<第4回応募作品>「止まったままの記憶」 著者:ムラ アキラ
大学生のアキラは、釈迦堂前で何度も腕時計を見ながら気をもんでいた。待ち合わせの時間からもう既に一時間が経とうとしていた。こんな事は今までになかったので、アキラは何か得体の知れない不吉な予感が先ほどからずっとしていたのである。
ここは、アキラとクミのデートスポットである。この釈迦堂は深大寺の一角にあり、山門から入った左手にある建物である。このお堂の創建は昭和五十一年と比較的新しく元々は国の重要文化財である白鳳仏を安置する目的で建立された。深大寺明細帖には、「立像にあらず、座像にあらず」と記されており、クミがとても面白がり、いつしかこのお堂前が二人にとっての待ち合わせ場所になった。
八月もお盆に入り、アキラはいつもなら実家の福島へ墓参りを兼ねて帰省しているところだが、今年は大学が夏休み中は目一杯アルバイトで稼ぐ予定を立てていた。
それというのも、アキラにはイタリアへ行って、古代ローマ時代の遺跡を見て回りたいという目的があったのだ。大学で西洋史を専攻しているアキラは、特に古代ローマ建築に興味を持ち、一年の時から卒論のテーマにしたいと考えていたほど入れ込んでいた。
再びアキラが腕時計に目を落とした時は、もう六時半を回り、いよいよ尋常ならざる状況であることが疑いから確信へと変わった。
アキラは足早に山門へとって返し、いつもクミがやって来るはずの通りへと目をやる。
そして、通りを行き交う人々の中にクミ姿を求めて目を凝らしていた。門前町としての風情を残す深大寺の通りにも、そろそろ夜の帳が降りようとしていた。
クミとアキラは、同じ福島の出身であった。同じ高校に通学しており、同じクラスにもなったこともあるが二人は言葉を交わしたことが一度もなかった。当時、アキラはクミを美人で近寄りがたい存在で、自分とは違う世界の人と捉えていた。クミもまた、アキラを遠くからちょっと格好良いスポーツ好きな青年として見ていたことが後になり二人が付き合うようになって分かった次第である。
地方の田舎町から上京してきた二人にとって、この深大寺は東京という都会の冷たいイメージとは異なり、何故かほっと出来る安らぎの空間となっており、二人の絆をより深める切っ掛けになった寺でもあった。
アキラは、クミの身に何かあったのではないかという思いを必死に打ち消しながら懸命にクミの姿を捜していた。
クミの澄んだ瞳は、いつも明るく輝いている。笑うと両頬に笑窪ができ、益々彼女を魅力的な女性にしていた。少しばかり色黒であるが、そこがまた魅力的であった。
三年前に都内にある予備校の夏季講習会で二人はたまたま出会った。アキラは、すぐにクミが分かったものの、なかなか声が掛けられず、講習が始まって三日目にやっとの思いで声を掛け、会話をするようになった。
クミの方は、私が声を掛けるまで全然気が付かなかったようで、そのことはアキラを少しばかり気落ちさせた。
とにかくアキラは予備校生でありながら、それ以来とてもウキウキとして、毎日が満ち足りた気分であったことを思い出していた。
とその時、「チリーン、チリーン」とそば屋の軒に下がった風鈴が鳴った。アキラが音のする方へ目をやると何とそこにいつの間に来たのかクミが笑顔で立っているではないか。
アキラは、目の前のクミの姿にホッとすると同時にクミの方へ既に走り出していた。両手でクミを抱きしめると、彼女が本物であるかどうかを確かめるように何度も腕に力を入れて抱擁し、深いキスをした。
「アキラ、どうしたの?少し変よ、それより痛いわ」と言ったクミは私の腕から逃れようとしてもがいた。
「いや、ゴメン。あまり遅いから何かあったんでないかと心配したんだ。」
アキラはクミの言葉に漸く我に返って、
「心配したぞ。一体、何があったんだ」
アキラはクミに矢継ぎ早に質問をした。
クミは、アキラの心配性のところがとても好きであり、時に鬱陶しくもあった。しかしそれは、自分に対する愛情の深さ故であると考えるようになってからは何かとても心地よいものに変わっていった。
「実は私、ここへ来る途中もう少しで、車に撥ねられそうになったのよ」
咄嗟にアキラが叫びながら「けがは?」アキラの目は、クミの体をアナライズするように傷や出血の痕跡を探し始めた。
「ううん、大丈夫。安心してアキラ」
「私、こんなに平気よ。怪我もしていないから。それに今日は何故かとても気持ちがいいの、私変ね。」
「ああ、でも私、アキラに貰ったあのブレスレット無くしちゃったのよ」
「その場で何度もその辺を捜したの。気がついた時はこんな時間になってしまったの」 「アキラ、待たしてゴメンね。それにブレスレットも見つけられなくて・・・」
アキラはうんうんと頷きながらクミの話を聞いていた。クミは一通りアキラに自分の身に何が起きたかの説明をした後急に、
「ねえ、私お腹空いちゃった。何か食べない?」というとはにかみ笑いをした。
「そうだな、じゃあそばでも食うか?」
アキラはその笑顔に、これまで何度も救われている。彼女といると何でこんなに幸せな気持ちでいられるのかとても不思議だった。そしてこの満ち足りて穏やかな心地よさが愛だとその時、アキラは実感していた。
二人はそば屋の暖簾をくぐり、右奥のテーブルについた。店内はいつもより人数が少ないように感じた。子供の頃、そばは年寄りの食べ物といったイメージがあったが、最近は健康食ブームに乗り、若い女性の間でも注目されるようになってきた。ここ深大寺そばは、江戸時代に米の生産が適さず、そばを栽培するようになったことからその歴史が始まる。農民達は出来たそば粉を寺に納め、寺ではそばを打って来客にもてなし、それが深大寺そばのブランドとして発展してきた。
食物栄養学を学んでいるクミによれば、血圧の高い高齢者にも、そばに含まれるルチンという物質が血圧を下げるのにとても効果があるそうだ。アキラは一度彼女の通う大学の学園祭に行った時、特設ステージ場で、クミがパネラーの一人として研究室の成果を発表しているところを見たことがある。真っ白な白衣に、黒縁の眼鏡をかけ、髪を一本に束ねたクミは、理知的でとても格好良く見えた。
男は、女性の凛々しさや格好良さにも魅了されるものなんだとアキラはその時感じた。そして、親友のマサカズが当時、大学の附属病院に勤務する男勝りのような看護師に熱を上げていた気持ちがこの時、よく分かったのである。アキラとクミは、いつものように向かい合って、天ぷらそばセットを食べた。
この日のそばがいつもより美味しく感じたのは、クミの事を沢山心配してお腹が特に空いたせいなのかもしれないとアキラは思った。
クミの右腕には無くしたブレスレットの跡がリング状にうっすらと残り、細くしなやかな腕をこの日は一段と細く見せていた。アキラがクミに贈ったブレスレットは、アルバイトで貯め、初めて買ったものでそんなに高価な物ではなかったが、クミは宝物のように大切にしていた。アキラはそのことをずっと気恥ずかしく感じていたのである。
恐らく今日も無くしたブレスレットを必死になって暗くなるのも忘れて捜したのだろう。
アキラは、そんなクミの姿を想像しているとそのいじらしさと可愛さで思わず涙が溢れそうになるのであった。
クミは本当にいい女だと思う。また、自分には不釣り合いなくらいもったいないとも思うのであった。
二人はそばをすすりながら、互いに一緒にいることの幸せを体中で感じていた。幸せな時間とは、こんなにもゆったりと流れ、時間の観念さえも無くしてしまうものなのか。
つい先ほどまで、何度も腕時計を見ながら気をもんでいた自分が、今は間もなく寮の門限時間が迫ろうとしているのも忘れるほど夢中でクミと話し込んでいる。二人は蜜豆とコーヒーを口にしながら、学校やバイトのことなどいろいろと話をし、いつものように有意義で満ち足りた一時を過ごして分かれた。
私は今、郷里の高校で倫理を教えている。クミと最後に会ってから既に二十八年の歳月が流れていた。その後、私は六つ年下の今の妻と見合いで結婚し、高校一年生になる娘と三人で人並みに幸せな家庭を築いている。
今年もあの八月十二日がやって来る。私は毎年この日が近づくと、もう二十八年前にもなるのに昨日のことのようにはっきりとあの日の出来事を思い出すのである。私はあの日の不思議な出来事を誰にも話してはいない。
未だ、あの日の事が信じられないからではない。私はあの出来事は本当にあった事であると確信している。だから、この不思議な出来事を人に話してしまったら、もう二度とクミには会えないような気がしたからである。
そば屋の風鈴の音とともに突然現れたクミ、彼女は、実はもうこの世の人でなかったことを私は夜勤明けのバイト先にかかってきた彼女の母親の電話で知った。クミは事故に遭い、すぐに近くの病院に運ばれて緊急処置を受けたが、その甲斐もなく亡くなった。
あの時、私が一緒に楽しい一時を過ごしたのはクミの魂そのものだったに違いない。
あれ以来、私はいつかクミに会えるかもしれないという虚しい妄想を抱きながら生きていた。しかし、そうした妄想を抱くことはもう終わりにしようと思う。そして、今のこの素朴な幸せの中で妻と娘と共にしっかりと生きていこうと決心したのである。
ムラ アキラ(福島県福島市/49歳/男性/教員)