*

<第4回応募作品>「W(ダブル)早苗」 著者:サナエ・チャン

「おばあちゃん、あたし、超ヤバい。」孫娘のサナエがつぶやいた。
「えっ、何だって?何がヤバイって?」早苗は聞き返した。最近、いやずっと前からだが二十になったばかりの孫娘が何か言葉を発するたび、日本語ではなく外国語を話しているような気がするのだ。外国語どころか宇宙人語ではないかと思う時もある。
「やっぱマジ、ヤバイ。」うつ向いたままサナエが宇宙語を繰り返す。
「あんたの言っていることはさっぱりわからないね。一体何語を話しているんだい。ヤバイって何か世間様にご迷惑でもかけるようなことしたのかい。」早苗はせっかちに聞いた。
「あたし、幽霊に魅入られちゃったみたいなの。」やっと顔を上げたサナエは今度は宙を見据え、ため息混じりに答える。
「あんた達若者は私にとったら宇宙人みたいなもんだけど、宇宙人じゃなくて幽霊だって?」早苗自身にも自分が何を話しているのかよくわからなくなってきた。
「そうなのよ、幽霊君に恋しちゃったみたいなの。」
深大寺の境内を六十も離れた孫娘と肩を並べて歩きながら、またサナエがわけのわからないことを言う。だがさっきよりずいぶん話の核心に近づいてきたようだ。
「ふーん、あんた誰かに恋してるってわけだね。」大学の三回生になったばかりの孫娘のサナエの話によるとこうである。先週帰宅途中に深大寺の境内を通ると、生物学で同じクラスの男子学生が桜の木の前に一人佇んでいたという。だが教室で彼が他の学生と話しているのを見たこともなければ、笑ったところさえ見たことがない。背は結構高くて百七十八センチくらい。痩せてひょろっとした体に一度も日焼けしたことがなさそうな青白い顔。その姿でいつもふらっと教室に現れ、一番後ろの空いた席に座る。そして授業が終るとふらっといなくなる。ある日クラスの男子学生の一人がつぶやいた。「あいつってまるで幽霊みたいな奴だよな。」その時からサナエの周りでは彼の名前は「幽霊」になった。誰も彼の本名を知らないようだった。その「幽霊」くんが桜の木の前に一人佇み、蕾に向かってまるで話しかけるかのように微笑んでいたのだという。だがその笑顔を見た時、サナエは「キモい」と思わず、彼の笑った横顔が「美しい」と思った。そしてその日からサナエは生物学のクラスに彼が現れるのを密かに待つようになり、彼の存在が気になって授業に集中できなくなったのだという。「ふーん、なんだか不思議な子だね。そのミステリアスさに魅かれたのかな。」と早苗が言うと、サナエは頬を赤らめ「やっぱりお母さんじゃなくておばあちゃんに相談してよかったわ。」と言った。
「それであんた今日私をここへ連れてきたんだね。」早苗が聞くと、「ピンポーン!当たり!」サナエの目が輝いた。
「でも、その幽霊君とやらは今日もここへ来るかね。」早苗は尋ねた。
「絶対来る。なんかそんな気がするの。だって桜がこんなに綺麗なんだよ。蕾を見て微笑んでいたくらいだから、花が開いたとこを見に絶対ここへ来るってば。」サナエは自信ありげに言った。
 その日から早苗は二十の孫娘に手を引っ張られ、毎日深大寺の境内に通う羽目になった。自分の娘、つまりサナエの母に頼まれていたなら、こんなにも熱心に付き合わなかっただろう。だがこの六十も年の離れた孫娘とはいつもいろんな面で感性が合うのだ。深大寺に通わされているうち、早苗自身もだんだんその「幽霊」くんなるものを一目みたくなったのである。二人の深大寺通いが始まって一週間が過ぎた。
「サナエちゃん、あんたが見たのは実物じゃなくて幽霊だったんじゃないかい?」早苗は孫娘に聞いてみた。
「いや絶対そんなことない。だってちゃんと足があったもん。」サナエは口を尖らせた。
「おばあちゃんもね、若い頃よくここで初恋の人を待ったもんだよ。」早苗が言うと、「えっ、それって死んだおじいちゃんのこと?」サナエが好奇心に満ちた眼差しを向ける。
「違うよ。その人はね、おじいちゃんに会う前におばあちゃんがすごく好きだった人さ。英治さんと言ってね、終戦の年に南の島で戦死しちゃったんだよ。サナエと同じ二十の時さ。今はシンガポールと言うけど、その当時は昭南島と呼ばれていた島でね。」早苗は答えた。
「へえー、おばあちゃんにそんなロマンスがあったなんて、ちょっと意外。ねえ、その英治さんってハンサムだった?」サナエの目が輝く。「そりゃあ、男前だったよ。なにしろおばあちゃんの初恋の人だからね。英治さんが戦死したっていう知らせを聞いても信じられなくてね。この深大寺に毎日来て仏様に祈ったもんさ。英治さんが死んだなんて嘘。英治さんはきっとここに無事に帰って来ますよね、ってね。」早苗は話しているうちに急にこの満開の美しい桜を一目、初恋の人に見せたかったと思った。「昭南島は常夏の島だからね。桜なんか咲いてないんだよ。英治さんは日本男児だから、きっと死ぬ時はこの桜の下で死にたかったと思うよ。」早苗が言うと、孫娘はコックリとうなづき「そうだね。」と一言つぶやいた。夕闇が迫り、境内を歩く人の姿もまばらになってきた。
「ああー、幽霊くん、今日も来なかった。おばあちゃんの言う通り、やっぱり幽霊でも見たのかな。」サナエは肩を落とし大きなため息をついた。「今日はもう遅いし、近くでお蕎麦でも食べて帰ろうか。去年菜の花の天ぷらと一緒に食べた店がすごくおいしかったよ。」早苗が言うと孫娘は無言でうなづいた。
 二人は満開の桜に背を向け、寺の外にある蕎麦屋に向かった。「腹が減っては戦はできぬ、ってよく言うでしょ。恋にもエネルギーがいるんだよ。明日もう一回だけ一緒に来てあげるから元気出しておくれ。」早苗はまだため息をついている孫娘の肩を軽く叩いた。その時だった。桜の木の方を振り返ると、遠くの方から白い人影が近づいてくるのが見えた。「あっ、幽霊くん!」サナエがそう叫ぼうとしたと同時だった。「あらっ、英治さん!」隣にいる早苗が叫んだ。そして人影に向かって走り出した。「おばあちゃん、どうしたのかしら。」サナエは驚いてその場に立ちすくんだ。祖母の姿がどんどん桜の木に近づいて行く。祖母と幽霊くんが桜の木の下に辿り着いたのはほぼ同時だった。「英治さん、やっぱり帰って来たのね。」早苗はそう言うと、両手を広げ幽霊くんの体に抱きついた。
「やだ、おばあちゃんったら何してるの?」サナエは恥ずかしさのあまり、できることなら、この場から消えてしまいたいと思った。
サナエが山門の影に身を隠そうとした時だった。一陣の風が吹いて、桜の花びらが空中に舞い上がった。幽霊くんに抱きついた祖母の姿が桜吹雪にかき消され、二人の姿が一瞬見えなくなった。茜色の空をバックに薄紅色の花びらが散る、その幻想的な美しさにサナエは呆然とした。「これは夢かしら。」
 桜吹雪の中から二人の姿がおぼろげに夕闇に浮かび上がった時、サナエはやっと我に返り、二人がいる桜の木の下に向かって走った。「おばあちゃん、なんてことするの。その人、英治さんじゃないわよ。」サナエは叫んだ。
「えっ、英治さんじゃないの。じゃあ、この人だあれ?」早苗が聞く。
「私の幽霊くんよ!突然抱きつくなんて失礼じゃない。」サナエの甲高い声を聞いて、祖母はやっと我に返ったようだった。
「この人がサナエの幽霊くん?だって英治さんにそっくりじゃないか。」早苗が不信そうな顔で聞き返す。二人の女性のやり取りをしばらく見ていた青年はおかしくてたまらないというように「ぷっ」と吹き出した。そしてこれ以上笑いを堪え切れないというようにガハハと大声で笑い出した。
「あっ、幽霊くんが笑った!」「本当だ、笑っている。やっぱりこの人幽霊じゃないよ。ちゃんとした人間だよ」祖母と孫娘はまじまじとお互いの顔を見合わせた。
「そうです。僕は幽霊じゃありません。人間です。」暗闇の中で青年は声を発した。
青年は二人の女性に自己紹介を始めた。「僕は台湾から来た留学生で陳と申します。六ヶ月前に日本に来たばかりで、日本語はまだ上手く話せませんが、どうぞよろしくお願いします。」以外にも滑らかな日本語だった。
「なあーんだ、そういうわけか。だから教室でも誰とも口を聞かなかったのね。」サナエは納得したというように頷いた。
「陳くん、幽霊なんて呼んですまないね。それに暗闇の中で急に抱きついたりなんかして悪かったね。許しておくれ。初恋の人にあんまりそっくりだったもので。」早苗は言った。「サクラ、とても綺麗ですね。」陳と名乗る青年が言った。
「そうね。でももうこんなに散ったから明日から見られないかもね。」サナエがそう言うと、風が吹き花びらが三人の肩に積もった。肩についた桜の花びらを摘みあげて、陳青年は「ふっ」と笑った。二人の女は笑みを浮かべた、その横顔の美しさにしばし見とれた。そしていつまでもこうしていたいと思った。
「なんだかお腹が空いてきたね。陳くんもよかったら一緒にお蕎麦を食べに行かない?」早苗が誘うと青年は答えた。「僕、ソバ大好きです。」
「じゃあ、決まり!早く行こう。」
三人が深大寺の山門を通り抜け外に出ると急に雨が降り出した。
「走ろう。早くしないと皆濡れちゃうよ。」サナエが言うと、雨はいっそう激しく降り出した。
桜の花びらを敷き詰めたピンクの絨毯の上を三人は手をつないで走った。

サナエ・チャン(アメリカ・ロサンゼルス/46歳/女性/料理研究家)

   - 第4回応募作品