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<第4回応募作品>「挨拶」 著者:和倉 ちとせ

 大学進学のために始めて上京してから、東京生まれの人は皆怖いのかと僕は思っていた。
 でもクラスメートとして君に会ったときに、そうでもないのかなと初めて思ったんだ。
「だって二十三区出身じゃないですから」
 拗ねたように言われたけれど、そんな違い、よその人間にはわからない。現に昔の僕にはぴんと来なくて、どう答えたらいいのかわからなかった。
 そのときの女の子と結婚することになるなんて。
 あのときの僕には予感の欠片もなかったとは、君にはとても言えない。

「手土産、これでよかったのかな。もっと高いものがよかったんじゃないか?」
「食べきれないよ。もったいないでしょ」
 君は呆れたように言う。先週、君は先に僕の実家に挨拶を済ませたから明るい。今度は僕の番と言うことで、少し楽しんでいるようにさえ見える。
「大丈夫、これお母さんの好物だから」
「お父さんの好物はいいんだ?」
「いい」
 はっきり答えるけど、本当にいいのかなあ。
 普段乗ることのない、クリーム色の電車ががたごと揺れる。
「そういえば不発弾発見されたの知ってる?」
「ああ、ヤフーで見た。よく今まで見つからなかったもんだね」
「ね、びっくりした。ずっとあの側電車で通ってきたのに」
 一応すこしよそ行きの服を着てきた君と、一番のスーツの僕。
 彼女の実家に伺うのは久しぶりだ。
「やだ、緊張してるの」
 彼女はちょっと笑う。
「会ったことあるじゃない」
「それとは違うだろ」
 言い返したけど君は真剣に聞いてない。
 食事くらいはしたことあるけれど、今日は結婚の申し込みなんだから。
「大丈夫うちのお父さん、殴ったりするタイプじゃないから」
 もの凄いこと、さらりと言うなあ。
「ね」
 でもにっこり笑われると、怒っていられない。しょうがないから窓の外の流れる景色を見つめる。
 緑の多い住宅街は、日頃僕の馴染んだオフィス街とも、僕が一人暮らしを続けている学生街とも違う。
 彼女が育ったこの町を見ると、なんだか彼女っぽいといつも思う。
 きれいで、でも攻撃的な感じじゃなくて、優しいけどしっかりもので、少しやんちゃで涙もろい。
 それが、僕の結婚したい女の子だ。

「まあまあ、遠いところに」
 玄関のベルを鳴らすと、まずは彼女のお母さんが飛び出てきた。
「いえ、新宿から特急使いましたので」
「それでもねえ。……あら、お気遣いなく」
 手土産を受け取ったお母さんの反応は良くて、好物を持ってきた彼女の作戦は当たりだったらしい。
「お父さん、草むしりしてるから」
「大丈夫、日射病とか? 外暑くて……麦茶飲んでいい?」
 いつもしっかりものの彼女の顔が、実家では少し変わる。
 少し甘えたような、たぶん娘の顔なのだ。
 彼女の気づいていないそれを覗くのは、ちょっと秘密めいた楽しみだ。
「スリッパ、いらないでしょ?」
「美香」
 お母さんがたしなめるが、僕はうなずいた。
 たぶん彼女流の気遣いなのだ。僕を「お客さん」にしないための。
 なんだったら草むしりだって手伝おうと僕は決心する。新宿の丸井で買った八万のスーツだけど、今日のためなら惜しくない。

「待たせちゃったね」
 草むしりはやはり暑かったらしくて、お父さんはシャワーを浴びてから現れた。ほんとよ、と彼女が悪戯な口を聞く横で、お邪魔してます、と僕は慌てて頭を下げる。
 お父さんは僕らの到着で草むしりを中断したので、結局僕は手伝いをしなくて良かった。それでよかったのかもしれない。言われたらなんでもやるつもりではあったけれど、僕もお父さんと二人きりになる心の準備がまだできていなかったから。
 昼食はビールで乾杯して、和やかに始まった。
 お母さんが取ってくれた、近くから取ったという寿司は食べきれないほどあった。こっちは家で準備したらしい、涼しく冷えた蕎麦がつるつるとおいしくて、勧めるられるままにお替りをする。
「このあたりのお蕎麦は有名なのよ」
「深大寺ですよね、よく見ます」
 彼女のことがあるせいで目に付くのかもしれないが、結構都内でも深大寺蕎麦を謳っている店があることには気がついている。
「あらそうなの、どうお父さん?」
「そうだな、わりに見るな」
「やだお父さん、ビールもう二杯目なの?」
 僕はこっそり、お父さんとお母さんの会話を聞いていた。
 お父さんは彼女に顔が似ているし、お母さんには将来の彼女の姿をだぶらせてしまう。ふたりはいつも穏やかに仲が良くて、それを見るたび僕は少し安心する。
「そういえばこないだ一緒に神代植物公園行ったよ。温室に」
 彼女が口を挟んだ。
「ああ、お父さんたちも行ったわよ。温室は行かなかったけど」
「なんで、温室がいいのに」
 彼女はその公園が好きなので、結構僕らは遊びに行く。それから深大寺のほうに抜けるか、調布か、吉祥寺か。付き合い出しは結構渋谷や新宿にも出たけれど、最近はもう、仕事の疲れか(年とは思いたくないけど)そういうデートのほうが気楽だ。
 そこで沈黙があって、僕は今だと思った。
「あの、お父さん」
 隣に座った彼女が緊張したのがわかる。

「お嬢さんを僕にください」

 もう少し前振りをするつもりだったのに、頭の中にあった台詞がするりと出てしまって、一気に僕は本題に入ってしまった。
 失敗した、と僕は硬直する。
 お父さんはその僕の目の前で、コップのビールをじっと見つめた。
 それから一気にそれを開けた。
「一志君」
 お父さんが僕の名前を呼んだのは、初めてかもしれない。いつも君、とか、ほら、とかそんな感じだったのだ。
「はいっ」
「今日は泊まっていきなさい」
「お父さん」
 彼女が口を挟むけれど、お父さんは僕をまっすぐ見た。
 負けまいと、僕も力を込めて視線を返す。
「明日一緒に深大寺にお参りに行きましょう。我が家では大きなことがあると、いつも家族で報告に行くんですよ」
「お父さん、一志さん明日は」
「わかりました。ご一緒させてください」
 彼女に目で合図して、僕は腹の底からの声で返事した。
 明日の予定は、後で友達に謝っておこう。
 お父さんが満足そうにため息をつく。僕は慌ててビールを注いだ。

 返事はOKなんだろうか。僕はお父さんを見るけれど、穏やかな表情からは読み取れなかった。
 家族で報告、にいれてもらえるん、だからたぶんそうだと思うけど。
 とりあえず、明日まで確認する時間はたっぷりある。
 お父さんが僕にビールをついでくれようとしたので、僕は急いで自分のカップを干して差し出した。僕があまりお酒が強くないことを知っている彼女が僕を肘でつつくけど、無視をした。
 だってこんな日は、一生に一度だけだろう。
 目を閉じてぐっとコップを干す。目の裏に、深大寺の参道の濃い緑が浮かんだ。
 僕は明日、あの坂をこの人たちと登るのだ。
 じわじわと腹の底が熱くなってくる。

和倉 ちとせ(東京都品川区/35歳/女性/会社員)

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