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<第4回応募作品>「なんじゃもんじゃの樹の下で」 著者:沢渡 ともみ

「はい、とろろとなめこ。あと、蕎麦湯ね」
 注文の蕎麦はすぐにきた。いそいそと薬味をのせ、箸先から逃げるなめこを追いかけていると、隣で洋太が苦笑した。へたくそ、と、店の人に木杓子を頼んでくれる。
「不器用だな、千尋は。ほんとに『ふつつかな孫』を、よろしくされちゃった」
 洋太は目元をほころばせ、会ったばかりの千尋の祖母の真似をした。
彼らの婚約の報告に、何をいうより先に、仏壇に線香を一本立てた祖母。白檀のくすんだ香りがただよう中で、孫娘をよろしくと、ふかぶか彼に頭を下げた。
 千尋は頬を少しふくらませ、蕎麦椀の底を探りつつ、洋太の顔を窺った。そこにいるのが誰か、改めて確かめるように。
 二人が腰をおろした床机の前には、小さな焚き火が燃えている。水車が回る蕎麦処か、野点の茶屋かと迷った末、花冷えの公園を抜けてきた彼らの心を惹いたのは、やはりこの火のあたたかさだった。
 と、春先の風に、蕎麦の湯気があおられて、洋太の眼鏡がさっとくもった。彼は静かに手を上げて、指先でくもりを拭いとる。
 千尋はそれをじっと見つめた。その指先は、さっきまで、確かに別のものだった、と。
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 それは、花見客で賑わう神代植物公園の門をくぐり、しだれ桜の並木道のあたりまで来たときのことだった。
 千尋はふいに、静けさを感じた。
 二人の周りにはたくさんの人がいて、滝となってほろほろ零れおちるしだれ桜を、みな浴びるように見上げていた。談笑する人もいたけれど、どの声も奇妙に遠かった。
 気づいたときには、父と手をつないでいた。
 さっきまで触れていた、少し汗ばんだ洋太の手はどこにもない。かわりに握っていたのは、日向くさく、かさかさとかわいた手。
 ――そうだ。私たちは今日、野川沿いの祖母の家に行った帰り、ここへどんぐりひろいにきたのだっけ。千尋はぼんやりそう思い、けれどもすぐに頭をふった。
 違う。それは二十年も前のこと。父はもう、とうに亡くなった。今、私と一緒にいるのは洋太のはず。洋太はどこ? 問いかけようとするが、声にはならない。
「どうした? 疲れたのか」
 上から、父の声が降ってきた。振り仰いだ目の高さに、皺のよったポロシャツのお腹。背が、いつのまにか縮んでいる。もう少し首を傾けると、黒ぶち眼鏡の、紛れもない父の顔が、こちらを見つめていた。
 貝や石、蝉の抜け殻に、おもちゃの鉄砲弾。そんなものを集めるのが、父が教えてくれた何より楽しい遊びだった。二人で変なものをひろって帰っては、いつも母を呆れさせた。それは確かに、その頃のままの父だった。
 見回せば、公園も秋の景色に変わっている。足元に散り敷いた落ち葉の、あたたかな重なりの陰から、父はどんぐりを一粒ひろうと、千尋のほうに差し出した。
 彼女は急に身構えた。父が亡くなってからというもの、幾度となく見た夢を思い出して。
 たとえばふらりと会社から帰ってきて、何もなかったように父はいうのだ。ずっと外国に出張してたんだ。事故? 何の話だい。
 でもそれはいつも嘘で、いつも夢は消えてしまう。ただ、「おとうさんはもういない」という事実だけを残して。 
 今日もまた、何かが父のふりをして、私を騙しにきたのかもしれない。千尋は思った。
 そんな彼女の緊張が伝わったかのように、父はちょっと困った表情を浮かべ、心もち、つないだ右手に力をこめた。
「これ、何の実だかわかるか」
「え」
「なんじゃもんじゃの実だよ」
 千尋は差し出された手のひらの上を見た。
 へえ、変な名前。あの頃なら、きっと素直にそう答えたろう。が、今の彼女は知っていた。人の名前も算数の答えも、わからないものは全部「そりゃなんじゃもんじゃだな」とごまかすのが、いつもの父のやり方だった、と。それで何度、はぐらかされてきたことか。
 が、そんな疑いを見透かすように、父は、ただにやりとしてみせる。そして、さえぎる間もなく、次々にどんぐりをひろいはじめた。
「これも、これも、これも。ほら、なんじゃもんじゃがいっぱいだ」
 そう言って、どんどん先に歩いていく。父は様々な実をひろっては、ズボンのポケットに押し込んだ。と、奇妙なことに、父のポケットはふくらまず、千尋のスカート――もうとっくに捨てたはずの、サスペンダーつきの綿のスカート――のポケットが、少しずつふくれていくのだった。彼女はそれを布の上からまさぐりながら、父の後を追った。
 青空を掃くパンパスグラスの茂みを踏み分け、ばら園の小径を抜けるうち、千尋は誰を追っているのか、次第にわからなくなってきた。父の背中は、時おり点滅するように、洋太の背中を映し出す。千尋の中でも、桜を見上げる今の自分と、どんぐりを探す幼い頃の自分とが、ぐるぐる渦を巻きだした。
 頭上にかぶさる桜の梢は、淡白い花に満ちあふれては、またみっしりと赤い焼け色に紅葉する。まわりのあらゆる樹々たちも、一瞬で二十年分の背丈を伸ばしては、即座にするする枝を縮めた。まるで二本のフィルムを、映写機でいっぺんに回しているかのように。
「ちょっと、待って」
 いつのまに早足になったのか、だんだん息が切れてきて、千尋は父を呼び止めた。
 そこは、深大寺門のあたりだった。父は門の脇に立ち、娘が来るのを待っている。俯く視線の先をたどると、二人の間を隔てるように、どんぐりの海が広がっていた。
 ひろってもひろっても、ひろいきれないほどのどんぐり。それは遠い日、親子をひどく昂奮させた、宝物のような眺めだった。
「ほら、好きなだけひろえ」
 ズボンの脇で手をふくと、父は海ごしにそう呼びかけた。千尋は駆けよろうとしたが、なぜか、どんぐりを踏むことができなかった。
 いつのまにかぱんぱんになったポケットの重さを持てあましつつ、彼女は叫んだ。
「もういい、もう十分ひろったよ。それより、こっちに戻ってきてよ」
 その声は、大人の千尋のものだった。対岸の父は、驚いたように目をみはる。そして、少しだけ寂しそうにいった。
「そうか」
 そうだよ、千尋は心の中でまた叫んだ。
 すると、父が声もなくいうのがわかった。
 よかった。そんなら、もう帰ろうな。
 ――その瞬間、やわらかな春の匂いが勢いづいた。急速に、秋の空気を塗りかえる。
 千尋ははっとして、足元のどんぐりに手を伸ばした。しかしどの実も、もうひろうことはできなかった。
 どんぐりはみな、地面に根を張っていた。殻が割れ、みずみずしい薄緑の実がはじけ、細い双葉が立ち上がる。それらは思いがけず強い力で土をつかみ、決して離れようとはしないのだった。
 父は呆然とする娘を、静かに見守っている。
 千尋は、もう取り返しがつかないという思いと、強い切なさとに襲われた。
 行ってしまう。まだ、大切な何かを忘れているような気がするのに。
 ……そうだ。会ってほしい人がいる。今、一番、誰よりも、父に会わせたい人が。
 私は、あれから、とても大事な人に会ったのだ。
 待って、あと少しだけ。
 けれども、父は戻らなかった。
 そのかわり、明るい何かが、春一番の嵐のように、彼女をめがけて吹きつけた。
「へえ、すごいね、コナラが芽を出してるよ」
 それは、洋太の声だった。
 同時に、ぱん、と膜が破れるように、世界が再び裏返った。
        *
 くもりを拭うと、洋太は眼鏡をかけ直す。
 あのときから、彼はずっと彼のまま。
 ――あれは一体、何だったのだろう。
 千尋は、ますますじっと、洋太を見つめた。
「なんだよ」
 ううん。かぶりをふって、食べ終えた器を机に置く。洋太は首をかしげたが、二つの器に蕎麦湯をつぐと、携帯電話を取り出した。
 ゆっくり開き、ほらほら、と彼女に写真を見せる。その中に、小さな小さな芽があった。
「面白いな。どんぐりって、こんなふうに芽を出すんだね。これが大きな木になるなんて、少し不思議な感じだな」
 しきりに感心しているその様子が、何だか妙に可愛くて、それがなぜだか嬉しくて、千尋も「そうだね」と頷いた。

 鼻をなで、湯気がふわりと立ちのぼる。
 その上に乗せ、幻の余韻を、天に送った。
 ――おとうさん、もう、大丈夫だよ。
私はちゃんと見つけたから。まだ、ほんのちっぽけなかよわい芽。でも、それにさえ、ともに喜べるこのひとを。
 風は冷たくても、あたたかな土に守られて、その芽は茎を伸ばすだろう。
 やがて茎は幹となり、水と光にむくむくとみなぎる。二人の上に枝を張り、深緑の葉をそよがせる。そこに宿る鳥の鳴き声を聞いた気がして、千尋はふっと微笑んだ。
 洋太に向かって、軽く器を持ち上げる。
 彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに気づいて応えてくれた。
 蕎麦椀を、グラスがわりにこつんと鳴らす。
「カンパイ」
 何に育つかわからない、なんじゃもんじゃの樹の下で、そして二人は乾杯をした。

沢渡 ともみ(埼玉県越谷市/25歳/女性/会社員)

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