<第4回応募作品>「夏の喉越し」 著者:野中 賢
「腹、減ったァ!」
靫彦は大声で言うと、隣を歩く僕の顔を見て、ヘラッと笑った。力の抜けた、無意味で柔らかい笑顔だ
った。
僕等は、深大寺水車館の前を通り過ぎて、鬼太郎茶屋の方向に歩いている所だった。
陽が傾いて観光客の姿が減ったからか、ひぐらしの鳴き声が大きく聞こえた。空も木々も建物も、打ち水された石畳も赤く染まり、一日の余韻を味わうような、穏やかな空気が通りに流れていた。
「声がデカイよ」
「お前、気にしィなのなァ」
「お前が、しなさ過ぎんの」
「でも、お前のそうゆう所、オレ、好きよ」
靫彦は言って、再びヘラッと笑った。
「ヨモギモチが好き」と、違いがないのは分かってる。でも、面と向かって言われた好きに、何と返していいのか分からなかった。僕は口に拳を当てて咳払いした。
夏休みの宿題に出た自由研究の為に、神代植物公園に来た帰りだった。植物の写真撮影と資料集めを終えると、靫彦が水車館を見たいと言い出した。
なんであんな物が見たいのか、僕にはまったく分からない。渋る僕に、靫彦が必死に頼み込んだ。言う事を聞かなければ、座り込んで泣き喚きそうな勢いだった。仕方ナシにやってくると靫彦は、大きな水車に、頭のネジが飛んだようにはしゃいだ。
バカと子供はデカイ物が好きだ。
僕は少し呆れてそれを見ていた。でも、そのはしゃぎ方は、なんだか見ているこっちも楽しくさせて、なかなか帰ろうとは言い出せなかった。
僕は、頭を振りながら鼻歌を唄う靫彦を見た。中学の三年間ずっと一緒のクラスだ。性格も趣味も考え方も違うのに、出会ってすぐに仲良くなり、何故かいつも一緒だった。
「なあ、蕎麦、食おうよ」
「鬼太郎のトコで、ぜんざいでも食えよ」
「バカだなァ。お前、賢いのにバカな」
「何で?」
僕はムッとして言った。頭の作りはトカゲ程度と言われる靫彦に、バカ呼ばわりされたくなかった。
「こんなに腹減ってんのに、ぜんざいぐらいで足りる訳ねェじゃん」
「お前の腹の空き具合なんて知らないよ」
靫彦は立ち止まってじっと僕を見つめた。戸惑って見つめ返すと、靫彦はヘラッと笑った。僕もつい笑い返す。靫彦は歩き出した。
「おいっ!」僕は靫彦に駆け寄って言った。「今の何だよ?」
「何だか怒ってるぽかったから……いつもオレが笑うと、だいたい許してくれるじゃん。だから笑ってみた」
靫彦は、あっけらかんと言った。僕は自分の気持ちを見透かされた気がして、気恥ずかしさからカッとなった。
「何だよ、それっ!」
「どこで食う?」
僕の声に被せるように、靫彦が言った。僕は言葉を失って靫彦を見つめる。靫彦は、僕がカッとした事に気づいた様子もなかった。
「あれ? 今、何て言った?」
僕は笑い出した。靫彦が不思議そうに僕を見た。僕はいつだって、靫彦に敵わない。
「何、何? 何が面白れェの?」
「顔」
「そりゃ、お前の立派な顔に比べればね」
「立派な顔って何だよ」
僕がそう言うと、靫彦は両手で僕の頬を挟んで、息がかかるほど顔を近づけた。僕は金縛りに合ったように動けなくなり、息をする事さえできなかった。
「お前の顔って、本当に丁寧に作ってあるよねェ。ゲーノー人になれば?」
湯気が出そうなほど顔が熱くなり、心臓の音が、周囲の雑踏の音をかき消すほど大きくなる。靫彦は、僕の動揺に気づかないのか、気にしていないのか、じっと僕の顔を眺めながら「てーねーなのねェ」と、バカみたいに呟いた。
「放せよっ!」
僕は靫彦の手を振り払って、勢いよく身を引いた。背中が、通りかかった老婆にぶつかり、老婆の持っていた紙袋が落ちた。
「あ、ごめんね、バーチャン」
言ったのは靫彦だった。僕は動揺が収まらず、声を出す事さえ出来なかった。靫彦は、飛びつくようにして紙袋を拾い上げ、ニッコリと微笑んで老婆に渡した。
「ホント、ごめんね」
靫彦が言うと、老婆は靫彦の笑顔につられて微笑んだ。しかしすぐに、謝らない僕を睨んだ。
「こいつ、繊細で人見知りだから、すぐに声が出ないのよ」
靫彦は言って、僕の背中を叩いた。
それを合図に僕が勢いよく頭を下げると、老婆はびっくりして身を引き笑い出した。
「ね、面白いでしょう? こいつ」
老婆は笑いながら靫彦に向かって頷き、僕等二人に頭を下げて歩いて行った。
「お前が悪いんだからな」
老婆の姿が小さくなってから僕が言うと、靫彦は不思議そうな顔をした。
「急に……顔なんか近づけるから……」
「ダルマがある蕎麦屋にしよう」
「聞いてる?」
「オレ、あそこの味噌おでん、好きよ」
「蕎麦じゃないの?」
「蕎麦と味噌おでんを食うんだ」
「夕飯、食えなくなるぞ」
「だって、いっぱい食って幸せそうなオレの顔がいいって、前に褒めてくれたじゃん。オレ、お前に褒められるの嬉しいんだ」
靫彦は軽い口調で言った。
僕は、呆気にとられて立ち止まった。誰かのたった一言が、こんなにも嬉しく思える事を、僕は知らなかった。
靫彦は立ち止まると、右手を腰に当て、左手を大きく振って僕を呼んだ。本当は、僕の気持ちを全部知っていて、からかってるのかもしれない。そんな訳ない。靫彦は何も考えていないだけだ。
僕は何だか悔しくなり、わざとゆっくりと歩いた。靫彦はじれたように、僕が近づいてくる間、ずっと体を揺すっていた。
「おせェよ。わざとゆっくり歩いてさァ」
「先行く、お前が悪いんだろう」
靫彦が不貞腐れた顔で黙り込み、僕はそれを見て小さく笑った。そのまま観光案内所を通り過ぎて、蕎麦屋の前に来ると、靫彦は亀島弁財天池に顔を向けた。
「井の頭公園のボートって、縁切りだって言うじゃん?」靫彦が言った。「あれって、弁財天が嫉妬するから?」
「確か、そんな話だったね」
「じゃあさ、ここも縁切り?」
「深大寺は縁結びだよ……それに、亀島の由来知らないの?」
靫彦はコクンと頷いた。
「昔、娘の彼氏が気にいらない親が、娘を離れ小島に閉じこめたんだよ。島に行く方法がなくて困った彼氏が神様に祈ると、亀に変身した神様が、背中に乗せて島に連れてってくれたんだって。神様が助けてくれるなんてスゴイ奴だって、親も彼氏を認めて、二人は結ばれましたって言う話だよ」
「お前、お話、上手だね」
靫彦が感心した口調で言った。
「それは今、関係ないじゃん」
「じゃあ、ここは縁結びなんだ?」
靫彦は念押しするように言った。
「何? 誰か好きなコがいんの?」
僕は、わざと明るい口調で言った。そうしないと、嗚咽に声が震えそうだった。
靫彦の顔が、あっと言う間に赤くなる。その反応に、思わず僕まで赤くなった。
「蕎麦、食おうぜっ!」
靫彦はそう怒鳴って店の中に飛び込んだ。僕はその背中を見送り、弁財天池を見た。池の方向から風が吹いて、慰めるように僕の髪を揺らした。
分かり切った結末だ。そもそも最初から、この思いを口にするつもりはなかったじゃないか。僕は自分に言った。
行く先をなくした僕の思いが、喉と胸に支えた。息をする度に、堅くて、重くて、熱いその塊の角が当たって、喉と胸が痛む。靫彦が店の中から大きく手を振り、僕を呼ぶ。僕は微笑んで手を振り返した。
靫彦がヘラッと笑った。
蕎麦が、思いの支えた喉をスルリと通りますように。
僕は弁財天に願った。
野中 賢(東京都豊島区/38歳/男性/会社員)