<第4回応募作品>「深大寺で逢ひませう」 著者:増子 哲人
だるま市から降り出した雨は、二日過ぎても降りやむ様子はなかった。
深大寺裏門側にある、高台の小さな蕎麦畑の溝を雨水がえぐるように流れていく。
時刻は午後一時過ぎ。火の気のない物置小屋で、震える脛を抱いていても仕方がない。
約束の時間には、一時間ほどあったが、清は油障子を引いて、女が待つ深大寺の本堂へと向かった。
幸子と会うのは、五年ぶりだった。
清が深大寺村を出たのは、十五の頃。”金の卵”ともてはやされ、浅草で店を構える和傘職人のもとへ徒弟奉公に出されて以来、会っていない。
親方は本場・加賀で修業を積んだ男だった。朝晩は掃除、飯炊き等でこき使われ、日中は骨作りやろくろなど、傘作りの工程を厳しく仕込まれた。見慣れ聞き慣れで、拳固で殴られることも日常茶飯事。乱暴な下町なまりが染みつく頃には、清の体にがっしりとした肉がつき、背丈も五寸ほど伸びていた。
幸子も変わっただろうか――。
頭に残るのは、ふっくらとした頬。人懐っこい垂れ眼がちの瞳、野良仕事で真っ黒になった手。しかし、浅草の寺町を歩く十八の娘は、皆一様に眩しく見える。村娘とはいえ、少しは女らしくなってるはずだ。
右手には、清がこさえた和傘があった。
歌舞伎の演目”助六由縁の江戸桜”の主人公・助六が使った傘と同じ。
農家の娘には少し派手かもしれないが、きっと喜ぶにちげえねぇ。
心臓が早鐘のように打ち、泥道を踏む音が次第に大きくなってくる。
この日を待っていたのだ。清は藁葺きの山門をくぐった。
幸子と最後に会ったのは、浅草へ旅立つ前の晩のことだ。清が早めに床につこうとすると、幸子が訪ねてきた。
「寝入りばなに、気の利かねぇヤツだな」
両親の手前、わざと不機嫌な言葉を吐いて戸を開く。外は春雨だった。
濡れた幸子が萎れるように立っていた。
「こんな遅くにどうしたんだい?」
「キヨちゃん、ごめんね。明日早いのに…」
聞こえていたらしい。慌てて首を振った。
「いや、別に…、いいんだ。別れの挨拶に来てくれたんだろ。ありがとな」
「うん…」幸子は頷くと、深くうつむいたまま、それ以上言葉を発しなかった。
「ちっと歩こう」しとしと降る雨粒を背で受けながら、二人は無言で歩き出した。
自然と足は深大寺へと向いた。山門がうっすら見えてくる頃、不意に幸子は顔を上げた。
「明日から、油屋さんの所でお世話になることになったの」
村一番の豪農の屋号を上げた。
「ちゃんが金を借りて、返せなくなったから、住み込みで畑や台所を手伝うんだ」
幸子の父が、胸の病で働きが悪くなっていることは聞いていた。
「だ、大丈夫か?」声が大きくなった。
清は女を知らなかったが、大人たちの会話から、油屋の主人が下女に手をつける男だということは知っていた。
清の表情から、心情を悟ったようだ。幸子は耳を真っ赤に染め、顔の前で手を振った。
「奥様もいるし、器量の悪いあたいなんて、箸にも棒にもかからないから」
「そうならいいけど…、気をつけろよ。お前より若い子を孕ませたって噂も…」
そこまで言って、ませた口を利く自分が好色に思えて、口をつぐんだ。つられて、幸子の態度もぎこちなくなった。
「それじゃ、あたし、もう帰る」
「帰る方向は一緒だろ」
清はまだ話足りない気がしていた。
幸子は清の問いには応えず、ぺこりと頭を下げると、背を向けた。すると今まで感じたことない気持ちが沸き上がってきた。
物心ついた頃から、小さな村で家族同然に暮らしてきた。でも明日になれば、幸子と気軽に会うこともできなくなる。雨に叩かれる幸子の後ろ姿がいじらしく思えた。
清は水たまりを割って走り出した。
「五年だ、五年辛抱してくれ」
追いついて、肩を掴んだ。振り向いた幸子は、目を見開いた。
「奉公を終えたら、必ず戻ってくる。五年後の今日、また会おう。なっ、約束だ」
一拍置いた後、すがるように見つめ返す瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「いつ…、どこで会うの?」
「深大寺の本堂だ。時間は昼の二時」
「きっとだよ」何度も確かめようとする幸子の両手が、清の手に重ねられた。
その手の温もりは、雨音と共に清の中へしっかりと根を下ろし、いつしか辛い職人修業の支えとなっていった。
「おかしなこと、考えてはいないだろうね」
母の米が探るような目で、幸子を見た。
「おいで、和彦」三歳になる孫を呼び、母の前に立たせる。
「この子まで不幸にするつもりかい。あたしも油屋のことは好かんが、生きていくためには、絶対に側から離れたらいかん」
情に流されてはならぬと、米は諭すように繰り返した。
「分かってるわよ。今この家を放り出されたら、どうなるかってことくらい――」
幸子が油屋で働くようになって、数ヶ月が過ぎた頃、油屋の妻が流行病で亡くなった。
幸子が身の回りの世話をすることとなり、油屋の触手が幸子に伸びた。
翌年に和彦が生まれ、貧困にあえぐ両親も、油屋の離れへ身を寄せることとなった。
どっぷりと油屋の金に浸かっている今の私を見て、清はどう思うだろう。
五年前の夜にかわした約束は、半端なものではなかったと思う。幼い二人が夫婦になろう、と誓い会ったわけではないが、心が痛いほどに重なるのを感じた。
油屋に身を任せるたび、あの人に会うまでの辛抱だと思えたからこそ、耐えることができた。
けれども、今日深大寺に行かなければ、私を待つ人は誰もいなくなる。明日からは平坦な暗闇が広がり続けるだけだ。
雨脚が衰えつつあった。幸子は意を決し、身支度を整えると、母の隙をみて母屋を出た。
和彦に対する負い目がなかったといえば、嘘になる。が、一旦家から出ると、若葉に落ちた滴が跳ね返るように、幸子は走った。
雨に洗われた参道脇の緑は濃く香り、湿り気を帯びた石は黒々と輝き始める。
この日を待っていたのだ。心浮き立つ自分を押さえきれなかった。
ただ、すでに時刻は午後四時過ぎ。あの人は、もう帰ってしまったかもしれない。
裾を捲り上げ、山門を駆け上がると、本堂には青白い顔で座り込み、頬杖をついている男がいた。清である。幸子が走り寄ると、弾けるように立ち上がった。
堰き止めていた思いが、一気に溢れ出た。その胸へぶつかるように、幸子は飛び込んでいった。清の胸板は厚く逞しかった。
「会えてよかったぜ。お前のこたぁ、一日たりとも忘れたことはなかった」
懐かしい匂いに包まれ、言葉が震えた。
「あたしもよ。ずっと…、ずっと待ってた」
確かめるように、両腕へ力を込めた。
「たまげるほど、別嬪になりやがって。待てど暮らせど来ねえから、約束を忘れたか、はたまた、どこぞの嫁になったかと思ったぜ」
そう清が囁いて、頬を寄せようとした時、幸子は身を固くした。汚れきった自分には、その資格がないと思った。
清も慌てて身を引いた。
「す、すまねえっ。つい昔のつもりでよ」
「いえ、違うの。悪いのは、私…、ごめんなさい、本当にごめんなさい…」
「おい、おい、めそめそ泣くなって。俺も浅草で、カ、カカァが待ってるのに、助平心を出しちまった。こっちこそ、すまねえ…。そうそう人生、思い通りにいくわけねぇよな」
清は末尾を飲み込むように言った。
「そうだ。今思い出したんだけどよ。明日朝一番で仕事があってな、今からとんぼ帰りさ。
小さな村だ。誰かに見られるといけねぇ、おめぇもさっさと帰りな」
この人と夫婦になっていたら、どんなに幸せだったことか。切なさが込み上げてきて、失った物の大きさを知った。
「キヨちゃん、もう一遍だけ、約束して」
清との糸が、ぷつんと切れてしまえば、それまでだ。
「お願いだから、五年たったら、再びこの深大寺で会うと…」
傘も差さずに、あばよと走り出そうとした清の袖をひっしと掴んだ。
嘘でもいい。清との約束があれば、生きてゆける。
「おっといけねえ、コイツを渡さずに帰っちまうとこだった」
清は笑顔を作ると、朱色と白の円が織りなす色鮮やかな蛇の目傘を押しつけてきた。
開くとパリパリと音がして、油の匂いが広がった。作り手の心を映し出すきめ細かな作り。勿体なくて、差せやしない。
「気にせず差せよ。五年後にゃ、もっと出来のいい傘を持ってくる。もしかしたら十年、いや、それ以上になるかも知れねぇけどよ」
胸が詰まった。深大寺に来たのは、間違いではなかったと心から思った。
「じゃあな、今度こそ行くぜ」と歩き出した清に、二日ぶりの薄日が降り注ぎ始めた。
微かに震えながら遠ざかるその背中へ、幸子は「ありがとう」と呟いた。
増子 哲人(東京都世田谷区/35歳/男性/会社員)