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<第4回応募作品>「ナナセミドリのつぶやき」 著者:加瀬 ヒサヲ

 採用担当者はわたしより二十歳は若いだろうか、履歴書を見ながら質問を続けた。
「それでは、以前は新宿のデパートで和菓子の販売をされていた、と」
「はい、定年で退職しましたが、店長を五年させていただきました」
「オープニングスタッフということで、スタッフも皆一から勉強していくのですが、あなたがこの職場で生かせる強みと言うと何ですか?」
 わたしは、にっこり笑顔でこう言った。
「忍耐です」

 一か月後、研修を経て、わたしはコーヒー店の店員となった。
 今風に言うと、カフェのキャストになった。
 このカフェには、店長を含めて八人のキャストがいるが、わたしは当然最年長である。
 調布駅前にオープンした初日は開店から勤務に入っていたが、まあすごいにぎわいだった。何でも地域でも待望の本格的なカフェということで、わたしたちはコマネズミのように働いた。
 初日ということで当然トラブルも発生する。オーダーを間違えて戸惑う(『テンパる』と今は言うらしい)女の子のキャストのフォローに回ったり、空いた席にすぐ座ってもらえるよう片付けに行ったり、レジで待たされていらいらしているお客さんに謝ったり、コーヒーを作るよりそんな仕事の方が大半を占めた。
「ハルノさん、こんな状態が毎日続くのかなあ」
 ゆっこちゃんという十九歳のキャストが音をあげると、わたしはこう答えた。
「そのうち落ち着くでしょう。大丈夫、何とかなるわよ」
 もうすぐ五時になろうかという頃、梅雨の晴れ間の暑い日差しもようやく傾きかけてきた。レジに入っていたわたしのところに、一人の年配の男性がやってきた。
「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか?」
 男性は黙ってうなずいた。
「ご注文がお決まりでしたらお伺いします」
「アイスコーヒー」
「大きさはいかがなさいますか?」
「普通」
 わたしは「トール」のキーを押しながら、その男性がどこかで見たことあるような…と思っていた。
「お会計、320円になります」
 男性は黒い皮の小銭入れから400円出した。ゴツゴツと骨張った大きな手だった。
「80円のお返しになります。あちらのカウンターでお品物が出てくるのでお待ちになってください」
「ナナセさん?」
 その言葉にどきりとして、男性を見ると、大きな目がこちらを見ていた。
 ナナセは、わたしの旧姓だった。
「もしかして…長谷川くん?」
 男性はこっくりうなずいた。
 高校の同級生だった長谷川くんと、わたしは四十年ぶりに再会した。

 それから長谷川くんは、月曜になると店にやってきた。店も一週間ほどで落ち着いたが、午後はそれでも忙しく、あまりゆっくり話す時間もなかった。頼むのはいつもトールのアイスコーヒー、席が空いていればソファで一時間ほど新聞を読みながら飲んでいた。混んでいればカップを手に持ちふらりと出て行った。しばらくはそんな時期が続いた。
「えー、ハルノさんってもうお孫さんいるんですか?」
 月曜日の開店前、店内の掃除をしながらゆっこちゃんがびっくりしたように声を上げた。
「もう三歳になるわよ。男の子だからやんちゃ盛りで」
「でも娘さん夫婦と同居なら、何かと安心ですよね。わざわざ働かなくてもいいんじゃないですか?」
「みんなそう言うけどね、わたしにとっては自立は人生のテーマだったのよ」
 そのときはそれだけ答えた。蝉の声はおしゃれなボサノバでかき消されていたが、今日も暑くなりそうだった。
 夕方、店のゴミ箱の片付けをしていると、長谷川くんが席を立ちこちらに近付いてきた。
「お預かりします」わたしは笑顔で空のカップを受け取った。
「ナナセさんは、そばはお好きですか」
 唐突な長谷川くんの問いに、私は少々めんくらった。
「好きですけど、それが、何か?」
「深大寺の『水月庵』で、私そばを打ってるんです。今度食べにきてください」
 そう言って、長谷川くんは店を出て行った。やや薄くなった白髪頭が見えなくなったとき、はじめてわたしは、長谷川くんが高校卒業後に調理師学校に進学したことを思い出した。
 深大寺。私たちが通った高校も、深大寺の近くにあった。ここ数年行っていなかったが、行こうかな、と思った。

 仕事が休みの水曜日、お昼時にわたしは深大寺を訪ねた。高校までは毎年のように初詣に行ってたが、卒業後ぱったり足が向かなくなった。その後結婚して金沢に行って、十数年暮らしたが、夫と別れて娘を連れて都内を転々とした。両親が亡くなり実家に戻ってきたころ、ようやく離婚が成立した。
 深大寺では、自分と家族の健康を祈ってきた。この年になると、もっぱら願いはそんなものだ。土産物屋などをひやかしながら、わたしは水月庵に向かった。
 バス停から五分ほどのその店は、ひっそりとたたずんでいた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」カウンターから長谷川くんがのぞいてあっと目を丸くした。わたしはにっこり微笑んだ。
 幸いすぐに席に通され、お冷やとおしぼりが運ばれてきた。
「もりそばお願いします」
 盛り一丁ーっと三十代くらいの女性の店員さんがカウンターに声をかけると、へいっと長谷川くんの返事が響いた。店内は会社勤めのおじさんや、深大寺詣での後らしいわたしぐらいの奥様方など、落ち着いた雰囲気だった。
 しばらくして、もりそばがやってきた。そばのざると、つゆの瓶とそば猪口、薬味の皿。ざる以外は、伊万里だった。割り箸を手に取り、ぱちんと割って、さっそくそばを一口すすってみた。
「…おいしい」
 一人だったのでそれからは黙々と食べた。そばはコシがあってのどごしがよく、つゆも辛すぎず食べやすかった。ネギとショウガとわさびを加え、簾からの風を感じながらそばを食べた。女一人でそばを食べられるようになったのは、いつ頃からだろう。そう思ったのは、ざるが空になって一息ついたときだった。
 店員さんがお冷やのお代わりを持ってきたので聞いてみた。
「このお店はいつからやっているんですか?」
「店自体は三十年くらいですね」
「わたし、あの長谷川さんと高校の同級生だったんですよ」
「そうなんですか。あのとおり、まじめな親方で、そば一筋ですよ」
「わたしが働いてるコーヒー店で偶然会って。びっくりしました」
「そういえば、言ってましたよ。駅前にできたカフェに、知り合いが働いていて驚いたって。ああ、それが奥様ですか。お若いですねえ」
『奥様』という響きが少々居心地悪かったが、私はあいまいに微笑んだ。
「お会計!」
 そこに長谷川くんの声が響いて店員さんはあわててレジに戻った。わたしが長谷川くんに会釈すると、長谷川くんもばつが悪そうに目礼した。
「とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございます」
「長谷川くんはお変わりないですね」
「ナナセさんもお元気そうで」
「あ、その名字変わったんです。今はハルノです。まあ今は独り身ですけど」
「すみませんでした」
「いいえ、いいんです。長谷川くんにそう呼んでもらえると、少し若返ったような気がします」
 そう、わたしは長谷川くんと再会して、少し若返ったのだ。「少し」だから、昔ほど無茶はできない。でも、今だからできることもあるのだ。
 わたしは伝票を手に会計に向かった。
「ありがとうございました」
 店を出るとき、店員さんとともに長谷川くんがお辞儀をした。
 
 そして月曜日の夕方、レジを終えると、ちょうど五時になっていた。
「お疲れさまでした」
 わたしは制服から私服に着替え、ロッカーを出た。長谷川くんはソファで新聞を読んでいた。
 その背中に近付きながら、わたしは言うべき言葉を考えてどきどきしていた。
 積もる話は山ほどある。だからこそ、ゆっくり歩けばいいじゃないか。
 彼と会うときだけ、わたしは七瀬みどりになれるのだから。

加瀬 ヒサヲ(東京都/29歳/女性)

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