは、理由はそれだけではなくなってしまったのだが――。
ぼくは二年前に入学祝いとして親父に買ってもらった一眼レフを、境内に立つナンジャモンジャの木を仰ぎ見るように構えてみた。完全な夜にはまだ早いが、空は徐々に光を失いつつあるようだった。鳴き声から何匹かの蝉を探すように、ぼくはレンズの向きを動かしながらファインダーを覗いていた。
とそのとき、誰かがぼくの肩をとんとんと叩いた。振り向くと、美里さんが笑いながらぼくの頬に人差し指を立てていた。
「ちょっ、恥ずかしいからやめてくださいよ」
「だって、ぜんぜん気づかないんだもん」
美里さんは、辺りに二十数軒がひしめき合う、名物の深大寺蕎麦を食べさせる店で働いている。
ぼくたちはこの深大寺周辺でよく会っていた。けれど、それは決して恋人としてではなかった――ほんのつい最近までは。

美里さんと初めて出会ったのは、ちょうど一年前の八月、野川の灯籠流しでだった。
闇にぼんやりと浮かんで流れる千基近くの灯籠。それぞれに想いを乗せてゆらゆらと運ばれていく、その幽玄な儀式を写真におさめようと、ぼくは出向いたのだった。
宵闇迫る野川で、読経や御詠歌、雅楽の調べを聞いていると、なんだか俗世の些事がばかばかしくなってくるほど、ぼくは厳粛な気持ちに包まれた。
あまり風のない夜で、なかなか流れていかない灯籠は、まるで現世に想いを残す死者の魂をそのまま表しているようで、ぼくはやるせなさに身を締め付けられながら、夢中でシャッターを切り続けた。三脚を持ってくればよかったな、と思ったが後の祭りだった。
その帰り道、見物客で雑然とする御塔坂橋を歩いていると、ひとりの女性とぶつかった。拍子に、持っていた携帯電話を取り落とした。
「ごめんなさい!」
 ……美しいひとだった。ぼくよりいくつか年上に見えた。やわらかにうねる臍まで届きそうな長い髪が、華奢なからだをなぞるように覆っている。ノーブルな顔立ちは、そのTシャツにジーンズというラフな服装には似つかわしくないほどだった。
「あ、いえ、こちらこそ……」
 ぼくはどぎまぎしながら傍に落ちていた電話を拾い上げ、一礼すると足早にその場を去った。停めていた自転車に飛び乗り、フルスピードでペダルを漕いだが、先ほどの彼女の残像がまぶたにちらついて仕方なかった。
アパートの近くまで帰ったとき、カーゴパンツのポケットで電話が振動しているのに気づいた。マナーモードにしてたかな、と訝しがりながら出てみると、驚いたことに相手は橋でぶつかったあの彼女だった。
「私も携帯落としちゃったんだけど、どうやらあなたのと機種も色も同じだったみたい」
ストラップのついていない黒い携帯電話は、あのとき取り違えられてしまったらしい。
慌てて取って返したぼくらは、無事に電話を交換した。でもなんだかこれっきりになってしまうのが口惜しくなり、ぼくは一方的にしゃべる形で三十分ほども立ち話をしたあと、強引に連絡先を交換してもらったのだった。彼女は美里さんといって、思った通りぼくより六つ年上だった。
それからは、大学の講義やサークル活動、ガソリンスタンドのバイトの合間を縫っては、写真を撮るために、もとい、美里さんに会うために、以前にも増して深大寺付近にやってくるようになった。ときどきは美里さんの働く店で、蕎麦に舌鼓を打ったりもした。
最初は戸惑っていた美里さんだったけれど、徐々に打ち解けてくれて、ぼくらはいろんな話をするようになった。好きなものについて、嫌いなものについて、おもしろかったことや、子どものころの話……いくらでも尽きることがなかった。深大寺、神代植物公園、深大寺城跡、カニ山など、この辺り一帯はぼくらの定番デートコースとなった。季節の移り変わりとともに、ぼくの写真におさまる植物は、彼岸花、金木犀、山茶花、梅、桜、紫陽花へと変わっていき、百日紅の花が見ごろになる、美里さんと初めて出会った夏になるのはあっという間だった。
でも、ただそれだけだった。
ぼくらの関係は決して恋人同士ではなく、どちらかというと姉と弟という感じで、その一線を越えることは絶対になかった。美里さんの、ここから先は進入禁止、という目に見えないバリアによって阻まれていたというほうが正しいかもしれない。もどかしくはあったけど、ぼくは彼女の気持ちを尊重したかったから、決して無理をしようとはしなかった。いや、実際は、彼女に嫌われてしまうかもしれないことがこわくて何もできなかったのだ。
それなのに――。
八月に入ってすぐのあの日、ぼくはどうかしていたのだ。なぜだか日増しに美里さんが心ここにあらずとなっていくようで、焦りと不安がマグマのようにぼくの奥で煮えたぎっていた。何かあったの、と訊いたところで、首を横に振るばかりの彼女に苛立ってもいた。
雲の多く残るどんよりとした夜空の下、学友と飲んだ帰りで、ぼくは泥酔していた。勝手に美里さんのマンションの下まで押しかけると、携帯電話で彼女を呼び出した。
何事かとすぐに表に出てきてくれた美里さんを、いきなりぼくは乱暴に抱き寄せた。
「やめて!」
結果、必死にもがいて抵抗する美里さんを転ばせてしまい、肘に怪我をさせてしまった。
ぼくはよろよろとその場にしゃがみ込んで嘔吐した。みっともなくて涙が出た。いっそ自分の存在を消してしまいたかった。どこをどう帰ったのかも思い出せない。翌日目覚めるとすでに遅い午後で、ぼくは自己嫌悪で何度も枕に自分の頭を叩きつけた。
あれから一週間余り、美里さんからは何の連絡もなかった。当然こっちから電話などかけられるはずもなく、ぼくはどん底まで落ち込んだ。ろくに食事も喉を通らず、周囲が心配するほどぼくは一気にやつれたようだった。
もう絶対終わった。そう思っていた矢先、ふいに美里さんから電話がかかってきた。
「明日の夕涼みの会、いっしょにいかない?」
 夕涼みの会は、深大寺参道で行われるイベントで、確かコンサートなどの催し物もあるちょっとした祭りのようなものだ。ぼくに断る理由などあるはずもなかった。
いつもなら人もまばらになる深大寺の夕暮れ、この日ばかりは多くの人で賑わっていた。金魚すくいやヨーヨー釣り、綿あめなんかの夜店が並び、無性に郷愁をくすぐられる。
美里さんは仕事帰りなのに、わざわざ浴衣に着替えていた。紺地に白い花が描かれた粋なもので、それはとても彼女にしっくりと似合っていた。普段は隠れているうなじが思いのほか白くて、ぼくは照れとこの間の気まずさから、足早に彼女の前に立って歩いた。からころと美里さんの下駄の音も速くなった。
ぼくたちはどちらもずっと無言で、人ごみを避けるように本堂の裏手へと進んだ。
沈黙を破ったのは美里さんのほうだった。
「私ね、むかし……婚約者がいたのよ……三日前は彼の命日だったの」
 美里さんはぽつりぽつりと静かに話した。
高校生のときからつき合っていた彼氏と結婚の約束をしていたこと、その彼が七年前に交通事故で亡くなったこと、直後に発覚した妊娠と流産、月日を追うごとに彼との思い出が風化することへの憂い、そして新しい恋をすることの罪悪感――。
「でも、あなたと出会ってからようやく、一歩踏み出す勇気が出たの。もしかしたらあなたともう二度と会えないのかもしれないって、そう考えたら、はじめてこたえがみえてきた……。こんな私だけど、全部受け入れてくれるのなら、よかったらこれからも……」
 ぼくは無言で美里さんを抱きしめた。今度は美里さんもぼくの背中に手を回してくれた。

「そろそろいこうか」
今日は野川の灯籠流しだ。年毎、亡くなった彼のご両親が戒名を入れた灯籠を流しているのだという。
「毎年ね、彼の命日が近づくと決まって心がざわついた。でも、過去に囚われて今をなおざりにするのは、間違ってるよね。過去は過去として、大切な思い出として、ずっと心にあればいいんだよね」
 野川に着くと、ちょうど灯籠流しが始まっていた。色とりどりの灯籠は、ゆらゆらと厳かな光を放ちながら水面に浮かんでいる。
またも三脚を忘れてきたぼくは、必死でカメラを安定させながらシャッターを切った。
ときどきカメラに熱中しているふりをして、美里さんの横顔を盗み見た。けれど心の中までは見ることができない。
正直、自信なんてなかった。それでも、ぼくは美里さんと歩んでいきたい。これが正真正銘の気持ちだ。今が過去の積み重ねならば、未来は今の積み重ねなのだ。そうやってやっていくしかない。
視線に気づいた彼女がそっと微笑んだので、ぼくは慌てて川面に向かいカメラを構え直した。

森 香奈(大阪府堺市/37歳/女性/会社員)

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