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<第4回応募作品>「パパラシオのこと」 著者:高橋 ヒゲスキー

「気をつけて、そこ段になってる」
 弱い風が吹き、石畳に落ちた影がわずかに形を変える。五月の、日々密度を増す陽光が参道端の木々に降る。茂る葉は緑の交響。緑に影を落とすのもまた緑。
 僕は彼女に片腕を貸し、より一層歩調を落とす。鞠は数年前事故に遭い、その後遺症で片足が悪く、杖を使って生活している。だから石畳のように段差のある場所では慎重に歩かなくてはいけない。
 土産物店や菓子を売る色鮮やかな店々を通り過ぎ、深大寺の山門をくぐる。その先に、僕が彼女に見せたいそれはあった。僕がほら、と指し示すと、鞠は驚きの声をあげた。
「花が咲いたとこ、見るの久しぶり」
 ヒトツバタゴの木は、滴り落ちる光がそのまま時を止めたような繊細な花弁を身いっぱいに咲かせ、自ら発光しているいるようにも見えた。古くは六月雪と呼ばれたそうだが、まさに枝は、新雪を積もらせたように陽を受けて輝いている。
「あんまり明るい白なんで『海照らし』って呼ぶ地方もあるんだって」
 この日のために調べた知識を伝えながら、僕は鞠の横顔を伺う。表情を変えることの少ない彼女が、ごくわずかな微笑を浮かべている。久しぶりに陽を浴びた鞠の肌は、少し長く歩いたせいか、軽く上気している。
 しばらく無言で花を見つめたあと、鞠は僕を向いて言った。
「連れて来てくれてありがとう、マハ。でも、どうしてここに私を連れて来たの?」

 マハ、という名前はチャド人の母がつけた名前だった。チャドでは一般的な『マハマット』という名を縮め、父がそれに漢字を当てて『真葉』にしたのがが僕の名前。母の国で子供たちの支援活動をしていた日本人の父と、フランス語ができたため、現地人と父らの通訳をしていた母が結婚し、二人は日本に来て僕が生まれたのだった。
 鞠とは、小学生の頃からの付き合いになる。母の血をより色濃く受け継いでいる僕は、周囲に溶け込もうと必要以上に陽気にし、よく喋る子供だった。その際仲間の関心を買うためにちょっとした出来事を酷く大げさに話し、面白くするために独自のエピソードを付け加える。子供ながらの努力が実って友達は多くでき、鞠もその中にいた。
 活発な少女だった鞠とは、放課後もよく遊んだ。深大寺の境内に、野川にかかる橋に、そこらじゅうの路地裏に。僕の記憶の中ではいたるところに鞠と僕との幼い影がある。
 鞠は利発な少女だったが、素直で騙されやすいところがあった。小学校の時は「新月の夜に弁財天池で泳ぐと、弁天様が願いを叶えてくれる」という僕の嘘を実行しようとして母親に呆れ怒られたし、中学校のときは「深大寺のとある蕎麦屋には裏メニューがあって、『亀島ください』と言うと亀の肉が載った蕎麦が出て来る」という嘘を実行して大恥をかいた(これは鞠に凄く怒られた)。
「マハだから、仕方ないか!」
 僕に散々騙され、どんな恥をかいた後でも鞠は笑って、必ずそう言った。回を重ねるごと僕の嘘は洗練され独創性を増し、それらを実行することはいつしかなくなっていったけれど、鞠はいつも笑ってそれを聴いてくれていた。僕は鞠のことを好きだったのだろう。ただその頃はそれを理解できず、物語とも嘘ともつかない何かを語り続けて彼女の時間を僕のものにすることが精一杯だった。
 鞠から恋人ができたことを知らされたのは、別々の高校に進学して暫くのことだった。即座に「おめでとう」と言えたものの、僕は生まれて初めて知る酷い欠落感を顔に表さないようにするのに必死だった。
「マハだってすぐ彼女できるよ。ハーフで格好いいもの」
「俺はチャドに、生まれた時に決められた美人の許嫁がいるからいいんだ。結納で百頭の牛を向こうの家族に贈らないといけないから今から貯金が大変で彼女どころじゃないよ」
「もう、また! 大体マハ、お母さんの国に行ったことないでしょ。それに生まれたときの許嫁なんて美人かどうか分からないし」
 マハの嘘久しぶりだなあ、鞠はひとしきり笑った後に、心持ち真面目な声で言った。
「私はいつか行ってみたいな、マハのお母さんの国。チャドだけじゃなくて他の国にも。誰も行ったことのないところに行って、それを伝える文章を書く仕事がしたい」
 そう言う鞠が見せた顔は、もう僕の知らない顔だった。その頃の僕と言えば入ったばかりのサッカー部に夢中で、いかにパスの精度を上げるか? が毎日の関心ごとだった。女の子はどうしてこう、僕らより先に大人になろうとするのだろう? 僕は中学を卒業したまま立ち止まっていたけど、鞠は違った。そしてこれからも違い続けるのだろう。
 それきり鞠とは疎遠になってしまった。会える訳がなかった。それでも僕は、物語を作り続けることをやめなかった。グラウンドでボールを追いかけている間も、大学に入って女の子と付き合うようになって、その子と同じベッドにいるときも、それは止めることのできない習慣になっていた。そうすることによって鞠が戻って来てくれる、なんて思っていた訳じゃない。ただ僕は、立ち止まっていたのだ。鞠と過ごした時間の中に。新しい物語を作り続けることが立ち止まっていないことの証明になるような気が、その時はしていたのだ。そうして僕は自分自身を騙すことにさえ成功し、そのたゆまぬ訓練の成果は、なんと僕を物書きにした。
 鞠に再会したのは、大学を卒業して数年後、僕がなんとか文章で食べていけるようになったころだった。鞠が交通事故に遭い足を悪くし、家に引きこもっていると人づてに聞いて、深大寺そばの彼女の家を訪ねたのだ。
「この足に人工骨とボルトが入っているの」大型トラックのタイヤに2度も轢かれたのだというくすんだ赤の傷跡を鞠は見せてくれた。またいつ折れるか分からないんだって、と鞠は言う。「でも、治ろうとすることがそんなに大切と思えなくなって来ちゃった。今の時代、家でできる仕事もいっぱいあるし」
 病院と自宅の往復以外出かける気になれない、という鞠を外に連れ出すのは大変だった。幾度も家を訪れ、昔話を避けながら、楽しい話題だけを僕は話し続けた。時には事実を大げさに、作り話を加えながら。そう、まるで幼い頃に戻ったみたいに。数カ月も、まるでシェヘラザードのごとく語り続けたあと、時折笑顔を見せるようになった鞠を僕は深大寺へ誘った。野川の桜が散って、ヒトツバタゴの白い花が咲く五月の初めだった。

「あのね鞠、これは俺が友達のチャド人から聞いた話なんだけど」
 ヒトツバタゴの葉と花が鞠の白い頬に淡い影をつくる。まだ微笑の余韻が残るその顔に、僕は話しながらも見とれる。
「ヒトツバタゴの親戚にあたる木がチャドにも生えていて、現地語でパパラシオ、っていうんだ。チャド湖のそばにある小さな部落に何故か一本だけ生えてる。現地のシャーマンたちがその葉を祈祷に使うんだけど、年に一度咲く花には、もっと凄い力があるんだ。その花を食べると、どんな怪我でも治っちゃうんだよ。現に俺の友人の大叔父って人は、失くした右手が生えて来たんだって。まさかって思うだろ? でも写真で見たんだ。ねえ鞠、俺はチャドに行こうと思う。母の親戚が向こうに住んでるから車を借りて、サバンナを走ってその部落に着いたら、シャーマンにお願いして花を貰ってくるよ。こんな白い花がサバンナに咲いているのは凄く不思議な眺めなんだろうな。花を貰ったら、すぐ日本に引き返して来るよ。鞠に食べて欲しいから。足りなかったら何度でも取りに行く。それで鞠が自由に歩けるようになったら一緒に」
 僕はその先を言えなかった。いつしか鞠の顔は、諦めと優しさの混ざった笑顔になっていた。僕は自分がどんなに酷いことを言おうとしていたのかようやく気付いた。
「マハ、ヒトツバタゴの木は東アジアとアメリカにしか生えてないの知ってるよ。私ずっと深大寺のすぐそばに住んでるんだもの。ここにも何度も来てるし。今回は大失敗だね」
 僕は「マハだから」といってまた笑ってもらえるとでも思っていたのだろうか。鞠、ごめん、鞠、と謝り続ける僕に、鞠は言った。
「マハの小説読んだよ。あのヒロインは私でしょう? ねえ、マハ。あなたはもう、あなたの時間を進めないとだめ。あなたはまるで中学生のまま大人になっちゃったのね」
 これだから、女の子ってやつは。その時の僕は酷く傷ついた表情をしていたかもしれない。鞠は杖を持たない方の手で僕の頬に触れる。一瞬ふらついた鞠の身体を僕は支える。
「マハ、今までたくさんの物語をありがとう」
終わった。僕は思った。
「マハ、新しい物語を書いて。大人になったマハの物語が読みたい。私もリハビリ頑張ってみるから。そしていつかお母さんの国に生えてる、パパラシオの木を見せてくれる?」
 鞠は上目遣いに僕を見て、一瞬ののち、本当に輝く笑顔を見せてくれた。僕はそのまま彼女を抱き寄せた。まるで雪が急速に溶けていくような、身体中が熱い流れに支配されるような、素敵な感覚だった。
 「帰りに、蕎麦食べていこうか?」
 「いいよ。でも亀はなしだからね?」
 歩き出す僕らの影にヒトツバタゴの白い花弁が一枚、散り落ちた。雪はいつか溶ける。そして新しい大地に、僕は僕の物語を育てる。それが奇跡を呼ぶパパラシオの木になればいい。僕は祈った。

高橋 ヒゲスキー(東京都調布市/33歳/女性/会社員)

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