<第4回応募作品>「ソバとショカ」 著者: 松岡 由希子
「もりそば二丁!」
「かけ大盛り、ざる一杯、入ります」
僕はひたすら、蕎麦を湯に入れる。、蕎麦のストックもなくなってきた。隣の作業場で親方が打った蕎麦を調理場に移す。只今、木曜日の午後十二時十五分。深大寺の参拝客が昼食にやってくる佳境の時間。息つく暇もなく、蕎麦を湯に入れ、茹で上がったものを次々と食器に盛っていく。
「もりそば、お願いします!」
店にいるおかみさんに僕が声をかけると、もりそばを両手に抱えながら、
「ごめん。テラス席の食器、片付けに行ってくれる?私、ちょっと手が回らないのよ。」
おかみさんもてんてこ舞いだ。僕は調理場から出て、テラス席のテーブルを片付けていた。
「あの、すみません。ここいいですか?」
後ろから声が聞こえた。
「どうぞ。今、片付けます。」
そう言って僕が振り返ると、若い女性が立っていた。長い黒髪をきちっと束ね、色白で小顔な細身の女性。僕はその女性の凜とした美しさにしばし我を忘れたが、次の瞬間、何もなかったかのように、彼女が座るテーブルを片付けた。
「今、お水とメニュー、お持ちします。」
「メニューは結構です。もりそば、いただけますか?」
「承知しました。冷たいお水、今、持ってきます。」
僕は店に戻り、彼女の水をコップに入れる。普段の接客と同じことをしているはずなのに、なぜかどきどきする。僕はグラスの水を彼女のテーブルに運び、調理場に戻った。次々入ってくる注文のことは上の空。気がつくと、僕はデッキ席の彼女を眺めていた。
只今午後二時三十分。蕎麦屋の嵐のようなランチタイムが終わり、休憩に入るのはいつもこの時間。僕は、深大寺の境内のベンチに座り、缶コーヒーを一口飲むと、広く多い茂った緑を眺め、大きく息を吸った。ここにくると、心が穏やかになり、自然と活力が蘇る。僕のいつもの休憩タイム。そのとき、少し離れた隣のベンチに、誰かが座る気配を感じた。さっき、蕎麦屋のデッキ席でもりそばを食べていた女性、凜とした美しさに僕が一瞬心を奪われたあの女性が、隣のベンチに座っていた。僕は勇気を振り絞って声をかけた。
「先ほどは、どうも」
彼女は一瞬、ぽかんとして僕を見ていたが、
「あ、さっきのお蕎麦屋さん?こちらこそ、ごちそうさまでした。もりそば、美味しかったです。」
彼女は笑顔で答えてくれた。
「今まで拝観ですか?」
「いえ、写経教室です」
シャキョウ?僕は意外なワードに一瞬、面食らった。
「写経だなんて、渋いですよね。でも、はじめてみたら、すごくはまっちゃって。お経の文字をただ書いていくだけなんですけど、癒されるというか、落ち着くというか。」
彼女は笑って言った。
「じゃあ、僕が毎日ここでこうやってぼーっとしているのと、同じようなものですね。」
僕は笑い返した。
「僕はここに来ると落ち着くんです。田舎を思い出します」
「田舎?」
「長野です。戸隠っていう蕎麦の産地で、僕の実家、蕎麦の実を作ってるんです」
僕は聞かれてもいないのに、無意識のうちに自分のことを話していた。
「長野は、空気も水もきれいです。だから、美味しいそばが獲れるんです。実家の蕎麦もうまいんですよ。あの蕎麦屋に実家の蕎麦を入れさせてもらっていて、そのツテで、僕は三年前からあの店で蕎麦の修行を。」
「素敵ですね。きっと立派な蕎麦職人になられますよ。」
そう話す彼女の横顔は、凜として、優しくて、美しい。
「そろそろ行かなくちゃ。」
彼女の声でふと我に返る。彼女とは、こんな風に偶然に会うことなど、もうないかもしれない。
「写経教室にはしょっちゅう来られているんですか?」
僕は冷静を装いながら、次、彼女と会う機会を探る。
「ええ。写経教室は毎週木曜、やっているんです。私もしばらく通ってみようかなって。」
「だったら、また、うちの蕎麦、食べにきてください。」
僕は必死だ。
「もちろん。あのお蕎麦、本当に美味しかったですもの。また伺います。」
彼女は微笑んで、去っていった。
僕は、その後ずっと、あのときの彼女の横顔が忘れられなかった。正確に言うと、どんな顔立ちだったのかはぼんやりとしか覚えていない。ただ、あの凜とした美しさは僕に強烈なインパクトを残しており、気がつくと、そんな彼女の面影を自分の心に刻もうとしているのだ。
「最近、なんだかぼーっとしているね。好きな女の子でもできたのかい?」
蕎麦屋のおかみさんにも冷やかされっぱなしだ。僕は、写経教室があるという次の木曜日が待ちきれなかった。彼女にもう一度会いたい。名前も、歳も、どこに住んでいるのか、何をやっているのかも知らない彼女に。しかし、次の木曜日も、その次の木曜日も、彼女は僕の前に現れなかった。
彼女と初めて会ったあの日以来、もう1ヶ月近くが過ぎようとしている。最近の僕は、すっかりあきらめモードだ。そんなある日の正午すぎ、蕎麦屋はいつものとおり、お客さんでごったがえしていた。
「ごめん。デッキのテーブル、片付けてきておくれ」
おかみさんに言われ、彼女が初めて店に来たときと同じように、僕はテーブルを拭いていた。
「すみません。ここ、いいですか?」
僕の背中越しに、かすかに覚えのある声が聞こえる。振り返ると、そこには、凜とした美しい彼女がいた。
「あの、ここ、いいですか?」
呆然として何も返事をしない僕に、彼女はもう一度、そう言った。
「あ、どうぞ。」
やっと我に返った僕に、彼女は少し笑かけながら、こう言った。
「もりそば、お願いします。」
僕は調理場に戻ってからも、興奮気味だった。
これは現実なのか?あの女性が彼女だとして、僕のことを覚えているだろうか?彼女とまた会えた興奮と同時に、たくさんの不安が僕の頭をよぎる。しばらくしてデッキに目をやると、彼女は、自分がオーダーしたもりそばを美味しそうに食べている。僕はそんな彼女をしばらく見つめ、やっと意を決した。今だ、今しかない。
もりそばを食べている彼女のもとへ、僕はつかつかと歩いていった。
「あの・・!!」
僕の唐突過ぎる声は、店中に聞こえるくらい大きかった。彼女の箸は蕎麦を口に運ぶ手前で止まっており、面食らった顔で僕を見上げている。
「あ、すみません、お食事中なのに。」
僕は、恥ずかしさで、頭は真っ白、顔は真っ赤だ。すると、彼女は、
「また、もりそば、食べにきちゃいました」
茶目っ気たっぷりに笑った。僕のことを覚えていてくれたのだ。うれしさと安堵で、僕のひざは崩れそうだ
。一息ついて、少し落ち着こう。僕は大きく息を吸って、こう言った。
「僕、2時半に、境内のベンチで待ってます。前、お会いした、あの場所で。」
緊張でパニック気味の僕を見る彼女は笑顔だった。
「はい。写経教室が終わったら、立ち寄りますね」
只今、午後二時二十五分。境内のベンチで、いつもの缶コーヒーを片手に、僕はかなり舞い上がっている。
「お待たせしました。」
僕の背中からあの声がした。彼女だ。僕は、平静を装って、こういった。
「しばらくお会いしていませんでしたよね。」
「写経教室、さぼっちゃってましたから。仕事でニューヨークとロンドンに。個展をやっていたもので。私、これでも一応、書家の卵なんです。」
ニューヨーク?ロンドン?ショカ?
僕と彼女は別世界だ。蕎麦屋の修行小僧とショカでは、格が違いすぎる。
「なんか、すごいですね。すごすぎて、僕にはよくわからない世界です。」
ショックさめやらない僕は、やっとその一言を発する。すると、
「私にもぜんぜんわからない世界です。」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「写経のほうがずっと楽しいです。何も考えずにただ文字と向き合えるのが。だから、日本に帰ったら、真っ先にお蕎麦を食べて、写経に行こうって。それだけを楽しみに、仕事してたんですよ。」
彼女の笑顔が、僕にはまぶしくて、うれしくて、愛おしくてたまらない。もっと彼女のことを知りたい。僕のことも知ってほしい。そんな感情がどんどん湧いてくる。
そのとき、僕は、はっきりわかった。僕は、彼女に恋をした。
松岡 由希子(東京都世田谷区/35歳/女性/自由業)