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<第4回応募作品>「彼女はそこにいた」 著者:Saki

十年ぶりの深大寺だるま市。ぼくは、境内に続く山門に立ち、深く息を吸った。梅の花が香ってくる。右手にだるま、左手は恋人のアイの手とつないでいる。ぼくたちはこの秋、結婚する予定だ。
今日はだるまの右目に、梵字で「吽(うん)」を入れてもらうために来た。ほんとうの恋の成就。その願いが叶ったから。左目には、十年前に書き入れてもらった「阿(あ)」の字が入っている。本堂奥の元三大師堂に足を向けながら、十年前を思い出していた。アイと出会う前の、ぼくが二十歳だったときのこと。今でも時々思う。あれは、現実だったのだろうか。

彼女はそこにいた。
新宿の雑踏に立ち続ける彼女を初めて見たのは、東京に出てきてほどなくだった。
彼女のまわりだけ、時間も季節も止まっていた。いつの時代のものなのかわからない、枯れ草もようの薄緑と茶色のストールを細身の体にきっちりとまきつけ、自分を抱きしめるようにきつく両ひじをつかんで、うつむいて、でも毅然と立っていた。
年齢もわからなかった。肩までのまっすぐな髪に、よく見ると老婆にも、少女のようにも見える、時代錯誤な眉山のきりりとした化粧をして、はかなげな目が孤独を湛えていた。
 ストールのせいでなのか、いつでも彼女のまわりにだけ晩秋の空気が漂っていて、見ているとたまらない淋しさがこみ上げた。
東京に出てきて二年、大学生活にも慣れてきた三月だった。
「あっ、またいた」
合コンに急ぐ駅の地下道で、テニスサークル仲間のシュウがささやいた。彼女だ。
「ああ、あの人、いつもあそこにいるよな」
「知らねえのか?有名な話。あれ、売春婦らしいってウワサだぜ」
シュウはニヤリとして言った。
「あそこで立って、客待ちしてるらしい。なんか怖ええよな」
「ふーん」
 なごり雪が降ったばかりだったけど、さらに冷え込んできた気がして、ぼくは足を早めた。
 東京に出て下宿生活を始めれば、たちまちカノジョができて、とバラ色の学生生活を想像していたのに、恋愛しても一ヶ月も続かない。仲間には、ドライで冷たい男だといわれてるらしい。最近はもう、合コンに行ってもひたすら飲んでばっかりだ。
「…ねえ、飲みすぎたの」
肩をゆすられて気づいた。地下道で寝転がっていたらしい。心地よいアルトの声の主をさがす。「彼女」だ。やっぱり、間近で見てもトシがよく分からないな。
「大都市は冥界よ」
酔っ払ってるのに、その奇妙なフレーズはぼくの頭にハッキリと焼きついた。それで、なんとなく聞いてしまった。
「あの、なんでいつもここにいるんすか」
「人を、待ってるの」
「誰を?」
「婚約者よ。約束したの。待ち合わせ」
「待ち合わせ?」
「深大寺に行くの。調布の」
彼女は夢みるように言った。
「なかなか来てくれなくて、待ちくたびれたわ。ねえ、明日、一緒に深大寺に行ってくれない?だるま市があるの」
「ああ、いいっすよ」
なぜそう答えてしまったのかよく分からないままに、翌朝地下道に行ってみると、彼女はきりっと立っていて、こっちを見た。
「行きましょう」
あ、やっぱホントだったか。シュウの言葉が頭をよぎったけど、ぼくは彼女について歩きだした。売春婦だろうと何だろうと構わない。彼女には何かがある。そう感じたのだ。
「ずっと、待ってた」
電車の窓から外を見ながら、彼女はつぶやく。
「深大寺は、婚約者の故郷なの」
複雑な事情でもあるんだろうか。いろいろ突っ込んでみたくなったけど、彼女の目が潤んでいるような気がして黙った。
 だるまを並べた屋台と人だかりでにぎわう深大寺の境内を、彼女は、ゆっくりと歩いた。ひとつ、ひとつの木を見上げ、雪どけの空気を、ていねいに呼吸しているようだった。
「ずっとここに来たかったの。ここから歩いてすぐの小さい家で、新婚生活を送るはずだった。新宿駅で待ち合わせしてたの」
「ふーん」
来なかったってことは、ダマされてたんじゃねえの?内心そう思いながら、相槌を打つ。
「彼は、帝都東京の空を守ってた」
吹き出しそうになった。なんだよ、「帝都」って。「空を守る」、って。戦闘アニメか?
「調布の飛行場に配備されていた。B29から故郷や家族、そして私を守るんだって、張り切ってた。休暇で帰ってくるはずだったのに、もう六十年近くも過ぎてしまった」
「ハ?」
ぎょっとして立ち止まった。B29、って戦争中の話じゃないか。だいたい「六十年」て、待ち合わせに遅れたとかいうレベルの話じゃないだろ。彼女のアタマは確かなのか?
「ここはね、恋がかなうところ。時代を超える、本物の恋よ。…ね、思い出して」
彼女は正気じゃない、と考えるのが普通だろう。なのに…、今日ここに来たのは、酒のせいだけじゃない。どこかでわかっていた。  
―最初からぼくは、彼女がなつかしかった。とても。
「私は昭和二十年の三月三日、あなたが来るのをずっと待っていた。待ち続けたまんま、新宿駅は三月十日の東京大空襲で焼け落ちた。でも、いつか必ず来てくれると思ってた」
 ぼくは小さいときから飛行機が恐怖だ。おそらく一生、乗ることはないだろう。そう言うと、彼女はうなずいた。
「あなたが乗った『飛燕』は、墜落してたのね。だから待ち合わせに来られなかった。生まれ変わったあなたを新宿の地下道で見つけたとき、分かったの」
「飛燕」とは、第二次世界大戦中に調布飛行場に配備されていた、日本陸軍航空部隊の戦闘機だ。東京上空に来襲したB29に体当たりして撃墜することもあったという。彼女はそう説明してくれた。
「うん、そうだ。行けなくてごめん」
半ば呆然としながらも、冷静なぼく。
歩き疲れたので、山門を出てすぐの門前そばの店に入った。彼女はぼくを見て笑った。
「ねえ、私のこと、不気味だと思う?」
「あ、いや」
彼女に足はあるな。体も透けてないな。なんてことを考えていたので、ドキっとする。おいしそうにそばをすする彼女は、どうみても生身の人間だ。あいかわらず、不思議な空気をまとっているものの。
「『人間が存在すること』なんて、不確かなものよ。私はずうっと、あなたを待ってた。ほんとは、途中から生きてなかったのかもしれないけど。でもね、雑踏の中の人たちの、誰が現実に存在していて、誰が存在していないのかなんて、証明できる?」
 迎え酒の地ビールを飲み干して店を出、ぼくは店の目の前の、湧き水の淵にしゃがんだ。不意に涙がにじんだ。ここに来るために。ここに来るために、長い旅をしてきた。そんな気がしたからだ。
「焼け野原だったことも、今の東京のネオンも、一瞬の幻。私にとって確かで変わらないのは、このお寺だけ」
雪どけの清涼な空気は、キラキラと澄んでいる。彼女の目は、穏やかだった。
「私はあなたと、戦前のだるま市で出会ったの。お互い両親に連れられて。私はお化粧して、下駄はいて。出会ったときから、あなたに恋をしてた。あの頃はそんなふうにして、ここでたくさんの夫婦が生まれたのよ」
彼女は、屋台のだるまを検分しはじめた。
「左目に『阿(あ)』の字を入れておくから、いつか願いが叶ったら、必ず右目に『吽(うん)』の字を入れに来て」
ぼくに手渡した。
「ねえ、ここにまつられている深沙大王という神様はね、姿はとっても怖いんだけど」
彼女は童女のようにほほ笑んだ。
「引き裂かれた恋人たちを再び引き合わせる手助けをする、やさしい恋の神様なのよ」
「確かに、そうかもしれないな」
ぼくはうなずいた。彼女は近づいてきて、ふわりとぼくを抱きしめた。深いやすらぎが、ぼくを包んだ。
「もう、行くわ。これからあなたは、ちゃんと恋ができる。多分、飛行機も怖くなくなる」
「あの」
行かないでほしい。声が震えた。
「あなたは、幸福でしたか?」
「そうね。ほんとは悔しい。とても、ことばでいい表すことはできない」
白目が青く見えるほど、透んだ瞳だった。
「それでもね、愛し続けた時間が、確かに私の人生だったのよ」

だるまの左目に「吽(うん)」を書き入れながら、僧侶はつかの間、ぼくを見つめた。いつもふざけてばかりのアイも、神妙に受け取る。
「いつかさ、ここの近くに、小さな家を建てよう」
「うん、私もこういう緑の多いところがいい」
アイは、微笑みながら続けた。
「大都市は、冥界だから」
思わず足を止めたぼくの手を、アイは強く握った。伝わってくる、あたたかな脈動。
「彼女」はあの日山門で、ぼくに笑顔で手を振った。そしてそれきり、今日まで一度も見たことはない。

Saki(東京都板橋区/32歳/女性/会社員)

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